テラーノベル
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#百合
第10話 「記録にはない温度」
夜空に編み上げられた双子座が、呼吸するように優しく明滅していた。
天と地の境が溶け去った水鏡の世界。
その中心で
たった一つの新しい白銀のリボンを胸に咲かせたエルが、あやの手を力強く
けれど繊細な硝子細工を扱うように優しく握りしめる。
絡め合った指先から伝わってくるのは
エラーでも数式でもない
今も鼓動する生命の温度だった。
「行こう、あや。私たちの未来へ」
エルの星空の瞳が、まっすぐにあやにゃを捉えて微笑む。
あやが小さく頷いた瞬間
足元の水鏡が大きく波打ち、満天の星々が眩い光の奔流となって二人を優しく包み込んでいった。
宇宙が二人を中心に再定義され
崩壊しかけていた仮想世界線の歪みが、綺麗に編み直されていく――。
世界のすべてが光に満たされ、融解していくその光景を
梓は、少し離れた場所から静かに見つめていた。
光の粒子が二人の少女の輪郭をぼかし
新しい位相へと引き上げていく。
世界線が確定し、激しい演算の嵐が凪いでいくのを感じながら、梓は手の中にあった懐中時計をそっと閉じた。
カチッ。
その小さな音が世界の境界線を叩いた瞬間、あやとエルを包んでいた光の銀河は
静かに、音もなく夜の闇へと溶けて消えた。
二人は無事に、新しく再構成されたセーフティな世界線へと移行したのだ。
激しい地鳴りのような警告音(サイレン)も、空間を埋め尽くしていたホログラムのレコードのなだれも、今はもうどこにもない。
ただ、張り詰めていた緊張感の余白だけが、冷たい夜風となって空間を通り抜けていく。
光の残滓が完全に消え去ったあと、梓は一人、その場に取り残されていた。
足元を見れば、さっきまで透明な湖だった場所は、いつの間にか見慣れた無機質な大理石の床へと戻っている。
けれど、梓の胸の奥には
システムログのどこを探しても定義できない、あやにゃがエルを抱きしめた時のあの熱い「温度」の記憶だけが、消去されずに深く刻み込まれていた。
「……やれやれ。未来は記録通りにならない、か」
誰もいない空間に向かって
梓は小さく、自嘲気味な笑みを漏らす。
そして、一人、静かに歩き出した。
向かうのは、学園の中で最も高く、最も過去のデータが沈殿している場所。
今起きたばかりの「記録にはない奇跡」の正体
を自身の目で確かめるために。
──そうして、夜の時計塔の最上階へと、場面は静かに収束していく。
「記録にはない」
夜の時計塔は、昼間とはまるで違う顔をしていた。
学園の灯りはほとんど消え、遠くの校舎から漏れる光だけが、静かな廊下をぼんやりと細く照らしている。
つめたい夜風が靡く時計塔の最上階。
そこには、ぽつんと梓の影だけが佇んでいた
梓が懐中時計を開く。
その瞬間、何もなかった屋上に、過去の研究室の残像が浮かび上がる。
机の上には古いレコードが幾重も積み重なり、その隣には層をなす書類と、使い込まれた万年筆とガラスのインク瓶が置かれている。
書類に万年筆のセピアがかすかににじむ
梓は一枚の記録媒体を細い指先でなぞり、静かに目を細めた。
「……もう一度。」
懐中時計を開く。
蓋の内側で、幾何学に組み込まれた時計の針がガチッと音をたて小さく震えた。
次の瞬間、空間にホログラムのように過去の映像が浮かび上がる。
研究室。
机。
積み重ねられた資料。
何人もの白衣を着た人間が行き交い、何かを熱心に議論を交わしている。
梓はその光景を眺めながら、白く細い指先をスワイプするように動かした。
映像が巻き戻っていく。
一日前。
一週間前。
一ヶ月前。
一年。
ーさらにその先へー
複雑な歯車が時計仕掛けのように回転し、過去の映像がフィルムのように梓の周囲をかすめながら流れていく
「この時点では、接点なし。」
伏せられた梓の瞳に時計の針が映る。
「ここにもない。」
さらに巻き戻す。
「……ない。」
何度目かの再構成を終えたとき、梓は眉を寄せた。
おかしい。
記録上、彼女と自分には接点がない。
少なくとも、梓が持つ情報からはそう結論づけられる。
それなのに。
「……どうして、僕は知っている?」
その問いが発せられたとき一瞬空間が静止した気がした。
ジジッ….と音をたて
梓の視線の先には1つのフィルムが上映されだす
研究室の映像だった。
そこに映っているのは、凛とした顔立ちの腰までの蒼い髪の少女
万年筆を口元にあて、なにかを真剣に考えているようだ。
今の自分とは少し違う雰囲気
けれど、彼女は自分だと確信してしまった。
凛は机に向かい、紙に万年筆を走らせていた
その横には、もう一つ椅子があった。
誰も座っていない。
ただ、椅子だけが少しだけ引かれている。
梓は映像を停止した。
「……誰の席だ?」
再生する。
隣に視線を向け凛の唇がまるで誰かに語りかけるように動く
けれど、隣にいるはずの人物の姿は映らない。
声もない。
名前もない。
ただ、凛がやわらかくふっと笑う。
まるで、誰かがそこにいることを当然のように。
梓はその光景をみて再び眉をひそめた。
「一体 誰を見てる?」
映像を拡大する。
何もない。
もう一度。
何もない。
さらに再構成する。
何もない。
梓の指が止まった。
その瞬間。
ふわり、と
どこからともなく、コーヒーと微かに香る甘いチョコレートの余韻が空間に漂う
「……。」
梓の表情から、わずかに余裕が消える。
知らないはずの香りだった。
なのに、知っている。
ずっと昔から知っているような気がする。
梓はゆっくりと目を閉じた。
その瞬間、ほんの一瞬だけ何かが脳裏を掠めた。
乱雑に積み上げられた研究書類
紙を走るペンの音
誰かの髪が風に揺れる気配。
そして、隣から聞こえたような声。
『ねえ、凛。』
「……!」
梓が目を開く。
映像は何も変わっていない。
そこには蒼月凛しかいない。
誰かの声など、どこにも記録されていない。
梓は懐中時計を握り直した。
「……再構成。」
フィルムが逆回転する。
「再構成。」
歯車がさらに速く回る。
「もう一度。」
過去が巻き戻る。
けれど、遡れば遡るほど、映像はインクがにじむように薄くなっていった。
記録されていないものは、再構成できない。
「、、、」
ふっと力が抜けたように机に手をつく
それが梓の魔法の限界だった。
存在した情報から、過去を組み立てる。
記録があれば、どれほど遠い過去でも辿れる。
けれど。
記録がなければ。
「……存在しなかったことになる。」
そう呟いた瞬間、梓は言葉を止めた。
違う。
本当にそうなのか。
梓は再び映像を見る。
誰もいない椅子。
僅かにずれた資料。
二人分あるように見えるコーヒー。
そして、誰もいない場所を見て笑う蒼月凛。
「……おかしい。」
梓は静かに立ち上がった。
「記録には存在しない。」
一歩、映像へ近づく。
「なのに。」
指先が、空中に浮かんだフィルムへ触れる。
「僕は、知っている。」
時計の針がカチッと止まった。
空間に静寂が落ちる。
刹那、誰かの気配が梓の瞳の奥を掠めた
柔らかな白い光。
無邪気な微笑みを浮かべる口元
そして、どこか泣きそうなくらい懐かしい声。
『またね、凛。』
「……誰だ。」
その問いに、過去は答えなかった。
ただ、フィルムだけが静かに暗転する。
カチッ懐中時計の針だけが、ほんの一瞬、逆回転する。
梓はしばらく何も言わなかった。
やがて懐中時計を閉じる。
「……まだ、わからない。」
いつもの冷静な声だった。
けれど、その指先だけが僅かに震えていた。
「本当にこれが、過去だったのか?」
ゴーン
時計塔の鐘が、夜の学園に響いた。
その音に重なるように、梓の脳裏にもう一度だけ、あの香りが蘇った。
コーヒー。
チョコレート。
そして、記録には残っていない誰かの気配。
梓は窓の外へ視線を向けた。
そこには、眠りについた学園が広がっている。
そしてそのどこかに。
今の「あや」がいる。
時計塔の鐘だけが夜空へ溶けていく。
フィルムは黒く閉じられたまま。
けれど、誰も座っていないはずの椅子が、
夜風にほんの少しだけ動いた。
「……君は、いったい誰なんだ。」
答えは、まだなかった。
コメント
1件
ああ、読み終わりました……。第10話、すごくよかったです。 エルがあやの手を握る、あの「硝子細工を扱うような優しさ」が、システムや記録の冷たさと対照的で胸に響きました。そして梓の視点になった瞬間、世界ががらりと変わる感じがたまらなかったです。自分の知らないはずの記憶や香り、誰も座っていない椅子の違和感――「記録にないもの」を追う梓の指先が震えるラスト、静かでいて深い余韻が残りました。 次が気になって仕方ないです……!