その週の土曜日は生憎の曇り空だった。
今にも泣き出しそうな空模様の下、ロンドンのモリアーティ邸の一階のリビングには、モランとアルバート、ルイスとフレッド、ボンドの姿があった。
もう既に朝食は済み、もうすぐ昼食かという時刻だ。
「ウィル君、起きてこないね」
ふとボンドがそうつぶやいた。
「大学もなければ仕事もない日くらい、寝坊してもいいんじゃないかい?
特にウィルは起きている間、ずっと頭を使っているし」
「そうなんだけど、最近休みの日になると遅かったりするな、ってちょっと思って」
新聞を読みながら答えたアルバートに、ボンドは少し心配そうに笑う。
フレッドも言葉にはしないが、似たような表情だ。
彼らはわかっているのか、わかってはいないけれどただ心配なのか、それはモランもよくわからない。
ただアルバートは知っていて、ごまかしているのか。
ウィリアムが最近、休みの日に寝坊する理由はアルバートにある。
大学がある日や仕事がある日は別にして、なんの予定もない日の前日の夜は、アルバートがウィリアムを抱いている。
モランにはそうわかっていた。
「モラン君だって心配にならない?」
「…そうだな」
自然な流れで話を振られ、モランはわずかな間の後に頷くと立ち上がる。
「ちょっと、見てくる」
扉の方に向かって言うと、アルバートに止められるかと思ったが彼はソファに腰掛けたまま動かない。
いいのか。それとも、
(俺は、知っているからか)
ウィリアムを傷つけることなど出来ないと、信じているからか。
二階にあるウィリアムの寝室を訪れたモランは、ベッドの上に起き上がっていたウィリアムに声をかけた。
時刻はもう午前十一時だ。
「大丈夫か?」
「…ああ、モラン。
ごめん、寝坊して」
なんでもないように笑ってみせた主人にもどかしくなって、モランはベッドのそばに置いた椅子に腰掛けると「謝るな」と言う。
「繕わなくていい。
わかってる。
…ルイスから聞いた」
それだけ言えばわかるだろうと口にすれば、ウィリアムはわずかに動きを止め、表情をこわばらせたがすぐに諦観にも似た顔で「そう」とぽつりつぶやいた。
「そう…。
…ルイスも知っているの」
「知らなかったのか?」
「…いや、なんとなく。
気づいてるんじゃないかとは、思っていたけど」
白いシャツをまとったウィリアムの身体には、きっとアルバートが残したいくつもの鬱血痕が刻まれているだろう。
ウィリアムは表向き普通に振る舞っているし、アルバートも皆の前では今まで通りの態度だ。
ほかの仲間たちがどこまで気づいているかは、モランもわからない。
だが聡いフレッドやボンド、ジャックは気づいていてなにも言わないのかもしれない。
特にジャックは幼い頃から彼らのことをよく知っているのだから。
「モランはなにも言わないんだね」
「…おまえに、なにか言う奴がいたのか?」
「……………」
ウィリアムはうつむいたまま黙り込む。
だが仲間たちがなにか言うとも思えなかった。
歪んだ関係だと、よくわかっている。
わかっていても、止める術がない。
果たしてそれを咎め、責める仲間がいるだろうか?
「…モランは、どうなの?」
「…え?」
「…僕を、抱きたいと思う?」
淡い笑みを浮かべた主人の言葉に、本気で呼吸が止まった。
「……なに、言って」
ややあってようやく乾いた声が絞り出される。
心臓がうるさく脈打っていた。まるで警報のように。
「…僕が『抱いて欲しい』と言ったら、きみはどうする?」
なのにウィリアムはモランを見ないまま、その唇に綺麗なだけの笑みを刻んで繰り返すのだ。
まるで人形のような、虚ろな表情で。
「………抱くだろうな」
迷って逡巡して、そうして結局正直な思いを口にした。
自分の気持ちなど、ウィリアムには筒抜けだっただろう。
アルバートが気づいていたように、きっとウィリアムもわかっていたのだろう。
もしも許されるなら、自分は迷わず彼を抱くだろう。
身体だけでもいい。ウィリアムが欲しい、と。
「…俺は、おまえが俺のものになるとは思ってない。
たとえ、抱けたとしても、絶対に。
俺がおまえのものなんだ。
…おまえが絶対に、俺のものにならないことくらい、よく知ってる」
求めても恋い焦がれても、永遠に手に入れられない。
自分の全て。たったひとりの主人。自分の世界の全ての。
「…だから、身体だけでも手に入るなら」
『僕はきっとその相手を殺します』
「…多分、俺は殺されてもいいんだ」
それがモランの正直な、素直な気持ちだった。
たとえその後に待つ結末がなんであってもいい。
一瞬の愛でもいい。うたかたの幸福でもいい。
その一瞬のために、命を捧げてもいい。
それほどに愛していた。
不意にウィリアムが腕を伸ばし、モランの身体に抱きついて来る。
むしろ、幼子が縋り付くようにして、モランの胸に顔を埋めて。
そのいとけない接触にすら胸が切なく締め付けられ、きつくかき抱いてしまいたくなる。
「…ごめんね。
モラン」
それは、なんの謝罪だと聞いてもきっと答えは返らないだろう。
機知に富んだひどく聡明で、人心掌握に長けたこの主人がなにを悩んでいるのか、全て見透かせてしまうならどんなに良かっただろう。
「…僕は罪人だ」
「…そうだな。
俺たちもだ」
「…そう、今更なのに、…なにを恐れるんだろうね。
今更、一つ罪が増えたところで、…地獄に堕ちることは変わらないのに」
自分の胸に顔を埋めたままのウィリアムの髪をそっと撫で、慈しむようにあやすように抱きすくめると、彼がわずかにほっと息を吐いた。
「もういい。
もう少し休め。
…もうしばらく、なにも考えるな」
起きている間、彼は頭を休めることが出来ない。
ならばせめて、もう少し眠りの中にいて欲しい。
穏やかな夢の中にいて欲しかった。
「ここにいるから、…守ってやるから、…眠れ」
どうにかしてやりたかった。
目一杯にかき抱いて縋らせて泣かせてしまいたかった。
それが叶わないならせめて、その眠りを守らせて欲しかった。
「…“世の中の関節は外れてしまった”」
「…シェイクスピアだな」
「うん」
不意にぽつりと、つぶやくようにウィリアムが諳んじる。
「“ああ、なんと呪われた因果か。
それを直すために生まれついたとは”………おまえのことみたいだな」
「…はは、僕はそんな大層なものじゃない。
僕はただの悪でしかないよ」
夢の中に落ちる間際のような淡い声でウィリアムが笑う。
その声も胸を詰まらせるような物悲しい響きだ。
「……………ただ、世の中の関節は外れてしまった。
…多分、ずっと前からね」
あのつぶやきを最後に眠りに落ちたウィリアムの身体をベッドの上に横たえ、シーツを掛けてやるとしばらくその寝顔を眺めていたが、ふとそばのチェストの一番上の引き出しがわずかに開いていることに気づいた。
何気なく手を伸ばして開けると、中に一枚の紙が入っている。
モランがそれを手に持って見ると、それはテストの答案用紙だった。
それもぐしゃぐしゃに握り潰されたもので、しかもその一枚だけがなぜここに。
そう思ったが記入されていた名前を見て息を呑む。
“シャーロック・ホームズ”
「…なんであいつの」
どうして、こんなものがここに。
そう思った。
点数はあまりに悲惨なものだが、そもそもなんであいつがウィリアムのテストを受けた答案用紙がある?
それに名前の部分が変ににじんでいる。水でも染み込んだように。
モランがそれを見つめて眉を寄せたとき、扉がノックされた。
「ウィルは眠っているか?」
すぐに扉を開けて入って来たのはアルバートだった。
「…ああ」
反射的にその紙を後ろ手に隠しながらわずかに苦々しい思いがにじんだ口調で答えると、アルバートはふっと笑って言う。
「おまえはウィルになにもしないのか?」
「っ」
「私が気づいていないとでも?
おまえがウィルに向ける感情の意味に。
気づいていたさ。
ずっと前からね。
でもおまえがウィルを傷つけられるとは思っていなかった。
だから知らない振りをしていたんだ」
ゆったりとした動作で近寄ってきたアルバートはモランから少し離れた位置で足を止め、腕を組んで悠然と──けれど凄みのある微笑を浮かべて告げた。
「おまえはウィルを裏切れない。
だが、ウィルが望んだならたとえ殺されても一瞬の愛を取るんじゃないか?
一瞬でも、ウィルの全てを得られるならその命すら惜しくはないと、おまえがそれほどウィルに全てを捧げていることくらい知っている」
「…だから、わざと見せたのか?
あいつを抱いているところを」
「おや、気づいてたのか」
「…扉が開いてたってのがな、用心深いおまえにしちゃおかしいだろ。
あの時間、一階に残ってたのは俺だけだ」
後から考えればあれはおかしかった。
だからアルバートが自分に釘を刺すためにやったのだと結論づけたのだ。
ルイスに対するのとは異なるやり方で自分に釘を刺した。
“ウィリアムに手を出すことは許さない”と。
アルバートを睨んだまま黙り込んだモランの手に隠された紙に気づいて、アルバートはため息を吐く。
「それ、やはり捨てていなかったのか」
「…なんだよ、これ」
「ホームズが突然大学まで会いに来て、生徒に交じってテストを受けたそうだよ」
それはそのときのものだ、とアルバートに説明され、モランはもう一度目の前に広げた紙を見やる。「その日の夜に初めてウィリアムを抱いたんだ」
だが続けて落とされた台詞に呼吸を失う。
弾かれたようにアルバートを見たモランに、アルバートは背筋が凍るような笑みを刻んで言った。
「おまえはホームズが好きなんだよ、と教えてあげたらショックを受けたようで泣いていたな。
縋るようにそれを握りしめて、私に抱かれていたよ」
まるで断罪のように、地に落ちた林檎を踏み潰すような残酷さで告げたアルバートにモランは目を見開き、ややあって手の中にあるぐしゃぐしゃになった用紙を見下ろす。
水が染みたようににじんだ名前も、握り潰されたような紙の跡も、全てが。
それはぐしゃぐしゃに潰され、引き裂かれたウィリアムの心の残骸のように思えた。
ウィリアムがシャーロック・ホームズを気に入って、一目置いていることは気づいていた。
けれどそんな、特別な想いを抱いているとは思っていなかった。
もしかしたらアルバートもつい最近まで気づいていなかったのかもしれない。
その秘められた想いに気づいたから、ウィリアムを抱いたのではないか。
間違ってもウィリアムが、シャーロック・ホームズに奪われないように。
「…本当に忌々しいな。
ホームズ」
モランの手の中にある紙を見つめて吐き捨てたアルバートに、かすれた声が漏れる。
「…なんでわざわざ、それをウィリアムに告げた?
あいつが自覚してなかったならなんで」
「わざわざ?
おまえはまさか、告げなければウィリアムが幸せになれるとでも?」
モランの言葉を遮って問いかけたアルバートのまなざしも表情も、氷のように冷たい。
「私たちには破滅しか待っていない。
そして犯罪卿を断罪するのはホームズだ。
それをほかでもないウィルが望んでいる。
なのにホームズへの想いを育てることがウィルのためになるとでも?
相容れない、叶う可能性など万に一つもないものだ。
ならば早いうちにその愛は殺すべきだ」
すぐには言葉が継げなかった。
反論の余地もないと思ったからだ。
その通りだ。ウィリアムの想いが報われることはない。
ウィリアムもアルバートに教えられた日にそのことを思い知ったから泣いたのだろう。
心を自らの出した答えでかきむしって傷つけて、自分の手で握り潰して殺そうと、この紙を潰した。
それでも殺せなかった想いが、ウィリアムを苦しめている。
「…それは、否定しねえよ」
不思議なほどに、嫉妬心は湧かなかった。
それ以上に主人が抱える苦しみを思って、胸が塞がるような心地になった。
「ホームズと俺らは相容れない。
永遠に。 …けどわざわざそれをウィリアムに突きつけて握り潰す真似をしたのは、おまえ自身が我慢ならなかったからだろ」
その紙のようにぐしゃぐしゃに握り潰して、可能性の一欠片も残らないように、全て殺してしまうために。
アルバートはウィリアムを深く愛しすぎた故に、そうしなければ耐えられなかったのだ。
「…そうだね。
否定しないよ」
アルバートはやはりあっさりと肯定した。静かな表情のまま。
「心だけでも、あの男に渡すことなど許せなかった。
これは私のエゴだ」
そう言ってアルバートはベッドの上で眠るウィリアムに近づくと、花びらに触れるような繊細な手つきでその頬を撫でる。
「…それが少なからずウィルを傷つけ、苦しめているとわかっている。
…それでも、」
そうささやいて、そっと身を屈めてその唇にキスを落とした。
「それでもウィリアムは、私の全てなんだ」
思えば、ずっと自分は世界を疎んじていたのだ。
家柄や出自にしか興味のない家族、市民を虐げることしかしない貴族たち。
みんなみんな嫌いだった。疎ましかった。
ウィリアムたちに出会わなくても、自分は家族を見限っていただろう。
ただウィリアムやルイスに出会っていなければ、おそらく違った形になっていたはずだ。
自分はいずれ家族を見限って排除した。それは揺らがない。
けれど世界を変えるなどという願いを抱くこともなく、もっと冷たい、なにもかもに失望した人生を歩んでいたかもしれない。
あれは、自分にとって天啓にも等しい希望だった。
あの孤児院の教会で、ステンドグラスから差した陽射しに照らされた彼の姿を見たときに、きっと運命を告げられた。
ここに居たんだ。自分と同じ願いを持つ者。同じ魂を持つ者。
彼が見せてくれた未来を、可能性を、新しい世界を見たかった。
そのために自分の全てを捧げても惜しくはなかった。
きっと今際の際にだって言えるだろう。
自分の一番の幸福はあの日、彼に会えたことなのだと。
同じ志を持った弟は、いつしかなにより愛しい存在へと変わった。
兄としての親愛や信頼の情は、いつしか歪んだ
愛執へと変化した。
いや、もしかしたら最初から──あの運命の日からずっと、気づかぬうちに芽吹いていたのかもしれない。
(僕が見つけた、僕のたったひとつの“運命”)
彼を──ウィリアムを誰にも渡したくなどなかった。
同じだけの想いを、互いに抱いていけると思っていた。
過去も現在も未来も、その運命全てを共にする。
だから、彼にとっても同じなのだと、そう信じて。
あの日、大学の中庭でシャーロック・ホームズと話すウィリアムの姿を見るまでは。
鏡に罅が入ったように、縦にひび割れたように、あっけなく壊れてしまった。
心が手に入らなくても、それ以外の全てを奪いたかった。
関節が外れた世の中で、自分が見つけたたった一つの光。
ウィリアムはシャーロック・ホームズを光だと言うけれど、自分にとっての光は彼だった。
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