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イースターホリデーの初日、リビングのソファでテレビを見ていたリアムは、上の部屋から響いた物音に天井を見上げて微苦笑する。
その物音の原因を理解しているために立ち上がると、階段を上って物音の発生源へと向かうと、己の予想通り、ベッドの下で腰を押さえながら蹲っている慶一朗を発見し、傍にしゃがみ込んでおはようと苦笑する。
「モーニン、ケイ。大丈夫か?」
「・・・・・・シャイセ」
朝から素敵な挨拶だなと、思わずリアムが皮肉を言ってしまうような言葉を絞り出した慶一朗は、立ち上がろうとして失敗し見事に落ちてしまったベッドに戻ろうとするが、腰を中心とした主に下半身の痛みに立ち上がれず、涼しい顔で見下ろしてくるリアムに手を伸ばす。
「・・・立てない」
何処かの誰かさんが手加減もせずに全力で抱いてくれたおかげで体中が悲鳴を上げている、手を貸せと上目遣いに睨むことで伝えた慶一朗にリアムが素直に頷くと、掛け声一つで慶一朗を子供のように抱き上げる。
「あ、こら!」
「手を貸せといったのはお前だろう?」
だから手を貸したと笑うリアムだったが、昨夜の痕跡が色濃く残る素肌を曝け出したままもさすがに目のやり場に困ると気づき、ベッドに慶一朗を下した後、バスルームに駆け込んで予備のバスローブを手に戻ってくる。
「・・・Danke.」
「Bitte.・・・気に入ったのなら使えばいい」
何ならお前専用にしてもいいと笑うリアムからバスローブを受け取った慶一朗は、少しだけ羞恥を感じながら袖に腕を通し、やはり長いと、朝一番の気の抜けたような笑みを浮かべる。
その笑顔に昨夜のことを思い出したリアムが一瞬何かを堪えるような顔になるが、どうしたと首を傾げられ、何でもないと返しながらもう一度慶一朗の痩躯を抱き上げる。
子ども扱いとはまた違う感覚を覚えつつ、こうして抱き上げられる事に慣れてしまった慶一朗は、リアムのセットされていない髪の感触を楽しむように撫で、リビングのソファに座らされて昨日と同じように膝を抱えて座る。
「今何時だ?」
「そろそろ12時だな」
腹が減っているのならランチの用意をするがどうする、どこかに食べに行くかと、これもまた昨日と同じように床に座ったリアムの言葉に考えるように天井を見上げた慶一朗は、腹は減っているが正直外に出る気力がないと苦笑し、ヘイゼルの瞳を見下ろす。
「・・・体力が有り余ってるのか?」
「お前よりはあるだろうなぁ」
それにしても、昨日のお前は本当に可愛かったと、座面に頬杖をついてにやりと笑う愛嬌のある顔に端正な顔を近付けた慶一朗は、男に向かって可愛いと言うなと鼻息荒く言い放ち、馬鹿にされているようでその言葉は嫌いだとも告げると、驚いたようにリアムが目を見張るが、確かにそうだと前言を撤回する。
「これは失礼、Mein Kaiser.」
「・・・皇帝陛下か。悪くないな」
可愛いより百倍も良いと笑う慶一朗だったが、その腹の辺りから盛大な音が響き、二人同時に顔を見合わせて笑い出す。
「どうやら陛下の腹も減っているようですし。何か食べますか?」
前言に倣った言葉遣いで慶一朗に手を差し出したリアムは、その手に自然と手が重ねられた事に無意識に安堵の息を零し、己が不安を感じていたことに気付く。
その不安は、昨日の告白の後、これから俺たちはどうなるんだという耳を疑うようなことを問われ、付き合ってくれという言葉の意味を本当に理解しているのかという疑問から生まれたものだった。
もしも、ハーバーブリッジの下でここにくれば日本に帰りたくなると、感傷的になると教えてくれたが、その感傷から付き合っても良いと思ったのではないか。
それ以前に、何かにつけ付き合ってくれと言い続けていた事で、断ることも面倒になったから付き合うことにしたのではないか。
その不安が、熱に浮かされた一夜を過ぎて冷静になった朝、眠っている慶一朗を見ながらリアムの胸に生まれてしまったのだ。
慶一朗の身体が痛みを訴えるほど抱いてしまった昨日、掠れた声で愛していると告白された筈なのに、生まれた不安を解消することができなかった。
その不安から重ねられた手を握りしめて腕を引き、バスローブに包まれた体を抱きしめる。
「どうした?」
「・・・飯を食ってからで良いから、少し話をしたい」
「今でも構わないけど?」
腹が減っているときに話さないほうがいい真剣な話なら後で聞くけれど、今話を聞いても大丈夫だと小首を傾げた後、リアムの広い背中を緩く抱きしめた慶一朗は、どうした、何か不安なことがあるのかと囁き、抱きしめられている腕に力がこもった事に気付いて小さな笑い声を零す。
「・・・リアム、リーアム」
「・・・・・・」
「俺が生まれて初めて・・・好きになったお人よしのマッチョマン、顔を見せろ」
何の不安を感じているのか分からないが、昨夜のあの自信はどこに行ったと、リアムの頭を胸に抱きよせるように背伸びをした慶一朗は、背中を抱く腕の強さに苦しさを感じつつもどうしたと優しく囁きかけ、ランチの前に解消してしまおうとも囁くと強引にリアムをソファに座らせ、有無を言わさない強さでその顔を見下ろし足の上に座り込む。
そして、己に思い当たる一つの質問を、冷静さを装いながら問いかける。
「・・・やっぱり、俺と付き合うのを、止めたいか?」
「Nein!そうじゃない!」
自分でもおかしいと思っているが、さっきお前が俺の手に手を乗せてくれた、それが凄く嬉しかったんだと、羞恥から口早に叫ぶリアムに呆然と目を見開いた慶一朗は、俺がずっと好きだと言い続け、笑ってくれと言い続けたから迷惑に感じていたんじゃないか、仕方ないから付き合ってやると思っていたんじゃないかと不安だったと、慶一朗からすれば信じられないほどの素直な言葉を聞かされて絶句してしまう。
その言葉は、少し前にリアムの気持ちに応える自信がないと双子の兄に愚痴をこぼした際、兄の恋人の一央が、リアムも同じように不安を抱えているのではないか、不安や恐怖を感じているのは何も慶一朗だけではないのではないかと告げた言葉が的中していることを教えてくれるもので、無意識にあぁと溜息交じりの言葉を零した慶一朗は、無理強いしたくない、でもやっぱりお前が好きなんだと消え入りそうな声で告白され、リアムも己の中の不安と戦っていた事に気付くと、微かに震える手でリアムの顔を挟み、逃れられない距離で視線を重ねる。
「リアム────俺の知らないことを教えてくれる人」
どれほど馬鹿なことをやってもきっと笑顔で受け止めてくれる、この世にいるのが奇跡のような人、どうかそんな顔をせずに笑ってくれと、慶一朗が持てる限りの愛情を込めて囁いた後、額にそっとキスをし、驚くヘイゼルの双眸にもキスをした後、薄く開く唇にまるで誓いのキスのような神聖さを感じるキスをする。
「ケイ・・・っ!」
「約束する。お前が覚えた不安を、もう二度と感じる必要はない」
もうお前もわかっているように、俺が自分から好きになったのはお前が初めてだ、それも無理強いされた訳ではないと、リアムが一生覚えていたいと強く願ってしまう笑みを浮かべて囁くと、背中が痛みを訴えるほど強く抱きしめられる。
「苦しいぞ、リアム」
お前が全力を出せばどうなるかを昨日の夜に嫌という程味わった、だから少し力を緩めてくれと苦笑する慶一朗にリアムが力を緩めると、さっきキスをした額に額を重ねて小さな笑みで口元を彩る。
「ダンケ、リアム────Mein Stern.」
俺を知らない世界に導いてくれる人とリアムを呼んだ慶一朗は、驚いた後に顔をくしゃくしゃにする彼氏の頬にキスをし、昨日のあの自信に満ちた顔はどうした、イケメンマッチョと悪戯っ気のこもった声で笑いかける。
「・・・お前が悪いんだ、Mein Schatz!」
指摘された羞恥から顔を赤らめつつも俺の宝物と呼ばれた慶一朗は、ドラマや映画などで見聞きしていたその言葉をまさか己が言われるようになるとはと感慨深い思いを抱くが、言われて悪くないと気付き、己を導いてくれる星を胸に取り込むように抱きしめる。
「・・・もう、大丈夫か?」
「うん、もう大丈夫だ」
胸にぶつけられる声に陰りはなく、安堵のため息を無意識に落とした慶一朗は、そろそろ本格的に腹が減ってきた、何か食べさせてくれとその耳に囁きかける。
「ああ、そうだな」
「美味いものを食わせてくれたら、食後のコーヒーを淹れてやる」
「そうか・・・これから毎日お前の淹れてくれるコーヒーが飲めるのか」
あの美味いコーヒーを毎日飲めるなんて最高だと笑うリアムに慶一朗もそこまで手放しで褒めてくれるのは嬉しいと素直に笑い、再度頬にキスをすると立ち上がる。
そして、自然な動作で互いの腰に腕を回すと、ランチに何を食べたい、お前が作るものは何でも美味いだろうから楽しみにしてると、心の在処が一つ互いに理解できた安心感から自然と声を弾ませながらキッチンに向かうのだった。
リアムが用意したランチは、本人曰くの賄い料理に毛が生えたものらしいが、食べることに疎い慶一朗にとっては、お金を払って食べられる料理のように思えていた。
それらをダイニングテーブルに向かい合わせの席の中央に並べたリアムだったが、冷蔵庫からビールを二本取り出して後生大事に運んできた慶一朗がリアムのテーブルセッティングに不満を覚えたようで、二つしかない椅子の一つをもう一つの横に並べ、裏庭に出る掃き出し窓を並んで見ながら食べられるようにセットし直す。
「・・・並んで食べたいのか?」
「何となく」
向かい合わせで互いの顔を見ながら食べるのも悪くは無いが、今は横に並んで同じものを食べたいと、リアムが無意識に唾を飲み込んでしまうような顔で笑った慶一朗は、己の恋人になったばかりの家事全般何でもできるマッチョマンの様子に気付いてニヤリと笑みを浮かべる。
「・・・・・・腹が減ったからメシにしよう」
「そうだな」
今日はバーベキューグリルを出せないのでフライパンで焼いたが、それでも多分美味しいはずの分厚いハムにチーズを載せ、ジャガイモはスライスして玉ねぎと軽くソテーし、味付けにはビールに合うようにブラックペッパーを使ったと、椅子を引いて慶一朗に座れと促したリアムは、自分で出来ると目尻を少し赤らめる慶一朗の頬に後ろからキスをし、早く座れと笑顔で再度促す。
貴人や淑女じゃあるまいしと、口の中でぶつぶつ文句を言いながらもリアムが引いてくれた椅子に腰を下ろすと、丁度のタイミングで椅子が定位置に戻される。
隣にリアムが座るのを見計らい、ビールの王冠を開けた慶一朗は、ボトルを差し出して自らも手に取ると、乾杯と嬉しそうな顔でボトルの底をぶつけ合う。
「なあ、ケイ」
「何だ?」
リアムが味の確認をするように食べ始める横、慶一朗は美味そうにビールを飲むだけで料理に手をつけようとしなかった。
それに気付いたリアムが前と同じ作戦は通用するかなと考えつつ、ジャガイモをフォークで突き刺すと、慶一朗の顔の前に差し出す。
「味見」
「出来てから味見するのか?」
何か違うと笑いながら差し出されるそれを食べた慶一朗は、ビールに合うなと小さく笑った為、リアムが及第点を貰えたとニヤリと笑い、今度はハムを食えと差し出す。
その時の慶一朗にはこれが意味する事に気付いていたが、恋人になったばかりのリアムの心遣いに気後れと感謝とを感じてしまう。
「ほら」
「・・・ん」
リアムが作る料理は本当にどれも美味しくて、いつかも覚えた感想を口にすると、愛嬌のある顔に隠しきれない嬉しさが浮かび上がる。
その顔を見ていると何だか慶一朗も自然と笑ってしまい、気が付けばビールよりも先に料理を食べ終えていた。
ビールとコーヒーで出来ていると揶揄われるほどの少食である慶一朗が、そのビールを残して料理を食べるなんてと驚いてしまうと、リアムが美味かったかと当たり前のことを問いかけてきた為、彼の皿に残っていたハムを指で摘んで口に放り込む。
「あ! 残していたのに」
「好きなものなら最初に食えばどうだ?」
リアムの呆れたような顔に目を細めてイタズラが成功した子供の顔で笑った慶一朗だったが、こんなにも楽しい食事風景の中に己が入れる日が来るなんてと、まだ信じられない顔で呟くと、リアムが慶一朗の肩を抱くように腕を回し、これから二人で食べる時はずっとこんな感じなのかなと笑う。
「そうかもな」
「・・・じゃあ料理が出来たらまずケイに食べて貰わないと」
「味見ならお前の舌の方が正確だろ?」
リアムの肩に頭を乗せながらお前の方が味覚も正確なんだからと笑うと、お前に食べて欲しいのに俺の好きな味付けにしても仕方がないとあっさりと返されて瞬きを一つ。
「・・・そうか」
「うん、そうだな」
慶一朗にとってリアムのその言葉や考え方は想像できないもので、どうしてそこまで俺のことを考えられるんだと胸が柔らかく暖かな何かに締め付けられるが、口に出したのは、それならば職場で食べるランチをどうにかしてくれとの言葉で、どうして欲しいと問われて素直にお前の作るランチを毎日食べたいと答えれば、それに対する返事は言葉ではなく髪に落とされた口付けだった。
「────望みを一つ言え、Mein Stern」
お前が本当にランチを作ってくれるというのなら、それに対する望みを言えと顔を見ずに囁くと、出来るだけランチは一緒に食べたい、夜も一緒に寝たいと返され、一つじゃなくて二つになっていると笑うものの、その笑みを納めた後、リアムの腰に腕を回して可能な限りそうしようと頷く。
今まで食べてきた料理の味ははっきり言って理解できないものだったが、リアムと一緒に食べる料理は不思議と全ての味が感じられたのだ。
その時間が続くのであれば一緒に食事をし、その延長で夜を越えて朝を迎えるのも悪くないと、今までならば考えることすらしなかった日常の光景を思い浮かべ、じゃあコーヒーだけは俺が淹れると笑いながらリアムを見れば、予想通りの満面の笑みを浮かべていて。
ああ、本当に、この顔が好きだと胸中で呟き、心の奥底で小さな芽を出している何かわからない花に知らず知らずのうちに水を掛けるのだった。
イースターホリデーが終わりを迎え、日常の風景が街中や二人が勤務する病院にも戻って来る。
その病院の廊下を掃除しているメンテナンススタッフの女性に声を掛けたのは、連休明けの仕事は辛いと、全くそうは感じさせない笑顔の慶一朗だった。
「ハロゥ、ジーン。連休はどうだった?」
「あら、ドクター。楽しかったですよ」
ドクターはどうだったと、背後に研修医のアンディを従えた慶一朗に問いかけたジーンは、デイキャンプに初めて行ってきた、楽しかったと笑顔で返されて、それは良かったと頷く。
「さー、今日からまた頑張って働くか」
「ドクターも手術、頑張って」
「サンクス、ジーン。あなたに応援してもらえたから今日の手術はパーフェクトだな」
まだ理解出来ない顔で苦笑するアンディを肩越しに振り返った慶一朗だったが、そろそろ手術室に向かうかと伸びをすると、手術室がある廊下へと歩いて行く。
「今日の曲は何にするかな」
手術の終わりの前、儀式のように音楽を慶一朗は手術室に流すのだが、それを何にするかと呟いた時、廊下の向こうに遠目でも誰だか判別できる巨体を発見し、その隣に幼い少女を抱き上げる彼と似たような体格の男性を発見する。
「アンディ、先に行ってろ」
「え? あ、はい」
その二人が何を会話しているのかが気になるというよりは、男の腕の中で屈託なく笑う少女の笑顔に引き寄せられたように大股に近寄った慶一朗は、鍛えられている肩に背後から腕を乗せ、ハロゥ、リトルプリンセスと会話に割り込む。
「ケイ?」
「モーニン、リアム、プリンセス・エミリア」
「・・・ドクター・ユズ、お久しぶりです」
満面の笑顔の少女が嬉しそうに慶一朗に手を伸ばし、その手を取って軽く握手をする姿に、少女を抱き上げた男性も顔を輝かせ、久しぶりですと笑顔で返す。
「エミリアの調子はどうですか?」
「あの手術の後からすっかり元気になりました」
今は幼稚園で友人達と毎日楽しく過ごしていますと、リアムがこの病院に勤務するようになって初めて担当をした少女、エミリアとその父の言葉に二人が顔を見合わせた後、心から嬉しそうな顔で頷く。
「それは良かった」
「本当に、ありがとうございました」
今日は定期検診に来たのだが、お二人に会えて良かったと笑う父にエミリアも嬉しそうだったが、そろそろ診察に呼ばれるのでと丁寧に会釈され、二人も頷いて少女とその父を見送る。
少し前に救急搬送されて来た少年を救えず、己は役立たずだと嘲った慶一朗だったが、やっぱりお前は役立たずじゃなかったとリアムがポツリと呟き、その言葉が不思議な重さをもって心の中に落ちてくる。
「・・・そう、ありたいな」
「安心しろ、ケイ」
お前はいつでも誰かの役に立っていると、言葉で背中を押し力を分け与えてくれるリアムに頷いた慶一朗は、ここが家ならばハグもできるしキスもできるが、流石に職場でそれをする事は出来ず、だが感じた思いを伝えたい気持ちから、リアムがあの時手当をしてくれて今ではうっすらと傷跡が浮かんでいる手の甲を口元に押し当てた後、その手を鍛えられている胸元にトンとぶつける。
「────今から手術だ」
「そうか、頑張ってこい、ドクター・ユズ」
「ああ。ご褒美にランチボックスを期待してる」
周囲を患者やスタッフらが通り過ぎる中、ひっそりと二人だけが分かる会話を交わし、それぞれ手を挙げて背中を向けあって自分達を待っている場所へと向けて歩き出す。
慶一朗が手術室に入ると、スタンバイをしていたスタッフらが口々におはようと挨拶をし、それに一つ一つ返した後、気分を切り替えるように一度眼を閉じた慶一朗は、さぁ、今日もやりますかと、手術台で麻酔を掛けられて待っている患者に正対し、メスを手に取るのだった。
ランチタイムに裏庭に出るドアを開けた慶一朗は、夏の終わりを迎えそうな空に目をやった後、木の陰になっているテーブルに先に腰を下ろしている背中を発見し、待たせたと声をかける。
「ドクター・ユズがまた難しい手術を成功させたって噂になってるぞ」
「肩の荷が降りて良かった」
ニヤリと笑う愛嬌のある顔に不敵な笑みを見せた慶一朗が向かいに腰をおろすが、隣でなくていいのかと小さく問われ、あれは家で二人きりの時だけだと目元を赤らめつつ返す。
「今日のランチはバーガーだな」
「チキン? ビーフ?」
「肉ばかりじゃなくて野菜も食え、ケイ」
二人分のランチボックスを開け、バンズとトッピングの野菜やチキンを広げたリアムは、飲み物はお前が淹れてくれたコーヒーだと片目を閉じる。
「自分が好きな味のコーヒーは冷めても美味く飲める」
だからポットに入れて来たが多少冷めていても大丈夫と笑い、二つのコップにコーヒーを注いだ慶一朗は、先日二人で決めた約束がこうして守られている事が嬉しくて、トマトを挟んでくれても良いと告げ、まるで己の専属コックのようにリアムを見れば、見られた方も仕方がないと言いつつ希望通りのものを挟んでいく。
「今日の仕上げの曲は何にしたんだ?」
「ん? エミリアに会ったから今日はあの時の曲にした」
慶一朗が朝から臨んだ手術はリアムの言葉通り難しいものだった。
今までならばそんな難しい手術の後は気分を切り替えるためにハードロックの曲を流していたが、今日慶一朗が選択したのは、エミリアが好きだと言っていたアニメのテーマ曲だった。
新しい世界を見せてあげると歌うそれは、手術を頑張った少女へのご褒美にとリアムが希望した曲だったが、今日の手術の後、慶一朗が自然と思い浮かべた曲でもあった。
まさか自分がアニメの曲を流す日が来るなんてとおかしさを感じた慶一朗だったが、歌詞の内容に意識を向けた時、リアムと初めてここで出会い、手術の見学をさせた時に自分達の前で新しい世界の扉が開いたのだと気づく。
医師としては優秀だが、日常生活においては生活不能者とすら言われてしまうほど何も知らない、出来ない己を呆れるでも叱るでもなく受け入れてくれる、そんな人がいる世界など想像もしていなかった。
リアムに出会うことで開いた新たな世界への扉。
それを後方に振り返った慶一朗は、ほらと差し出されるバーガーと声に我に返り、どうしたと目を丸くされる。
「プリンセス・エミリアに感謝だな」
「ん?」
意味がわからないことをまた突然言うと眉を顰めるリアムに小さく笑った慶一朗は、自分のために作られたバーガーを手に取り、いただきますと小さく日本語で呟くのだった。
二人の頭上、夏の終わりを迎える寂寥感を与えない雄大な雲が風に乗ってゆっくりと形を変えて流れていき、その雲が作り出す陰と木々の間をわたる風の音に、二人誰にも邪魔をされずに過ごしたイースターホリデーで初めて体験したデイキャンプを思い出してしまい、またキャンプに行きたいと慶一朗がポツリと呟けば、嬉しそうにリアムもまた行こうと頷く。
そして、仕事が終わって一日の終わりを迎える時、日によってリアムの部屋になったり慶一朗の部屋になったりはするが、あの日交わした約束の通り、同じベッドで夜を越え朝を迎えるのだった。