コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
窓の外から見える空は鉛色で、低く吊るされた雲が街を飲み込むようにして包んでいた。松本美晴はキッチンの窓を眺めながら、自身の心も同じようにどんよりと重い鈍色に包まれていることを感じた。
彼女の結婚生活は、多くの人から見れば幸せと言えるだろう。28歳にして結婚、都内の中心地に住む資産家の妻という立ち位置――しかしその裏で、夫の不遜(ふそん)な態度や義家族との攻防が絶えず続いていた。
(またダメだった)
先ほど訪れた不愉快な鈍痛で生理になったことを知った美晴は、自宅の手洗い内で落ち込んだ。震える拳を掌で包み込む。
(幹雄(みきお)さんになんて言おう…)
義理実家や夫から第一子を切望されている美晴は肩を落とした。子供ができなくてショックなこと以上に、彼らにその事実を告げることの方が正直荷が重く辛い。部屋に戻って痛む腹部を押さえながら引き出しを開け、以前検診を受けた結果の記載された書類を取り出した。
(ブライダルチェックを受けた時、大丈夫だったのにな)
もともと子供を切望していた義理実家に薦められ、結婚前にブライダルチェックを受けたことを思い出す。結果が良好だったため義母が両手離しで喜んでくれた。しかしその時の優しい義母はもうどこにもいない。彼女は人が変わったように美晴に対して冷たくなった。夫も、義父も。それはきっと、彼らの期待に応えられないせいだ。
重い溜息をつき、美晴は夕食の準備の続きを始めた。
毎日異なった一汁三菜を命じられた食事は作るのが大変だ。ぼんやりする時間はない。
慌ただしく食事の用意をしていると、美晴のスマートフォンにメッセージの着信が入ってきた。夫の幹雄からだ。
――接待がある 夕飯はいらない
時間をかけて作った料理は夫のひとことで全部無駄になる。毎日一生懸命夫のために料理をしても、ねぎらいの言葉や『美味しい』という言葉でさえ掛けてもらえない。鈍色の空よりも重い溜息が美晴の口から吐き出された。
(仕方ない。朝ごはんに回そう)
下ごしらえをした主食の肉にラップをかけて冷蔵庫へ入れる。接待は急に入ることもあるだろうが、連絡はいつも食事前、ひどい時は食事の時間をとっくに過ぎてから連絡してくることもある。
すっぽかされる時は毎回こうだ。もう少し早く連絡してくれてもいいのに、と不満が募るが養っている身分で偉そうなことは言えない。
夕食の用意から翌日の朝食の準備に切り替え、それらを整えてから広いリビングで寂しく一人きりでぼそぼそと夕食を摂る美晴。これは彼女の日常茶飯事で、今に始まったことではない。
不満に思うことはまだある。予定を前倒しで帰って来て夕飯の用意ができていないと叱られたり、今日のように自分勝手に接待や飲み会に参加して連絡もなく帰って来ない日もある。そういう時は大抵午前様に帰宅する。
(幹雄さん…昔はすごく優しかったのに)
結婚したばかりの優しい夫のことを忘れたくなくて、未だにリビングボードに飾ったままの写真立てに目をやる。白いフレームの写真立てに納まった夫は、普段とは違い愛妻家の顔をして笑っていた。