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――それで、いい。
ただひとつだけ、心に残った。
ひとりで外に出る、という選択肢はないのだと。
それは言葉にされることなく、静かに刷り込まれていった。
高人の隣でなければ、外には出られない。
それが当たり前なのだと、日向は疑わずに受け入れてしまった。
そして高人は、その小さな変化に気づかぬまま、日向の手を離さなかった。
――守っているのだと、信じて。
高人の出張が決まった朝、日向は何度も同じ言葉を聞いた。
「外には出ないで。
何かあったら、必ず連絡するんだよ」
優しい声。
けれど念を押すように、重たい響き。
日向は小さく頷き、精一杯の笑顔を作る。
「はい……いってらっしゃいませ」
馬車が見えなくなるまで手を振り、扉が閉まると、屋敷は急に静かになった。
人の気配が薄れた廊下に、日向の足音だけが小さく響く。
(……静か……)
胸の奥が、少しだけひんやりする。
不安と、寂しさと、
それから――別の感情。
部屋に戻り、机の上の小さなカレンダーに目を落とす。
高人の誕生日まで、あと少し。
(……お返し、したいな……)
祝ってもらったこと。
ブレスレットをつけてもらった時の、あの穏やかな声。
嬉しくて、胸が温かくなった。
でも――。
(言ったら、止められる……)
一緒に行こうと言えば、必ず同行される。
ひとりで行きたいと言えば、きっと怒られる。
前に、そうだった。
日向は無意識に手首のブレスレットに触れる。
ひんやりとした感触が、現実を思い出させる。
(……少しだけなら……)
ほんの短い時間。
すぐ戻れば、きっと大丈夫。
そう自分に言い聞かせ、外套を羽織る。
誰にも声をかけず、静かに扉を開けた。
屋敷の外の空気は、少し冷たくて、少し怖い。
胸がきゅっと縮む。
それでも、一歩。
また一歩。
(高人さん、喜んでくれるかな……)
その顔を思い浮かべながら、日向は街へ向かって歩き出した。
それが、後に大きな波紋を呼ぶことを――
この時の彼女は、まだ知らなかった。
高人は出張先の執務室で、ふと手元の端末に視線を落とした。
忙しなく処理されていく書類の山。その中で、ひとつの表示だけが、どうしても目に引っかかった。
――屋敷の外。
一瞬、思考が止まる。
次の瞬間には、指先が強く端末を握り締めていた。
「……日向?」
低く漏れた声は、誰にも聞かれていないはずなのに、ひどく重い。
確認するまでもなかった。
あのブレスレットは、屋敷の敷地外へ出ることを想定していない。
高人は即座に屋敷へ連絡を入れた。
⸻
異変に気づいたシュシュは、電話を手にしたまま全力で走った。
路地の向こう、小さく背を丸めて歩く日向の姿が見える。
「日向様……っ!」
息を切らしながら駆け寄り、そっと受話器を差し出す。
「……高人様から、です……」
その言葉を聞いた瞬間、日向の身体がびくりと震えた。
恐る恐る受話器を握る。
「……も、もしもし……」
返ってきた声は、怒鳴るでも荒げるでもない。
けれど、静かすぎるほどの低さが、逃げ場を塞いでいた。
『今、どこにいる』
「……っ……」
『ひとりで外に出るな、と言ったよね』
息が詰まる。
言葉を探そうとするほど、喉が固く閉じていく。
『何かあったら、どうするつもりだった?』
責めているわけではない。
それなのに、追い詰められていく感覚だけが強くなる。
『……帰りなさい。すぐに』
それだけ言って、通話は切れた。
日向は小さく「……はい……」と呟き、急いで屋敷へ戻った。
⸻
夜。
部屋の明かりを落としても、日向の目は閉じられなかった。
電話越しの声が、何度も頭の中で繰り返される。
――ひとりで行くな。
――どうするつもりだった?
呼吸が浅くなり、胸が苦しくなる。
過去の記憶が、音もなく重なっていく。
「……っ……は、ぁ……」
息が吸えない。
涙が溢れ、震える唇から名前が零れた。
「……高人、さ……」
その声が届いたかのように、扉が勢いよく開く。
「日向!」
高人は靴も脱がぬまま駆け寄り、ベッドの上で苦しむ日向を抱きしめた。
「大丈夫だ。もう大丈夫」
背を撫で、呼吸に合わせて声を落とす。
「怒って……ごめん。でも……心配なんだ」
その腕は強く、離す気配はない。
日向は胸に顔を埋め、泣きながら首を振った。
「……だ、黙って……行って……ごめんなさい……」
「つ、次からは……ちゃんと……伝えます……」
高人は返事の代わりに、さらに腕に力を込める。
「それでいい。
俺が全部、受け止めるから」
その言葉は優しく、そして――
知らず知らずのうちに、深い独占を孕んでいた。
高人が仕事へ出たあと、部屋は静かだった。
日向は机の上に残された書類に気づき、はっと息を呑む。
「……これ……」
手に取ったそれは、明らかに重要そうだった。
届けた方がいいのだろうか。
外に出ること自体、まだ少し怖い。
(でも……高人の、役に立ちたい……)
胸の奥で、小さな気持ちが揺れた。
迷っていると、ぱたぱたと足音が近づく。
「日向様!どうしましたか?」
シュシュだった。
事情を説明すると、彼はぱっと顔を明るくする。
「一緒に行きましょう!ちゃんと連絡しますね!」
尻尾がぶんぶんと激しく揺れる。
すぐに連絡を入れ、少しして返事が来た。
『本当は……外に出てほしくないけど』
受話器越しの高人の声は、少しだけ低かった。
『今、手が離せない。持ってきてくれると嬉しい』
日向の胸が、きゅっと鳴る。
「……はい……」
「わかりました!」
シュシュが元気よく返事をすると、
『任せたよ』と高人は短く言った。
外へ出るのは久しぶりだった。
それに、高人以外と二人きりで出かけるのは初めて。
馬車に乗り込んだ瞬間、日向の指先は冷たくなっていた。
街の音、人の気配、揺れる景色。
(だいじょうぶ……高人のため……)
そう心の中で何度も繰り返しながら、
日向はぎゅっと書類を抱きしめた。
シュシュは隣で変わらず尻尾を振りながら、
「ゆっくりで大丈夫ですよ!」と笑っていた。
その笑顔に、日向はほんの少しだけ救われた気がした。
高人の職場は、日向の想像よりもずっと大きく、人の気配に満ちていた。
高い天井。
行き交う人々。
忙しなく響く足音。
「……っ」
思わず足が止まる。
胸の奥がきゅっと縮まり、息が浅くなる。
「日向様、大丈夫です!」
シュシュが振り返り、にこっと笑って手を引く。
「高人がいますから!」
その言葉に、日向は小さく頷き、一歩踏み出した。
廊下の先――
こちらへ向かってくる人影。
日向が持つ書類に、高人の視線が止まった瞬間だった。
一瞬だけ、彼の表情が強張る。
「……日向」
低く、短い声。
次の瞬間には、足早に近づいてきていた。
「無事?」
その一言に、胸が少しだけ軽くなる。
日向は慌てて書類を差し出す。
「は、はい……。あの……書類……忘れていたので……」
高人はそれを受け取りながら、無意識に日向の肩へ手を置いた。
距離が近い。
守るようで、囲い込むような立ち位置。
「ありがとう。でも……外は疲れただろ」
「だ、大丈夫です……」
日向は小さく首を振る。
「高人の役に立てて……よかったです」
その言葉に、高人は一瞬だけ言葉を失った。
周囲の視線に気づいたのか、彼は眉をひそめ、日向を背に隠すように立つ。
まるで、見せたくないものを隠すかのように。
シュシュは空気を察し、そっと一歩下がった。
高人は日向の耳元へ顔を寄せ、低く囁く。
「……次からは、必ず先に言って。心臓に悪い」
叱責ではない。
けれど、強い不安と独占が滲む声。
「……ごめんなさい……」
日向は俯き、それでも続けた。
「でも……高人の役に立ちたかったです……」
高人は息を吐き、日向の頭にそっと手を置く。
「……それは、嬉しい」
ほんの一瞬だけ、優しい声。
だがすぐに、念を押すように言う。
「でも無茶はしない。約束だ」
「……はい」
小さく頷く日向を見て、ようやく高人はシュシュへ視線を向けた。
「すぐ屋敷に戻って。俺も仕事を片付けたら帰る」
「はい!」
尻尾がぶんぶんと揺れる。
去っていく日向の背中を、高人は最後まで見送っていた。
視線を外すことなく。
胸の奥で、静かに思う。
(……やっぱり、外に出させるのは早かったか)
その感情が“心配”なのか、“独占”なのか――
本人だけが、まだ気づいていなかった。
日向が屋敷へ戻る馬車を見送ったあと、執務室の空気が微妙に変わったことに、高人はすぐ気づいた。
書類に視線を落とすふりをしていても、周囲の気配がざわついているのが分かる。
「……さっきの方」
控えめな声で、後輩が話しかけてきた。
「もしかして、高人様の……」
一瞬の迷い。
高人は小さく息を吐き、淡々と答えた。
「……ああ。俺の嫁だ」
その一言で、空気が弾けた。
「えっ!? 結婚されてたんですか!?」
後輩の声に、周囲の数人が一斉にこちらを見る。
高人は表情を崩さないまま、書類を整えた。
「公にはしていないだけだ」
「そうだったんですね……! じゃあ今度、ぜひうちの嫁と会わせたいです!」
その言葉に、高人の手が一瞬止まる。
脳裏に浮かんだのは、外に出るだけで緊張し、声が詰まってしまう日向の姿だった。
「……日向が嫌じゃなければ」
慎重に選んだ言葉。
後輩はすぐに頷く。
「もちろんです! 無理はさせません。ゆっくりで!」
その返事に高人は小さく頷きながらも、胸の奥に引っかかるものを覚えていた。
(知らない人間を、これ以上増やしていいのか……)
理由を言葉にできないまま、その違和感を飲み込んだ。
屋敷に戻ると、高人は真っ先に日向の姿を探した。
見つけるや否や、ほっとしたように歩み寄る。
「疲れてない? 息苦しくないか?」
矢継ぎ早の問いに、日向は少し慌てて首を振る。
「だ、大丈夫です……」
それでも高人は納得しきれない様子で水を持ってきて、ソファに座らせた。
自然な動作のはずなのに、距離はやけに近い。
「今日は外に出ただけで十分だよ。よく頑張った」
そう言って、そっと頭を撫でる。
その手はすぐには離れなかった。
「……高人の役に立てて、嬉しかったです」
小さな声でそう言われた瞬間、高人の表情が一気に緩む。
「……それなら良かった」
少し間を置いて、低い声で続けた。
「でも次は、ひとりで抱え込まなくていい。俺に頼って」
日向は戸惑いながらも、静かに頷いた。
その夜、高人はいつも以上に日向を甘やかした。
食事は好みに合わせ、片付けもすべて自分で引き受ける。
「今日は何もしなくていい」
そう言って、まるで外の世界から守るように日向を包み込む。
眠る前、高人は日向を抱き寄せたまま囁いた。
「俺がいる。大丈夫だ」
日向が眠りに落ちるまで、その腕が緩むことはなかった。
それが過保護なのか、独占なのか。
高人自身は、まだ気づいていなかった。
数日後の夕方。
執務室で、高人は後輩に呼び止められた。
「会長、あの……今度、嫁同士で会わせてみませんか?」
その言葉に、高人の手が一瞬止まる。
嫁同士――つまり、日向と後輩の妻。
「無理にとは言いません。ただ、うちの嫁が一度ご挨拶したいって」
高人はすぐには答えなかった。
日向が他人と会うこと。
それが負担にならないか、怖がらないか――考えが頭を占める。
「……検討する」
それだけ告げ、その場を終えた。
屋敷に戻ると、高人は日向の様子を確かめるように視線を向ける。
静かに過ごしているが、以前より表情は柔らかい。
「日向」
名を呼ぶと、日向は少し驚いたように顔を上げた。
「今日、後輩から話があった。……その、嫁同士で会いたいそうだ」
「無理なら断る。嫌なら、行かなくていい」
慎重な声だった。
日向は少し考え、指先をぎゅっと握る。
「……あの……」
「会って、みたい……です」
その小さな言葉に、高人の胸がざわつく。
嬉しいはずなのに、どこか落ち着かない。
「……わかった。俺も近くにいる」
約束の日。
後輩の妻――ミアは、穏やかな笑顔の女性だった。
「初めまして。私ミア。無理しなくて大丈夫ですよ」
その一言で、日向の肩の力が少し抜ける。
会話はゆっくり進んだ。
間が空いても、誰も急かさない。
「このお茶、好きなんです」
「……わ、私も……」
共通の話題に、日向の声が少しずつ自然になる。
笑う回数も、増えていった。
別れ際、ミアが柔らかく言う。
「また、会えたら嬉しいです」
「……はい」
日向は少し照れながら、確かにそう答えた。
帰り道、高人の隣で日向がぽつりと呟く。
「……お友達、できたかもしれません」
高人は微笑んだ。
けれど胸の奥に、小さな棘のような感情が残る。
(よかった……はずなのに)
誰かの世界が、日向の中に増えていくこと。
喜ぶべきだと分かっていながら、
高人はそっと、日向の手を強く握りしめていた。
それから、ミアと日向は数日おきに屋敷で顔を合わせるようになった。
午後のやわらかな光が差し込む応接室。
並んで座り、湯気の立つ紅茶を前に他愛のない話をする。
ミアは急かさない。
日向が言葉を探して黙り込んでも、遮らず、ただ待つ。
「……この前の、お茶……美味しかったです」
そう言えたとき、ミアはにっこり笑った。
「うん。また一緒に飲もうね」
それだけで、日向の胸はあたたかくなる。
誰かと“約束”をすることが、こんなにも心を軽くするなんて――知らなかった。
その様子を、高人は遠くから見ていた。
執務室の窓越し、あるいは廊下の角から。
日向がミアに向ける柔らかい笑顔。
自分にはあまり見せない表情。
胸の奥が、ちくりと痛む。
(……あんな顔、してたか)
理由は分からない。
ただ、落ち着かない。
その日のうちに、高人は佐久間光一を呼び出した。
「この案件、君に任せる。ついでに、こっちもだ」
「……量、結構ありますね」
「できるだろう?」
淡々とした口調に、佐久間は頷くしかなかった。
数日後、少し遠方への出張命令が下る。
「人手が足りない」という、もっともらしい理由と共に。
結果として、ミアも同行することになり、夫婦そろって屋敷を離れた。
(最近、会長……なんか厳しくないか?)
佐久間は内心そう思ったが、口にすることはなかった。
ミアと会えなくなった日向は、理由を知らないまま呟く。
「……お仕事、大変なのかな……」
その声を聞いていたのは、高人だけだった。
寂しそうな横顔を見て、胸が少しだけ痛む。
それでも、高人は自分に言い聞かせる。
(これでいい。
日向のそばにいるのは……俺だけでいい)
自覚のない独占欲は、
静かに、確実に深くなっていった。
久しぶりにミアと向かい合って座る午後のカフェは、穏やかな香りに包まれていた。
湯気の立つ紅茶を前に、日向はほんの少しだけ肩の力を抜いている。
ミアはカップを両手で包み込み、しばらく迷うように視線を落としたあと、静かに口を開いた。
「ねえ……ちょっと、聞いてもいい?」
その声に、日向は顔を上げる。
「はい……?」
「佐久間がね。最近、元気がなくて。誰かに意地悪されてるみたいなんだけど……」
言葉を選ぶように、ミアは続けた。
「日向、何か知らない?」
その瞬間、胸の奥がひやりと冷えた。
はっきりとした理由はない。ただ、頭の奥で何かが繋がってしまった。
怒鳴り声。
理不尽な言葉。
殴られる痛み。
前世の記憶が、突然よみがえる。
――力のある人間が、弱い立場の人間を追い詰める光景。
脳裏に浮かんだのは、高人の顔だった。
「……ごめんなさい」
日向は小さく首を振る。
「分からないです」
それ以上、何も言えなかった。
*
その夜。
日向は眠れずにいた。胸の奥に引っかかった違和感が、どうしても消えなかった。
意を決して、高人を呼び出す。
部屋に入ってきた彼を前に、日向はまっすぐに問いかけた。
「……佐久間さんに、嫌がらせしてるって本当ですか?」
高人の動きが止まる。
一瞬、言葉を探すように唇が動いたが、何も出てこない。
「どうして、そんなことをしたんですか」
声は静かだったが、震えていた。
「……私の、せいですか?」
沈黙が落ちる。
その沈黙が、日向の心を少しずつ追い詰めていく。
「……私が」
拳を強く握りしめる。
「私が、一番嫌なことをしたの?」
高人は答えられなかった。
その沈黙が、答えのように感じてしまった。
「……今は、一緒にいたくないです」
そう告げると、高人は苦しそうに息を吸い、
「ごめん」
とだけ言った。
日向はゆっくりと首を傾げる。
「それは……何に対しての『ごめん』ですか?」
返事はなかった。
「……もういいです」
背を向けた日向の背中に、
「待って!」
と高人の声が追いすがる。
けれど、日向は振り返らない。
「……着いてこないでください」
その一言は、拒絶であり、精一杯の防衛だった。
部屋に残された高人は、何も言えず、ただその背中を見送ることしかできなかった。