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ゆうき あきや
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#心理描写重視
第1話:ブラック企業からのログアウト
午前3時45分。
オフィスを照らす無機質な蛍光灯の光が、乾ききった網膜をジリジリと焼いていた。
「……っ、ぐ……」
キーボードの上で指を動かそうとした瞬間、強烈な動悸が胸を打ち据えた。
心臓が早鐘のように鳴り、冷や汗がどっと背中を伝う。
視界の端がぐにゃりと歪み、モニターに羅列された細かいエクセルの数字――今日対応した何百件ものクレーム処理件数が、まるで蠢く虫の群れのように見えた。
『エスカレーションの対応くらい自分で処理しろ! 明日までにこの報告書、全部終わらせとけ!』
数時間前に浴びせられた、鼓膜を突き破るような上司の怒声が脳内でリフレインする。
コールセンターの責任者(SV)として、月200時間を超えるサービス残業。
休日は半年以上取得していない。食事はデスクで流し込むエナジードリンクと栄養ゼリーのみ。
38歳。
働き盛りと呼ばれる年齢のはずだが、鏡に映る自分の顔は、生気を完全に失った老人のようだった。
気づけば人生の最も貴重な時間を、このコンクリートの牢獄でただクレームの防波堤として使い潰されるためだけに費やしていた。
「……あ、これ、死ぬな」
ふと、冷静な声が頭の奥で響いた。
比喩でもなんでもない。このままあと数日ここにいたら、俺は確実に過労で倒れる。
そして、そのまま二度と目を覚まさないかもしれない。
会社の歯車として使い潰され、誰にも看取られずに過労死する。そんな結末が、はっきりとビジョンとして見えた。
その瞬間だった。
俺の中で、ピンと張り詰めていた何かの糸が、プツンと音を立てて切れた。
「……辞めよう」
掠れた声が、誰もいない深夜のオフィスに落ちた。
怒りも、悲しみもなかった。ただ、圧倒的な『生存本能』だけが俺の体を突き動かしていた。
俺は震える手でマウスを操作し、いつか限界が来た時のためにとデスクトップの隅に保存してあった『退職届』のPDFファイルを開き、無音のプリンターで印刷した。
それをクリアファイルに挟み、上司のデスクのど真ん中に叩きつける。
続いて、自分のデスクに戻り、会社支給のスマートフォンとインカム、社員証を放り投げた。
そして、ポケットから私用のスマートフォンを取り出し、迷うことなく電源を長押しした。
画面が暗転し、ブツッと震えて沈黙する。
上司からの深夜の鬼電も、クレーマーからの理不尽な罵声も、もう二度と俺に届くことはない。
「……ログアウト、完了」
パソコンの電源ケーブルをコンセントから荒々しく引き抜き、俺は最低限の荷物だけを入れたビジネスバッグを提げて、オフィスに背を向けた。
振り返ることは一度もしなかった。
数日後。
俺は、見渡す限りの大平原を走るローカル列車のボックス席に揺られていた。
窓の外に広がるのは、どこまでも続く真っ青な空。
高い建物など一切ない、地平線の彼方まで続く広大な大地。
そこは、東京から遠く離れた北の大地、北海道の十勝地方だった。
あの夜、オフィスを飛び出した俺は、そのままの足で不動産サイトを開き、以前から密かに「お気に入り」に入れていた物件を即金で買い叩いた。
価格は、貯金を崩せば余裕で買えるほどの激安価格。
限界集落に近い田舎町にある、築数十年のボロボロの古民家だ。
「次は〜、終点〜」
車内アナウンスに促され、俺は列車を降りた。
ホームに降り立った瞬間、冷やりとした、しかしどこまでも澄み切った空気が肺の奥深くまで入り込んでくる。
排気ガスも、淀んだ人混みの匂いもない。ただ、土と風と、かすかな木の香りがするだけだ。
「……ははっ、本当に来ちゃったな」
無人駅の改札を抜け、俺は不動産屋から郵送されてきた地図を頼りに歩き始めた。
すれ違う人はほとんどいない。たまに軽トラがのんびりと通り過ぎていくだけだ。
30分ほど歩き、集落の端、裏山に面した場所にその家はあった。
写真で見た通りの、色褪せた瓦屋根と、少し傾いた木造の古民家。
庭には雑草が背丈ほどまで生い茂り、完全に放置されていたことが窺える。
しかし、俺にとってはどんな高級タワーマンションよりも輝いて見えた。
ギィィ……と、立て付けの悪い引き戸を開けて中に入る。
埃っぽい空気が舞ったが、嫌な感じはしない。
縁側に腰を下ろし、俺は大きく、本当に久しぶりに、深く深呼吸をした。
「……静かだ」
電話の鳴る音もしない。
キーボードを叩く音もしない。
誰かの怒鳴り声も、電車の騒音もない。
聞こえるのは、裏山の木々が風に揺れるザワザワという音と、遠くで鳴く鳥の声だけ。
「今日から俺は、ここで生きていくんだ」
誰にも縛られず、時間に追われず、自分のためだけに生きる。
激務に潰されかけた俺の、第二の人生。
絶対的なストレスフリーの、最高のスローライフが今、ここから始まる。
俺はごろんと縁側の木の床に寝転がり、見上げるほど高い北の空を眺めながら、数ヶ月ぶりに心からの笑みをこぼした。
まさかこの翌日、この荒れ果てた庭で、とんでもない『もふもふの同居人』を拾うことになるとは、この時の俺はまだ知る由もなかった。
コメント
1件
みぅです🤍🥀 第1話、読みました。 もう冒頭から、心臓がぎゅってなる感じがすごくて…午前3時45分の蛍光灯の描写とか、ちゃんと“死ぬ”って悟る瞬間の冷静さとか、本当にリアルで胸が痛かったです。でも「辞めよう」って決めて、スマホの電源を切ってログアウトする場面、すごく清々しくて、読んでるこっちまで息ができた気がしました。 北海道の十勝、古民家の縁側で見上げる空…もう、その静けさだけで癒されました。 最後の“もふもふの同居人”って何だろう…続き、すごく気になります🌙