煙草を手に持ったまま、何度目かわからないため息を吐く。
椅子にだらしなく腰掛けたままそんなことを繰り返していたシャーロックを見て、ジョンが心配そうに「どうした?」と声をかけてきた。
ここは221Bの二人が下宿する家の一室だ。
「この間から変だぞ。
おまえ」
「…あー」
ジョンの言葉にシャーロックは力ない声を漏らし、軽く頭をかく。
「また犯罪卿絡みで悩んでるのか?」
「……いや」
ジョンに尋ねられて返答に窮したのは、それももちろんあったからだ。
自分の中で確かに“義賊”だと固まった犯罪卿の正体。
それを知りたいと思う。
けれど同じくらいに自分の頭を占めるのは、あの男の存在だ。
自分が犯罪卿ではないかと思う相手──けれどそれだけではない、不可解な想いを抱かせる相手。
「…なあ、罪を犯したって、そんな悪いことか?」
ぽつりとつぶやくように口にすると、ジョンはそれが犯罪卿の話だと思ったのか目を瞠る。
「はあ?
おまえらしくもないことを言うな。
だって犯罪卿は」
「いや犯罪卿の話じゃねえから」
やや剣呑な口調になったのは、ジョンは犯罪卿がアイリーンを殺したと思っているからだろう。
アイリーンが生きていると公になってはまずい以上、シャーロックも真実をジョンに告げていない。
だからジョンが犯罪卿に良い感情を抱いていないのはわかる。
だが今、自分が言いたいのはそのことではない。
「うん?
じゃあなんの話だ?
知り合いで罪を犯した人がいたのか?」
「いや、殺人とかいうんじゃなくてさ。
…男同士で愛し合うとかも、罪じゃねーか。
少なくともこの国じゃ」
くわえていた煙草を手に持って、迷いながら口にする。
「それを犯してるやつを知って、責めるのっておかしい、のか?」
いつになく真剣な顔で尋ねたシャーロックに、ジョンもまさかそんな話だと思わなかったようで腕を組んで考え込む。
「…うーん。
僕は少なくとも、ただ愛し合うことは罪じゃないと思う、けどな」
ややあって返ってきたのはジョンらしい真摯な言葉だ。
「男女なら当たり前のことが同性同士なら罪になるって言うのはおかしい、と思う。
愛はもっと自由なものだと思いたいよ。
性別とか身分に関係なく、全ての人に許されるような」
「…だよなあ」
「どうしたんだ?
その様子じゃ、おまえもその人が罪を犯してるなんて思ってないんだろう?」
シャーロックの様子からその心理をある程度察したらしいジョンの問いかけに、シャーロックは煙草を灰皿に押しつけるとため息を吐いた。
「じゃあなんで責めたりしたんだ?」
「それがわかんねーから悩んでんだ。
俺の理屈に合わねーんだよ。
愛し合うことは罪じゃねーって思うのに、そいつの話聞いた時は無性に嫌になって腹立って、絶対許せねえってなって。
なにが許せねえんだよ。
俺の理屈じゃ人が愛し合うことは罪じゃねーってわかんのに」
そうだ。シンプルに考えればそういう結論が出る。
なのになぜあの時、ウィリアムを許せずに断罪するような言い方をしてしまった?
彼が誰かと、男と恋仲だと知って、焼け付くような激しい感情が湧き上がったのは。
そう悩んでいたシャーロックはふと、ジョンが黙り込んでしまったことに気づいてそちらに視線を向ける。
ジョンはなんだか間の抜けた顔で固まっていた。
「ジョン?」
「…いや、おまえそれ本気でわかってないのか?」
「…は?なにが?」
「…いやいや、だからシャーロック。
おまえは人が愛し合うことは罪じゃないと思うんだろ?男同士でも」
「…ああ」
「もし仮に僕が男の恋人を連れて来たとしておまえは怒るか?」
「いや?
祝福するんじゃね?」
「でもその人が同じ男と恋仲なのは許せない、と」
「…ああ」
再度確認するように尋ねられ、シャーロックは苦虫を噛み潰したような表情で肯定する。
「それ、ただの嫉妬じゃないか?」
続いた言葉にシャーロックの動きが止まる。目を見開いたまま硬直してしまった。
「…………………は?」
「いやだから、単純におまえが、その人に自分以外の恋人がいるのが許せないってだけじゃないか?」
「……………………」
二の句が継げなかったのは、信じられなかったから。
頭がその事実に追いつかなかったから。
嫉妬?自分が?
(それじゃあ、まるで)
「…まるで、俺があいつを好きみてえじゃん」
口からこぼれ落ちた声は我ながら情けない、弱々しい響きになった。
ジョンはなにもかもわかったような優しい顔をして、
「じゃあおまえは、その人に女性の婚約者がいたら、笑って祝福してやれたのか?」
と続ける。
祝福出来ないと言うならば、そういうことだよ、と。
その日の夜、シャーロックは貴族たちが集まる夜会の会場にいた。
ジョンに指摘された可能性を自分で受け入れられず、やってきたレストレードから事件の話を聞いてついてきたのだ。
貴族絡みの殺人事件と聞いて勇み足でレストレードと一緒に来たはいいものの、ただのくだらない痴情のもつれだとわかったときには落胆したが。
殺された伯爵はある子爵家令嬢と婚約していたが相当な女好きで、いろんな貴族家の娘に手を出していた。
それを知った婚約者が思いあまって、といういかにもな事件。
犯行の手口を見てもあまりにチープでずさんすぎて、こんなくだらなすぎる事件に犯罪卿が関わっていたなんてとても思えないし思いたくもない。
これは100%ただの貴族同士のくだらない痴情のもつれである。
ロンドンにいる貴族のほとんどが集まった夜会とあって、それならモリアーティ伯爵家も参加しているだろうと思ったからつい期待してしまったが、とんだ空振りだった。
今更自分がやることもないしなあ、と会場となった宮殿の中庭で煙草を吸いながら考える。
レストレードに言って先に帰るか、と思うもこの会場にいるだろうウィリアムの存在が胸を縫い止めている。
せめて、帰る前に一目、会いたいと。
(会ってどうする気だ)
そう自問自答する。
あの身体の所有印のことを、問い詰めたいのか?
貴族絡みの殺人事件と聞いて勇み足で来たのも、半分は犯罪卿ではないかという期待からだった。
だが半分はただウィリアムに会いたいという想いからではなかったか?
ウィリアムのことを知りたいという、探偵としての自分とは無関係の。
『単純におまえが、その人に自分以外の恋人がいるのが許せないってだけじゃないか?』
確かにあいつのことは気に入っている。好ましいとすら思っている。
まだ犯罪卿が義賊だと認識する前から、自分は犯罪卿がウィリアムだったらいいと思っていた。
そうであって欲しいとすら願った。
それはそれだけ強い興味を、ウィリアムに抱いていたからだ。
それだけウィリアムは自分にとって知的好奇心をくすぐられる、一人の人間としてひどく魅力的な存在だった。
(だからって、俺がリアムを好き?
好きだから嫉妬しただけ?)
そんなことあるはずが。
そう否定したいのに、否定出来る証拠がない。
これじゃ悪魔の証明だ。
ため息と一緒に煙を吐き出した矢先、ふと視線を向けたバルコニーに人の姿があることに気づく。
心臓がどくりと高鳴ったのは、それが自分の頭をずっと占拠していた存在だったからだ。
「…リアム」
吐息のような声は彼には届かない。
バルコニーの端に佇んで手すりに手を置いたウィリアムの表情は優れない。
今にも消え入りそうな儚い横顔が、胸を掴んで離さなかった。
「リアム」
そう大きな声で呼ぼうとしたけれど、その前に背後から誰かが彼に近づいていく。
あれは確か、アルバート・ジェームズ・モリアーティ。
ウィリアムの兄で、モリアーティ伯爵の。
そう考えた矢先、アルバートはごく自然な動作でウィリアムを抱き寄せた。
呼吸を止めてしまったシャーロックは、アルバートがわずかに視線を滑らせ、自分を見たことに更なる衝撃を味わう。
確かにアルバートはシャーロックを見て、そして薄く笑ったのだ。
その上でウィリアムの後ろ頭を抱いて、そっと優しくキスをした。
心臓が止まるかと思った。
胸が引き裂かれるような、心臓がすりおろされるような激痛で思い知る。
(──ああ、当たりだ。ジョン)
胸が軋んだみたいに痛い。
これは断罪とか、罪に対する嫌悪感とかじゃない。
これは、胸の奥で燻る黒煙のような激情は。
(これは、嫉妬だ)
ウィリアムに触れる誰かが許せない。
自分以外の誰かが、彼に触れることが。
たとえ女性が相手でも祝福など出来るはずもない。
ああ、これは嫉妬だ。
一体いつからなのかわからない。
『それが恋だって言うなら、それは口にしてはいけないものだぜ』
ウィリアムに投げつけた言葉に復讐される。
この想いは、罪になる。
あのあと、声をかけることも出来ずに宮殿の中に戻った。
まだレストレードは会場で捜査をしているようだ。
帰ってしまおうか。でも、と迷う心で板挟みになる。
「ホームズさん?」
不意に横からかかった声に心臓が大きく軋んだ気がした。
視線を右にぎこちなく動かすと、廊下に一人佇むウィリアムの姿が見える。
「…どうも、こんばんは。
ずいぶん落胆していらっしゃるから、どうしたのかと思いまして」
お仕着せの笑顔で挨拶したウィリアムは、まるでノアティック号で初めて出会った時のようだ。
「……ああ、わかるだろ?」
倦み疲れたような顔で壁にもたれたまま煙に巻くように言えば、ウィリアムが一歩近づいて来た。
「犯罪卿絡みだと思ったら当てが外れた、というところでしょうか」
優雅に微笑むウィリアムはまるであの日の出来事などなかったようだ。
先ほどの兄とのキスも、なにもなかったような。
恋仲?あれが?
ウィリアムは無抵抗で、まるで人形のようにされるがままだった。
とても、恋しい相手に触れられているようには見えなかった。
「…おまえはどう思う?」
「なにを、ですか?」
「…今回の事件」
本当に尋ねたいのはそのことではなかったが、口に出来たのはそんな陳腐な質問だ。
「…と言われましても、文字通り男女の痴情のもつれで起こった事件ですし、まあ特定の相手がいるのにほかの相手に手を出すのは感心しませんが」
「はっ、だったらおまえに手を出した奴は刺されるかもな」
「え?」
「おまえの兄貴に」
ひりついた喉からどうにか絞り出した。
鎌をかけたつもりだった。
もし、あの身体の至る場所に執拗に残された鬱血痕も全て、刻んだのがあの兄ならば。
「…軽蔑しますか?」
二人きりの静謐な空気が満たす廊下で、ウィリアムがふとこぼした言葉に息を呑んだ。
「男同士で、まして兄弟で。
…軽蔑しますか?」
否定するかと思ったウィリアムが、あっさり肯定したことに。
その整いすぎた顔に浮かんだ淡く消え入りそうな微笑みに。
「…だから言ったでしょう?
僕は罪人だと」
確かに男同士で、それ以上に兄弟で身体を結び、愛し合うことは重罪だ。
たとえ同性同士の恋が罪にならない国であっても、兄弟同士の恋は等しく罪になる。
けれど先ほど見た光景──アルバートに触れられるウィリアムの表情は、愛し合う者のそれには見えなかった。
「じゃあ俺もおまえの兄貴に刺されるだろうな」
「…どうして?」
ウィリアムはなぜそんな話になるのか、と目を瞠る。
シャーロックは答えずに壁から背を離すと大股でウィリアムの目の前に立ち、その顔の横に腕を突いて閉じ込めた。
「このままおまえにキスしたら、おまえの兄貴は俺を許さねえだろ?」
その言葉にウィリアムが短く息を呑む。
「…なぜ」
かすれた声がその小さな唇からこぼれた。
「だって、あなたは男同士は罪になると、どうしてそんな」
いつも冷静な彼らしくない、動揺のにじんだ声にわずかに胸が満たされる。
歪んだ悦びだとわかっていた。それでも。
もっと、揺らいでくれ。乱されてくれ。その心を。俺で。
「…あれは嘘だ。
間違いだ。
俺が自分の気持ちを理解してなかった。 罪になるから許せなかったんじゃない…」
そう自分に理解させるように口にして、そっと顔を寄せる。
初めて触れた唇は、やわらかくて冷たかった。
ウィリアムが目を見開いて凍り付く。
「おまえが好きだから、おまえに触れた男が許せなかったんだ」
その密やかな告白にウィリアムが呼吸を失う。
その白い頬が青ざめた気がした。
「…好き?
………あなたが?」
「…ああ」
「…僕を?
どうして、だって、あなたは、僕を疑って…」
信じられないように、あり得ないと言うように、ウィリアムはまるで怯えたような顔で譫言のように繰り返す。
その姿が拒絶を示しているようで胸が痛くて、歪な笑みがシャーロックの顔に浮かんだ。
「…そのはずなのにな」
唇に浮かんだのは自嘲だった。
「疑ってるのに、好きなんだ。
好きになっちまってた。
…おまえが罪人なら、俺も罪人だ」
「…駄目だ」
ふる、と弱々しく首を横に振ってウィリアムはやはり譫言のように否定する。
「…駄目だ。
駄目です。
…あなたは、あなただけは、そんな」
ひたすら拒絶するウィリアムの姿が痛くて、シャーロックはその腕を掴むと近くの空き部屋に彼を引っ張り込んだ。
動揺からすぐに反応出来なかったウィリアムの身体を壁に押しつけ、手首を縫い止める。
そのまま顔を寄せればウィリアムが我に返って悲痛な声を上げた。
「待って!
やめて、ホームズさん…!」
「悪い。
嫌なら、殺してでも拒んでくれ」
「…そんなこと…!」
どこか泣きそうな声だと思った。
途方に暮れた迷子のような声だと思った。
宥めるように抱きしめて口づけると、ウィリアムが茫然としたように掴まれていないほうの右腕をだらりと垂らしたまま力なくこぼす。
「…出来るわけない」
そうつぶやいたウィリアムの緋色の瞳が揺れて、一筋涙があふれた。
「…なんで泣いてるんだ?
嫌だから?怖いから?」
「……わかりません」
ウィリアムは声を上げないまま、人形のように涙を流して答える。
その細い腰に腕を回してかき抱いて、頬をすり寄せても彼は人形のようにされるがままで。
「…わからないんです」
なのにその唇から落ちたのは拒絶でも否定でもなかった。
シャーロックの意のままに腕の中に収まる身体を抱きすくめて、祈るように告げる。
「…なら、泣くなよ」
そうささやいて、もう一度その唇をそっと塞いだ。
「リアム。
…好きだ」
(たとえおまえが、犯罪卿だったとしても)
その想いは、瞳を通して伝わっただろう。
真紅の瞳に張った水膜が破れて、また涙になってその白い頬を濡らしていく。
無抵抗の身体を抱いてその首筋に優しく唇を押し当てた。
あの無数の赤い痕と同じものを刻みつければ、わずかに細い身体が震える。
それだけで気が触れそうな心地になった。
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