不破理人の出会いを思い出したイズミの溜息は深い。
そんじょそこらの海溝よりも、ずっと深い。
なぜなら、そこからはじまった青双学園時代の不破とイズミの関係は、まさに【黒歴史】として海底に沈めてしまいたいものだったから。
あれから10年経ったとはいえ、イズミのなかでは、いまだに鮮明な記憶として残っている。もちろん、悪い意味で。
それが帰国して早々、4年ぶりに会った親友の策により、まさか黒歴史・不破との再会。
よりにもよって因縁の黒歴史を相手に、仕事をするハメになるとは……
「なんの因果だ」
出勤5日目でそうつぶやくと、
「えっ、成瀬さん、どうしたの?」
美少年の面影を残す不破が、満面の笑みでこちらに顔を向けてきた。
顔だけは本当に整っていて、かなり好みなので、それがイズミには余計に腹立たしく感じる。
「なんでもありません。あっち向け」
「はい。今日も朝から話せちゃった」
浮かれた不破准教授はこの数日間というもの、すこぶる機嫌が良いらしく、
「すごいよ。不破先生、これまでにないスピードで仕事しているよ。さすが、イズミ効果!」
ブスッとした顔でデスクに座っているだけなのに、リオナからは手放しで褒められた。
さらに約束どおり、追加の雇用条件として、
一、夏・冬の特別賞与を支給。(月額支給額の平均1.0か月分相当)
二、正規職員用の食堂フリーパス券(一日上限1000円)の支給。
三、通勤手当上限なし、および住宅手当の支給。
これらが明文化された雇用通知書まで届いた。
ここまでされると、何も仕事をしない方が逆に居心地が悪くなり、前任者が残した資料とリオナから渡された不破の予定表をもとに、イズミは最小限度の業務をするようになった。
臨時秘書になって3日目あたりから、徐々に秘書らしく不破のスケジュールを確認するようになり、5日目の本日は、不破から頼まれた論文の翻訳作業をした。
「学会誌に寄稿する論文の作成が終わりました。え~と遺伝子組み換えのデル……なんとか……」
「デルフィニジン、青色遺伝子の組み換えについての論文です。シアニジンの抑制と青色色素であるデルフィニジンの蓄積に関する内容です」
「ああ、それです、それ」
理系の話はさっぱりわからない。
「研究用語に不慣れなもので、すみませんが、間違いがあれば訂正しますから、ご確認をお願いします。共有ファイルにアップロードしておきます。閲覧パスワードはメールに添付して送りますね」
「わかりました。ところで成瀬さん。青いバラはお好きですか」
唐突に訊かれ、イズミは首をかしげた。
理系の話は、脈絡がなくて困る。
「はあ、まあ、花は嫌いではないですけど。青いバラって、白いバラに青い液体を吸わせたヤツのことですか?」
「いいえ、ちがいます。種子から育てた正真正銘の青いバラです」
「ああ、もしかして薄紫に近いバラのことですか」
数年前にテレビで見た気がする。
それまで不可能とされてきた青いバラが誕生したと騒がれ、ウキウキして見ていたら、視聴者を焦らすにいいだけ焦らして画面に映ったのは『薄紫色のバラ』だった。
「この論文は、もっと青い色素のバラを誕生させるための研究です。イメージとしては晴天のような空色、ゆくゆくはロイヤルブルーを目指しています」
色素に関する研究だとは思っていたけど、そんな内容の論文だったのか。
得体のしれない化学式と理数系用語ばかりがならんでいたので、バリバリの文系にはさっぱりだった。
それでも、まったく意味不明な薬品の話とかではなかったので、青いバラの研究については、イズミも少し興味が持てた。
「へえ、まっ青なバラができたら、それはステキかもしれませんね。わたし、アジサイの青が好きなんで」
そういえば、もうすぐ梅雨時。アジサイが見ごろの季節になる。
たしか、アジサイで有名な観光地があったな。
「どこだったかな。たしかお寺で、いつも梅雨時に観光客でにぎわう名所になっている……」
「鎌倉の明月院です。六月になったら二人で行きましょう」
「はぁっ?!」
イズミの眉間に、一気に皺が寄った。
青いバラの話から、どうして鎌倉に行く話になるの?!
しかも、ふたりで。
「アジサイの青色色素でも採取しに行くんですか?」
「ちがいます。デートに誘っています」
「…………」
理系の思考回路は、やはり理解しがたい。
即座にイズミは、滑らかなタッチでキーボードをたたいた。
行きません!
行きません!
行きません!
連続3回入力して、
「お返事です」
不破のパソコンにメッセージを送った。
その日の昼休み。
イズミとリオナは、食堂で顔を突き合わせていた。
フリーパスの上限金額に近い豪華な昼食を食べながら、青いバラの研究論文からアジサイの話になり、不破から鎌倉デートに誘われた――という話を、リオナにする。
「あの男、いまだに夢見る少年か。わたしが、デートなんてするわけない」
それを聞いた総務課の主幹職員であり、学長と学部長のスケジュール管理を兼務する先輩秘書は、
「それは、絶対に行ってもらわないとダメなヤツよ!」
そう断言した。
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