テラーノベル
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萌香が、棚の一番上に手を伸ばしている。つま先立ちをする足元は、頼りなく小刻みに震えていた。
「……何取りたいんだよ」
声をかけたのは、ちょうどカウンターの奥から様子を見ていた五十嵐だった。
「あ、あのね。一番上にあるコーヒー豆の瓶を……」
棚の最上段、ガラス瓶に入った豆は、彼女の指先にはまだ遠い。
それでも諦めきれない様子で、萌香はさらに背を伸ばそうとする。
五十嵐は無言で一歩近づくと、軽く溜息をつきながら腕を伸ばした。
五十嵐は無言で棚の上に手を伸ばし、エチオピアゲイシャの豆の瓶をすっと取り出すと、萌香の前に差し出した。
「……ほい」
「ありがと……」
照れくさそうに受け取る萌香に、五十嵐がぼそりと呟く。
「取ってほしきゃ、声かけりゃいいだろ」
「だって、絶対不機嫌になるでしょ」
「……言わねぇと分かんねぇだろ」
「言ったら言ったで、睨むじゃん」
「睨んでねぇ」
「睨んでる。たぶん自覚ないだけ」
そんなやり取りに、カウンター越しの古上がくすりと笑った。
店内には、コーヒー豆の香ばしい香りと、柔らかな空気が静かに漂っていた。
「目つき悪いのは昔からだ」
五十嵐がぽつりと漏らす。
「黒板見てただけで、“なんだその態度は”ってキレられてさ。意味わかんねえだろ?」
まるで昔の自分に呆れるように笑う、その横顔はどこか苦味を含んでいた。
「おっと、五十嵐くんの真面目な一面発見」
古上がタイミングを見計らったように合いの手を入れる。
「……やかましい」
けれどその言葉には、さっきまでのトゲはなかった。
チリン、とドアベルが鳴る。
この時間帯に来るのは、大抵——
「浩二、ブレンド頼むよ」
「……俺は孫じゃねえっつの」
予想は的中した。
のれんをくぐって現れたのは、常連の坂松の爺さん。
杖を片手に、いつも通りののんびりとした足取りでカウンターに腰を下ろす。
「今日は随分静かじゃないか。暇なのか?」
「……常連に言われると、余計に沁みるな」
爺さんは、くつくつと笑って新聞を開く。
続けざまに、ドアベルがもう一度鳴った。
入ってきたのは、派手なファッションに身を包んだ若い女性が二人。
明るい髪色に大ぶりのアクセサリー、目立つ存在感が店内の空気を一瞬揺らす。
「あれ〜?ここだっけ?週刊レトロ喫茶に載ってたお店って」
「違うでしょ、さつきちゃん。雑誌のは隣町の店だよ」
カウンターの中から、萌香がにこやかに迎える。
「いらっしゃいませ〜。どうぞ、ソファのお席へ」
二人は入口で顔を見合わせたまま、ひそひそ声で相談している。
「……どうする?入る?」
「んー、仕方ないか」
(……何だよ、仕方ないって)
カウンターにいた五十嵐は、心の中でぼやいた。
坂松の爺さんはそんな様子も気にせず、新聞を読みながらコーヒーを啜っている。
「パンケーキありますか?フワフワのやつ」
ソファに腰を下ろした女性の一人が、メニューも見ずに言った。
萌香は微笑みを崩さずに応じる。
「はい、ございます。ただ……うちのはクラシックなタイプでして。今どきのスフレ系とは少し違うかもしれません」
「んー、じゃ、それで」
「かしこまりました」
少し拍子抜けしたような返事だったが、萌香は手慣れた様子で注文を厨房へ伝える。
カウンターでは五十嵐が、なんとも言えない顔でその様子を眺めていた。
坂松が、湯気の立つ紅茶を手にしながら隣の席に声をかける。
「お嬢ちゃん達、喫茶店巡りしてるのかい?」
声をかけられた派手なピンク色の髪の女性が、嬉しそうに顔を上げた。
「そーなんです!うちら、インスタグラマーで」
「最近は、そういう若い子がよく来るねえ」
坂松がゆっくり頷くと、もう一人の女性が小声で付け加える。
「でも、ここはレトロすぎるかもね……」
それを聞き流しながらも、萌香は笑顔を崩さずにメニューを差し出した。
五十嵐はカウンターの奥で、溜め息をつきかけていた
もう一人の女性――ありさと呼ばれたその人も、鮮やかなネイルに派手なジャケットを羽織ってはいるが、どこか控えめな雰囲気をまとっていた。
さつきがメニューも見ずに言う。
「ねぇ、ありさ。ここでちょこっと休んだら、また他のとこ行こうよ」
ありさはちらりと店内を見渡してから、少し困ったように眉を寄せた。
「ええ……でも、入っちゃったし、そういうのは失礼じゃない?」
さつきは「えー」と声を上げながらも、ソファにふんわりと腰を下ろす。
萌香が水を運びながら、柔らかく問いかけた。
「ご予定の合間に、ちょっと休憩……って感じですか?」
ありさが恐縮したように頷いた。
「はい……すみません、ちょっと歩き疲れてしまって」
「ゆっくりしていってくださいね。うち、静かなのだけが取り柄なんで」
萌香の言葉に、ありさはほんの少しだけ、口元をほころばせた。
五十嵐がカウンター越しにぼそりと呟く。
「……珈琲、頼まないのか?」
萌香が小声で返す。
「パンケーキだけでいいんですって」
五十嵐は眉をひそめたまま、ちらりとソファ席の方へ視線を向けた。
「……何しに来たんだよ。ここ、喫茶店だぞ」
「まぁまぁ、そう言わないで」
萌香は苦笑いしながら、奥の厨房へパンケーキの準備に向かう。
その背中を見送りながら、五十嵐は小さく舌打ちした。
「……観光地か、ここは」
そんな五十嵐を他所に
古上が、どこか嬉しそうに前のめりになって語り出す。
「ここのパンケーキ、本当に美味しいんですよ。ふわっとした生地に、綺麗な焼き目。甘さ控えめの生クリームと、フルーツの酸味がちょうど良くて……絶妙なバランスなんです」
その熱のこもった言葉に、さつきが目をぱちくりさせる。
「え? お兄さん、食レポめっちゃ上手くない?」
さつきが目を輝かせると、古上は照れたように笑みをこぼした。
「本当ですか? いや、そんなつもりは……」
水を一口飲みながら、目元にはどこか得意げな色。
その様子に、隣の五十嵐がぼそっと呟く。
「こいつに喋らせたら、ただの朗読会になるからな」
「なりませんよ!」
古上がすかさず食い気味に反論する。
「一応これでも簡潔にまとめたつもりだったんですから」
「十分長ぇよ。パンケーキ冷めるぞ」
五十嵐は呆れたように言いながらも、どこか楽しげだった。
萌香がパンケーキを運んできた。
「お待たせしました!燈特製パンケーキですよ〜」
ふわりと漂う甘い香りに、さつきのテンションが一気に上がる。
「え!やばっ、めっちゃ美味しそうじゃん!」
スマホを構えながら、角度を変えて写真を撮り始める。
ありさも、そっと笑みを浮かべた。
「……ここにして良かったかもね」
その様子をカウンターから見ていた五十嵐が、ぼそりと漏らす。
「……調子いいやつらだよ」
古上が笑いをこらえながら、フォークを置いて言う。
「でも、結果オーライってことでいいんじゃないですか?」
五十嵐は小さく鼻を鳴らしたが、まんざらでもなさそうだった。
さつきがパンケーキを一口大に切り分け、そっと口元へ運ぶ。
ふわりとした食感に、思わず目を見開いた。
重たすぎない甘さと、しっとりした生地のバランス。
それが彼女の舌を、じんわりと喜ばせていく。
「美味しい!!やばいこれ……!」
声に出た感想に、隣のありさもふっと微笑んだ。
「すみません、珈琲いただけますか?ブレンドで。二つ」
「かしこまりました!」
萌香が、明るく返事をしながらカウンターの奥へ向かう。
その背中を見送りながら、さつきはもう一口、パンケーキを頬張った。
どうやら“仕方ないから入った”という気持ちは、とっくにどこかへ消えていたようだった。
さつきがもう一口パンケーキを頬張り、ふと呟いた。
「……なんか、ママが昔焼いてくれたパンケーキ思い出すかも」
その言葉に、ありさが小さくうなずいた。
「わかる。こういう素朴で、丁寧な味……懐かしいね」
坂松が、目を細めながら言う。
「いいもんだろう?珈琲もデザートも、母親のような愛情が詰まってる。この店には、そういう“懐かしさ”があるんだよ」
——が、そんな空気をぶった斬る声が飛ぶ。
「アンタはいつも紅茶しか飲まねぇだろが」
カウンターの中で、五十嵐が腕を組んでジロリと睨んでいた。
「そうだったか? わっはっは」
坂松は悪びれもせず、楽しげに笑った。
五十嵐は額に手を当て、ため息をつく。
「ママのパンケーキの話してんのに、なんで年寄りのボケ確認大会になってんだよ……」
店内に笑いがこぼれる。
「珈琲も、めっちゃ美味しい!これ、なんの豆使ってるんですか?」
はしゃいだ声で尋ねたのは、ピンク色の髪を揺らすさつきだった。
隣でカップを持ったありさも、興味深げに耳を傾けている。
萌香は微笑みながら答えた。
「これはブレンドなんです。でも、香りづけに少しだけゲイシャを使ってます」
「えっ、あのゲイシャ?!」
ありさが目を丸くする。
「めっちゃ高級じゃない?」
「贅沢じゃ〜ん!そりゃ美味しいわけだ!」
さつきが手を叩いて笑った。
五十嵐は、そんな二人を見ながら呟く。
「調子のいい舌してんな……」
「いいの。プロの味方はお客さんだから」
萌香は肩をすくめ、軽くウィンクを返す。
「ねぇ、あの……」
さつきがスマホを手に、テーブルの向こうの萌香に顔を向けた。
「もし良かったら、このお店……インスタに載せてもいいですか?」
不意の申し出に、萌香は一瞬きょとんとする。
だがすぐに、少し照れくさそうに微笑んだ。
「え?も、もちろん……。ありがとうございます」
「やったー!」
さつきは嬉しそうにスマホを構えると、カメラの向こうにグラスとパンケーキを並べる。
「“珈琲とパンケーキが最高のお店でーす”って、ちゃんと伝えときますから!」
「ふふ、恐縮です」
萌香は笑いながら一礼した。
その光景を見ていた五十嵐が、小さくため息をつく。
「……こうしてまた、騒がしくなってくんだな」
その騒がしさは、どこかはた迷惑なようで、どこか有り難くもあって。
“燈”に吹く風が、少しだけ変わっていく気がした。
——その風が、やがてこの店を大きく揺るがすことになるとも知らずに。
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