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帰りは、アニスが馬車を用意してくれた。
ブルファ邸の紋章が刻まれている馬車は、石畳の街道を滑るように走っている。アネモネは窓に備え付けられている厚地のカーテンを開いて夜の街に目を向けた。
時刻は深夜。街全体が深い眠りに落ちてしまったかのように、しんとしている。
「アネモネ、到着したら起こすから少し眠るといい」
「大丈夫、眠くないですよ」
窓から目を離してソレールを見上げれば、「そうか」という呟きと共に、大きな手がぽんと頭に乗った。
再びアネモネは窓に目を向ける。静かすぎる街並みは、まるで自分だけが世界から忘れられてしまったかのような気持ちになる。
ソレールの手はいつの間にか頭を離れ、肩に移動し、そっと引き寄せられた。
「……帰ったら、まず傷の手当をしないといけないな」
「それも、大丈夫ですよ」
「そうはいかない。跡になったら困る」
ううん。傷跡が残って欲しいと、アネモネは心の中でソレールの言葉を否定する。
アニスはやっとチャービルからの記憶を受け取る気になってくれたが、どうして今まで記憶を受け取ることを頑なに拒んでいたのか、ソレールが説明してくれた。
わざわざ紡織師の術を使って伝える必要がないほど詳細に、アニスは既にチャービルが何を伝えたいのか知っていたのだ。
それでも明日、アネモネはアニスに預かっている記憶を届ける。
その後すぐに大好きなソレールから、自分の存在を忘れ去られるとしても。
「ねぇ、ソレールさん」
「なんですか、アネモネさん」
今日もまた、ソレールは律儀に応えてくれる。
「……ちょっとだけ、遠回りして帰ってもいいかな?」
「もちろん、かまわないさ」
自分を自宅に送り届けた後、ソレールは事後処理の為にブルファ邸にとんぼ返りしなくてはならない。
疲れているはずなのに、理由を聞かず即座に頷いてくれるソレールの胸に、アネモネはぎゅっとしがみつく。
この数カ月ですっかり馴染んでしまった、甘く優しいこの香りはもう二度と嗅ぐことができない。
だからアネモネは、大好きな人の香りを肺いっぱいに吸い込む。すぐに鼻の奥がツンと痛んだ。
(ソレールが私を忘れても、私は何があってもソレールのことを忘れたくない)
今抱えている胸の痛みだって絶対に忘れないと胸に誓って、アネモネは強く目を瞑る。
太い腕がそれに応えるかのように、そっとアネモネの背に回された。