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日下部が立ち去ったのは、それから数秒後だった。何も言わず、何も吐き捨てず、ただ一度だけ遥を見たその目が、忘れられないほど痛かった。
その痛みに、遥は気づいていた。
けれど、気づいていないふりをした。
「……ばっかじゃねぇの」
ぽつりと蓮司が呟いた。
その声には、怒りも、呆れも、あったかもしれない。
だがなによりも──興奮していた。
「ほんと、よくやるわ。……俺が、忘れてたくらいなのに」
「……べつに」
遥の声はかすれていた。
濡れた服のせいか、震えているのか、体が冷えてきていた。
「信じさせたかったんだろ、日下部に。お前が“俺のもの”だって」
遥は返事をしなかった。
否定でも、肯定でもなく──ただ、口をつぐんでいた。
蓮司がふっと笑う。
次の瞬間、遥の腕を引っ張り、裏手の倉庫の陰に押し込んだ。
「……ッ、なに、」
「風邪ひくだろ。着替えに行くついでに、──清算、しとくか」
蓮司はいつもの調子で言うが、目は笑っていなかった。
指先が、濡れた服の裾をつかむ。
「……何の、“清算”」
「さっきの演技代。嘘ついた分、身体で払えよ。な?」
その言葉が、軽く笑う調子であるほどに──遥は逃げられなかった。
足が、喉が、体のすべてが凍るようで、蓮司の手を払うことすらできない。
「……やめてほしいって言ったら?」
「言ってみろよ」
蓮司はそう言って、遥の頬に軽く触れる。
まるで“恋人”みたいに、優しく。
けれどその手のひらには、支配の温度しかなかった。
「……なぁ、ほんとにさ」
蓮司の声が、少しだけ低くなる。
「お前、俺のこと──“好き”なんじゃねぇの?」
遥は何も言わない。
否定したら、すべてが崩れる。
肯定しても、それは嘘だ。
だから、沈黙するしかない。
蓮司はその沈黙を見て、満足そうに笑った。
「……あーあ。こりゃ当分、遊べそうだな」
そして、濡れたシャツのボタンに指をかける。
遥の体がわずかに震えた。
それを、「演技崩壊寸前の可愛げ」としか見ない蓮司の目が、静かに光る。
──「恋人ごっこ」は、
演技の代償としての“支配ごっこ”へと、確かに形を変えはじめていた。