『今日も昼頃になりますと、最高気温70℃を超える見込みです。ですが、時間帯を選ばず日中は大変危険となっております。今日も先日同様に、日中の外出を控えてください 』
“今日もか……”
午前4時の夜明けに差し掛かる時間帯。とある薄暗い部屋で、シャーレの先生はテレビを見つめながら嘆いていた。平時は書類仕事に勤しみ、寝る合間もないほど多忙であるが故、しばしば目の下に隈をつくっていた彼だが、今日は……いやここ最近は珍しく目立った隈が見られない。 それもそのはず、彼が腰掛ける席の前のデスクに何も置かれないからだ。
何故明日にも雪が降りそうな事態が起こっているか。遡ること数日前……。
突如として空が赤く染まり、天地に黒き塔が聳え立ったあの日、色彩がこの世界へ訪れた日のことだ。しかしその時は現在のような異常現象は起こってはいなかったが……色彩を追い払って数日後、問題は発生した。
太陽により急激に気温が上昇し、生き物が外を歩けなくなってしまった。生徒であろうが獣人であろうが、お天道様の炎は等しく骨まで焼き焦がす。あまりにも突発的な異常現象のためか、初日は色彩襲来以上の被害状況となってしまった。建物は次々と発火し、草木は枯れる以前に灰塵と化し、大衆は炎に呑まれる。そのような阿鼻叫喚が目の前へと繰り広げられてしまったのだ。 DU地区復興途中のも相まって、その結果あらゆる文化が滅亡の危機に瀕してしまった。
勿論、シャーレの先生も被害者の一人である。己の大切な生徒が日の下に晒され、皮膚は爛れ、内臓は溶け、最悪の苦痛を味わいながら絶命する。無慈悲な事実をただ眺めることのしか出来ず、嘆き悲しみ、泣くことしか出来なかった……という悲劇を体験した、という訳ではない。ただ今までの生活が少し不便となったぐらいしか実感できていない。むしろ、書類仕事が少し減ったという利益が目立っている。
現在のシャーレは、仕事場を太陽から離れた1、2階に移し、当番を夜の時間に変更して程よく変わってしまった日課を過ごしている。
先生はテレビの情報を聞き流しながら、まだ残っている書類を片付けているとふと何かを思い出した。
“そういえば異常に暑くなった頃から、生徒達の間で妙な噂が行き交ってたな。確か……『夜に地面から人の皮を被った化け物がやってくる』って……何だか迷信みたいだな”
現れては消える生徒間のあらぬ噂。そんな気にも留めない小話の一つだ。何だか不気味だと思えるが……何だか子供に躾ける時に出す話のようだと、ふふっと綻んでしまった。
いつの間か日が昇る時間となってしまった。少しだけ残っている書類を整理させ、昼夜逆転してしまった体を癒す、休息をとる為にソファへ足を運んだその時。
「クックックッ。こんな落ち着かない世間でも相変わらず勤勉ですね」
“……何の用だ?”
苛立たせるような男の声。先生は反射的に先程まで腰掛けていた席へ目を向けると、いつの間にか黒服が現れ座っていた。実に数日振りの再会。先生にとっては会いたくもなかっただろうが。
「ククッ、そのような怖い顔を見せないでください。今回も伝言のようなものですから」
“伝言?”
「ええ。今にご時世、このように簡単に情報を聞き出せるには滅多にない事ですが……どうです?」
突然持ちかけられた提案。無闇に手を出したくはない、しかし確かに彼の言う通りこの現状で簡単に情報を集められるのはごく稀だ。それに黒服の事は信頼はしていないが信用はしている。
先生は返事をせず静かに黒服に近づき、対面の椅子に座った。
“それで、どんな情報を持ってきた?”
「そうですね……堅苦しい話となってしまいますので……酒のつまみにでもしましょうか?」
“はぁっ!?こっちは真面目に聞こうとしてんだぞ!?”
「ふむ。では、後程貰ってもいいでしょうか」
“……好きにして”
少々話が逸れてしまったが、やっと本題へ入る黒服は改めて手を組み口を開いた。
「色彩が来訪して以来の異常現象、急激な気温上昇の正体は、世界から覗く太陽のテクストを書き換えてしまった……と言ったでしょうか」
“……えっ、それだけ?”
肩透かしくらってしまった。この異常現象への的確な対処法だとか、普通はあり得ない、実行することができない重大な情報でも飛んでくると思っていたが……。先生は少し失望した。
「まあまあ、最後まで聞いてください。まだ確証を立てられませんが、一番有力であろう、という結論に至りました。正体に目処が立っている、逆に言えばこの異常現象を解消できる、そう解釈する事が出来ませんか?」
“……そういう事か。ならーー”
「しかし生憎、膨大な規模のテクストの書き換え作業は直ちに行えるのではありません。また私の専門外ですので」
“じゃあ、僕がやれと?”
「いえ、この事案はこちら側で。私が今は亡きゴルコンダの研究書でも漁って、解決法を模索します。発見から解読、実行までの過程を考えると……一カ月以内に粗方書き換え終える事ができます」
“えっ、一カ月以内に?手際良いな……”
しかしここである疑問が思い浮かぶ。既に解決法があるのならわざわざ先生に伝える必要はあったのか?思いがけず訝しめる顔を作ると……。
「ふむ、どうしてそんな事をわざわざ告げるか……と言いたげな顔ですね」
“……ああ。僕に頼るでもないなら、秘密裏に進めばよかったじゃないか?”
「今回も来訪はそれだけではありません。事を追って説明します」
先生は訝しめる顔を変えず、黙々と黒服の顔を見つめる。そんな熱い()視線を注がれた黒服は続けて語り出す。
「事実の二面性として、対をなす不明瞭という概念はつきものです。今回の騒動の発生と同時、大衆の間で『とある噂』が流行っているようです」
とある噂……その言葉に聞き覚えがあった先生は、図星かのようにビクッと体を揺らした。
「やはり。先生の情報収集能力が優れているか、生徒からの信頼が篤いか、或いは……」
“君はいつも話からシームレスに逸れるよな……”
「生徒が研究対象であると同時に、最も関わりのある先生も興味を注がれる存在ではありますから」
“はぁ……生徒の間で少し話題になってる噂……『夜に地面から、人の皮を被った化物が這い上がる』っていう噂でしょ?”
黒服の骨が折れるような与太話に観念し、先生は自ら答えを伝える。すると黒服は、
「ククッ!やはり先生ならご存知だと思っていましたよ。先生自身はその噂を眉唾物を、噂を噂だと率直に受け捉えているように感じます」
“……まさか”
「ええ、残念ながら貴方が覚える嫌な予感は的中しています。この噂は……紛れもない真実です」
虚偽だと信じたかった噂が、妙に信用してしまう存在によって断言されてしまった。先生は驚き固まってしまう。
「……生徒間で飛び交う噂の正体。それは気温の異常上昇と同時に目撃された存在。恐らく、テクストの書き換えによって生まれた存在でしょうが……」
“なんでそんなに言葉を濁す?”
「我々がその存在に接触を行っていないからです」
黒服の珍しい、自信のなさげな発言に先生は疑問を抱く。
「あの存在……。一般的に名義はされておりませんが、『来訪者』と名付けましょう。彼の者らは、今までに遭遇したどの生命体よりも……危険です」
黒服は言葉を一度止め、再び口を開く。
「噂通り、来訪者は突如として夜な夜な地面から這いずり現れは、単独で屋外を徘徊する未知なる存在です。彼の者らに共通して、キヴォトスの住民と酷く酷似した外見や人間性を有しています。ただし、本来は人間であらざる者であり、好んで人間を惨殺する化物です」
“それで……その来訪者っていう化物の対処法は?”
「彼の者らの出現によって、キヴォトスは太陽の異常化よりも重大な事項です。今の所、対処法は確立できておりませんが……少なくとも、来訪者は集団を嫌う習性ですので、ここシャーレになるべく多くの人間を集める行動が好ましいでしょう。しかし万が一、来訪者を招き入れてしまった場合……」
“もしも入れてしまったら……?”
先生が言葉の続きを待っていると、黒服は予兆もなく懐から黒いアタッシュケースが取り出され、先生の目前へと差し出される。そして黒服がケースを開けた先には……。
“……銃?”
アタッシュケースに入れられて物品は、キヴォトスの常識のお陰ですっかり慣れてしまった銃と弾丸だった。
「ベレッタ92。銃を触ったことのない先生でも簡単に扱えるハンドガンです。取り回しが良く、反動も少ない。手入れも簡単です」
“妙だ。一応敵である私に塩を送るなんて、どういう訳?”
「私は敵である先生を信頼し、尊敬して、この兵器を送ります。このハンドガン、正確に説明するなら、この弾丸は特別仕様です」
“どういう仕掛けを?”
「対キヴォトス人用殺傷弾です。たったの一発、頭に命中すれば即死します」
アタッシュケースに鎮座する無機質な鉄の塊。キヴォトスに来てから見慣れたはずのそれが、今だけは得体の知れない呪物のように見えた。先生は黒服の言葉の意味を咀嚼し、その上で最悪の結論に至る。そして、今まで押し殺していた感情が、堰を切ったように溢れ出した。
“ふざけるなッ!!”
ドンッ!と大きな音を立てて先生はデスクに拳を叩きつけ、勢いよく立ち上がった。静寂を保っていた部屋に、彼の荒ぶる呼吸だけが響く。
“僕が……生徒を撃てと!? たとえそれが人の皮を被った化け物だとしても、私には出来ない! 生徒の姿をした何かに、この手で銃口を向けるなんてこと、絶対に出来る訳がない!!”
先生の瞳には、怒りと、そしてそれ以上に深い悲しみが浮かんでいた。彼の役割は生徒を導き、守ることだ。どんな状況であれ、その命を奪う選択肢など、彼の信条に反する。ましてや、その対象が己が守るべき生徒の姿をしているなど、万死に値する冒涜だった。
しかし、先生の激情を浴びてもなお、黒服は表情一つ変えない。彼は組んでいた手を静かに解くと、まるで駄々をこねる子供を諭すかのように、ゆっくりと、そして冷徹に言葉を紡いだ。
「クックックッ… やはり、そう仰ると思いました。ですが先生、貴方は根本的な勘違いをしている」
“何だと……?”
「何度も仰りますが、あれは『生徒』ではありません。生徒の姿を、声を、恐らくは記憶の残滓さえも弄ぶだけの『捕食者』です。貴方がその感傷に浸り、引き金を引くのを躊躇う一瞬が、貴方自身の命を奪うことになるのですよ?」
黒服は淡々と、しかし核心を突くように続ける。
「そして、貴方が死ねばどうなるか? このシャーレという唯一の安息地を失った生徒達は、灼熱の地獄か、あるいは夜の化物共に蹂躙されるか……いずれにせよ、緩やかな死を待つだけです。貴方のその小さな正義感は、結果としてより多くの生徒を死に追いやる。その事実から、目を背けるのですか?」
“ぐっ……!”
言葉に詰まる先生。黒服の言うことは、紛れもない正論だった。だが、頭で理解できても、心がそれを拒絶する。生徒に似た何かを殺すという行為は、先生自身の魂を殺すことに等しい。
そんな先生の葛藤を見透かしたかのように、黒服は決定的な一言を放った。
「キヴォトスにおいて、銃を手に取るのは生徒の役割。彼女たちは自衛のために、友のために、日常のために戦います。しかし、その生徒達には決して撃てないモノを撃つ……それこそが、彼女たちを守り導く貴方という『大人』の、最後の責務ではありませんか?」
“大人の……責務……”
「ええ。生徒が涙を流す前に、貴方が血を流す。生徒が手を汚す前に、貴方がその罪を被る。そのための力です。そのための覚悟を、私は貴方に問うているのですよ」
黒服の言葉は、重い楔となって先生の心に突き刺さった。そうだ、自分は大人で、先生なのだ。生徒達に「後は任せた」と言って、全てを押し付けて良いはずがない。彼女たちが出来ないこと、彼女たちにさせてはならないことを、自分が引き受けなければならない。
先生は、わななく拳を強く握りしめたまま、ゆっくりと椅子に崩れ落ちた。怒りの炎は消え、代わりに冷たい決意の欠片が心に生まれ始めていた。彼はまだ、その化け物を撃てる自信はない。だが、撃たなければならない状況が来た時に、躊躇ってはいけない。その事実だけを、今はただ受け入れるしかなかった。
先生の沈黙を肯定と受け取ったのか、黒服は静かにアタッシュケースを閉じた。パチン、と乾いた音が、やけに大きく部屋に響いた。
「その銃は、貴方が生徒を守るための最後の切り札。使うか使わないか……それは先生、貴方自身がお決めになることです」
黒服はアタッシュケースをデスクの上に残したまま、音もなく立ち上がる。いつの間にか、彼の背後の空間が黒く歪んでいた。
「では、私はこれで。例の件、一月以内には必ずや。……せいぜい、化物に喰われぬようご自愛ください」
クックッと不気味な笑い声を残し、黒服の姿は闇に溶けるように消えた。
夜明けの光が差し込み始めたシャーレのオフィスに、先生は一人取り残される。彼の目の前には、一つの黒いアタッシュケース。それは、彼がこれから背負うことになるであろう、重い重い『大人の責務』の象徴として、静かに鎮座していた。
1日目
燦然と輝く太陽から逃れるように、影に隠れひっそり生活する時間も、間も無く終わりを告げる。時刻は午後7時。日が完全に沈む時間帯だ。 窓からの強烈な光もゆっくりと溶けて無くなり、残るは暗闇だけである。
日中の間、シャーレの先生はただ項垂れていた訳ではない。 黒服の『責務』という重荷が載った言葉に胸を刺され、行動したのだ。
早速先生は、 シャーレオフィスビルの整備を行った。太陽の影響を抑えるための、一部階層、部屋の閉鎖。セキュリティー強化。本部を1、2階へ移動。非常用食品など様々の物品の開放。寝床の準備も済ませた。
そして最後に、黒服から渡された特別仕様の、『来訪者処刑用』の銃の手入れ。正直言って先生の気持ちは、気が進まないの一言に尽きる。しかし、これも大人の責任だと自分に言い聞かせてそれも済ませる。
“……さて、もうすぐで夜か”
太陽が完全に沈み、辺りは暗闇と静寂に呑まれる。『来訪者』が動き出す時間。先生は気にも留めなかった夜に初めて恐怖心を覚えた。
先生はゆっくりと歩み出し、インターホンのカメラと接続されたモニターへ足を運んだ。
モニターには暗闇しかこちらを覗かず、インターホンも鳴らない。まだ誰も訪れていないようだ。しかし、誰か一人は来るだろうと予測する。
『来訪者』の影すら見えないというに、この胸騒ぎ。よっぽど恐怖しているだろう。
……先生がモニター前へ待機して数分後。
(ピンポーン)
“……っ!?”
突然のベル。先生は思わず驚き、椅子から跳ね上が離かけたが、なんとか平常心を取り戻せた。
恐る恐る、モニターを覗いた先にいた客人は……。
『えっと……シャーレの先生。いるか?』
インターホンから聞こえてきたのは、少し掠れた、しかし聞き覚えのある声だった。モニターに映し出されたのは、黒いフルフェイスヘルメットが特徴的な生徒、河駒風ラブ。その背後には、同じくヘルメットを被った生徒が三人、身を寄せ合うようにして不安げに佇んでいる。疲労の色は、モニター越しにでも明らかだった。
“ヘルメット団……”
普段から定住地を持たず、キヴォトスの片隅でたくましく生き抜いてきた彼女たち。この太陽に焼かれる世界は、そんな彼女たちにとってあまりにも過酷なはずだ。
その声を聞いて、先生の胸を真っ先に満たしたのは、紛れもない安堵だった。無事だったのか。このシャーレを頼ってきてくれたんだ。早く、この安全な場所へ迎え入れてあげなければ。その一心で、先生の指が無意識に開錠ボタンへと伸びる。
だがその指がボタンに触れる寸前、視界の端に映った異物が、彼の動きを強制的に停止させた。
“……黒服の書き置きか……!”
開錠ボタンのすぐ脇に、一枚のメモ用紙が貼り付けられている。今日、このオフィスを訪れた自分以外の人物はあの男しかいない。いつの間にこんなものを。
そこには、彼の声が聞こえてきそうなほど冷たい筆跡でこう記されていた。
『合理的判断を。情に流されれば、全てを失います。誰であろうと、まずはふるいにかけなさい』
黒服が残したあまりにも残酷なアドバイス。その文面が、冷たい毒のように先生の心を蝕んでいく。目の前の生徒を疑えと? 必死の思いでここに辿り着いた彼女たちの信頼を、この手で踏みにじれというのか。気づけば、己の手が小さく震えていた。
『……先生?』
モニターの向こうから、ラブの訝しむような声が届く。
“はっ……! ごめん、ちょっと考え事を……”
先生は慌ててそう答えながら、背中に冷たい汗が流れるのを感じていた。心臓が嫌な音を立てて脈打つ。
これから自分は、助けを求める生徒に、『尋問』を始めなければならない。決心しろ、と何度も心の中の私がそう言い聞かせてくる。
“……一応、なんでここに来たか言ってくれる?”
『えっ、ここで?』
先生の要求に、ラブは驚く仕草を見せる。ラブが今まで見てきた先生とは違う、何か異常を感じ取ったということもあるだろう。
『いいけど……一応聞くけど、先生はどうしてうちらを疑うんだ?』
“そうしろと……上から言われたんだ”
『……まぁ、うちらがヘルメット団ってのもあるからかな』
様子がおかしな先生に一度、訝しむ目を向けるが……ラブは勝手に自分達の身柄が理由だろうと、一人で納得してしまう。
“いやっ、そういうつもりはーー”
『うちらはただ、安全に泊まれる場所が欲しいだけだわ』
先生はそんな彼女らを見て、慌てて誤解を解こうとするが、ラブは既に質問への回答を語り始めた。
『最近ほら、なんか昼間の気温が急に上がっただろ?それでどこもかしこも涼めなくてさ……仲間も焼かれて重症なの 』
“そっか……”
『だから頼む、いやお願いします!どうかうちらを助けてください!』
ラブの悲痛な叫びが、インターホン越しに先生の鼓膜を突き刺す。モニターに映る彼女の姿は、疲労し、憔悴しきっている。その後ろの生徒たちも、今にも崩れ落ちそうだ。
この訴えは、本物だ。先生の心はそう叫んでいた。しかし、頭の片隅で黒服の冷たい声が囁きかける。『情に流されれば、全てを失う』と。
先生は、唇を噛み締め、さらに踏み込んだ質問を口にした。それは、彼女たちの記憶の奥底にある、他愛もないはずの思い出だった。
“……分かった。でも、もう一つだけ確認させてほしい。……前に君たちがシャーレの備品倉庫に忍び込もうとして、当番だったヒナに見つかった時……僕が何をしたか覚えてる?”
それは、先生とヘルメット団だけの、小さな秘密だった。
ラブは一瞬きょとんとした顔をしたが、すぐに思い出したようにヘルメット越しに声を上げた。
『ああ、あの時のことか。覚えてるよ。先生はうちらを庇って、めちゃくちゃ怖い風紀委員長に代わりに頭を下げてくれた。それで、罰として一週間、シャーレの備品整理を手伝わされたんだ』
完璧な答えだった。先生の記憶と寸分違わない。冷や汗が背中を伝う。
“……じゃあ、その罰が終わった日、君は僕に何て言った?”
先生は、震える声で最後の問いを投げかけた。それは、ほとんど祈りに近かった。何か、ほんの僅かでもいい。違和感があってくれ、と。
モニターの中のラブは、少し考える素振りを見せた後、呆れたように言った。
『……「次はもっとうまくやるから、見逃してくれ」って。先生、苦笑いしてたじゃないか』
その言葉を聞いた瞬間、先生は息を呑んだ。表情、声色、言葉のニュアンス。全てが、記憶の中の河駒風ラブそのものだった。
ダメだ。これでは判別できない。
黒服の言う通りにしても、何も分からないじゃないか。この尋問は、ただ彼女たちを傷つけ、自分を苦しめるだけの無意味な儀式だ。
『先生、もういいだろ!? 仲間が……仲間が本当に危ないんだ! 早く開けてくれ!』
ラブの懇願が、焦りと苛立ちの色を帯び始める。そのあまりの必死さに、先生の理性のダムは、決壊寸前まで追い詰められていた。
もし彼女たちが本物なら、この一分一秒が命取りになる。 もし彼女たちが偽物なら、このドアを開けた瞬間が、全ての終わりになる。
先生は、開錠ボタンと腰の銃の間で、再び視線を彷徨わせた。記憶という最後の砦が崩れ去った今、一体何を信じればいいのか、彼にはもう分からなかった。
これ以上躊躇ってはいけない。先生は決心し、どちらかの決断に手を伸ばすーー。
彼の手は、解錠ボタンを押した。
“……よくここまで耐えてくれたね。いらっしゃい”
『……ありがとう』
先生は彼女を『本物の河駒風ラブ』だと確定させ、彼女らを中へ招き入れる選択を下したのだ。 先生の慈愛に満ちた声を聞いて、ラブは目を閉じて静かに応答する。
玄関の扉がカチリと、電子音を鳴らしながら開く。先生はただ、今回の選択が間違ってないと祈り、見届けるだけだった。
“よし、これで全員の応急処置は完了したよ”
「ありがとう、先生。まさか医学まで精通してるなんてね」
“僕の生徒からの、ちょっとした入れ知恵だよ”
2階。主に来客の宿泊部屋が、多く設置されている階層である。その内の一つの部屋はラブ達が使うことになった。
手際よく火傷を水で冷やし、綺麗にガーゼを巻く。この処置の仕方は、数多くの医療従事者の生徒からの入れ知恵でもあり、こっそりと学んでいた術である。
「にしても、今日の先生はなんか変じゃないか?」
ベットの上で横たわっているヘルメット団の一人がそう投げかける。
“はは、悪かったね。最近のこともあって、なんだか不安になって”
「まあ。先生でもそうなるか」
ラフな格好で椅子に腰掛け、仲間達を観察していたラブがそう呟く。表情から見て、安堵していることが分かる。
“……その内話すよ”
ラブ達を招き入れて数十分が経ったが、未だにこちらを襲おうとする様子は確認できない。もうこれは来訪者ではないだろうと、先生は溜息を吐いた。
(ピンポーン)
そんなかけがえのないひと時を過ごしていると、突如腕時計からベルが鳴る。
「……ん?どこから鳴ってる?」
“ああ、私の腕時計からだね。ちょっと小細工を”
この腕時計は少々特別なのもので、インターホンのボタンと連動している仕掛けのため、どこからでも来客が来たことが分かるのだ。
“じゃ、行ってくるね”
そう言い残して部屋を出ると、先生は再び1階のメインオフィスへと向かう。モニターに映し出された新たな訪問者の姿に、彼はわずかに目を見開いた。
そこにいたのは生徒ではなかった。くたびれた帽子を目深に被った、小柄な獣人の男性――コーギーの住民。彼はつぶらな瞳で、まっすぐにカメラを見つめていた。
一度は安堵したものの、ラブとの一件で植え付けられた疑念はそう簡単には消えない。先生はマイクのスイッチを入れ、努めて冷静に問いかけた。
“こんばんは。何か御用でしょうか?”
『ああ、夜分にすまない。シャーレの先生だね? 実は……家が燃えてしまってね。行くあてもなく、ここまで来たんだ』
“……この辺りは無事だったはずですが。遠くから?”
『ああ。近所を頼ってみたんだが……どこも扉を開けてはくれなくてね。君だけが頼りなんだ』
嘘はついていないようだ。しかし、その言葉はどこまでも丁寧で、理路整然としていた。だが先生はその完璧すぎる受け答えに先程とは質の違う、肌を粟立たせるような違和感を覚えていた。
だが、その違和感を頼りにして決断してはならない、善意がそう言っている。
ふと思い返してみると、黒服はあれだけ来訪者の情報をこれでもかと伝えたはずなのに、最も知りたい判別方法を聞き出せていない。これは男の悪戯か、あるいはそれもまた未知だからか。
再び迷宮入りとなってしまう今回の来客。先生は黙って長考していると、
『どうやら私の受け入れを躊躇ってるように見えますが……』
“ああ、すいません。以前、このような状況でお招きした際に襲われたことがありまして”
『なるほど』
しかしなんとも無機質だ。これといった感情を出さない。どこか人間性に欠けているというか……なんとも不気味に思えてしまう。
一度、腰に携えた銃を一瞥する。たとえ彼が来訪者であっても、この銃を撃てさえすればなんとか収束できるーーしかし、もし来訪者でもない、ただの人間だったら?
何度も葛藤してしまう先生。するとやっと決意したのか、彼の手は解錠ボタンを押していた。
“……どうぞ、お入りください”
『感謝するよ。何、数日後にはここを立つよ』
そう感謝の意を述べながら、コーギーの獣人はシャーレへ入って行った。
それを見届けた先生は、今日はもう来ないだろう、なんとなくそう感じ、モニターから離れた。
太陽の異常化による猛暑。謎の化け物に対する戦慄する感情。疑ってしまう信頼。崩れる日常の音。 これらを体験した先生は、どの日よりも強い腹の痛みを感じた。
コメント
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ホラゲーで見たな...ああ言う救いのほぼない世界観のホラゲー大好きなんですよね..それをブルアカと融合するとは..面白いし最高です
あ、コレヤバイNo,I'M Not A Humanのブルアカ版なんだろうけど完成度高すぎる…コーギーの男絶対来訪者でしょ…ラブが初っ端からくたばるとは思えんから後ろの仲間がやられるんかな?ヤバい、マジで楽しみすぎる…生徒の姿した来訪者を撃つ羽目になって解っていても曇る先生は存在しますか?