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「うわー、もうこんなに売れたの?」
久しぶりに内海不動産のモデルルームを訪れた吾郎は、壁に貼られた部屋番号の上のバラの数に驚く。
建築工事も目に見えて進んでおり、1つの街がもうじき出来上がろうとしていた。
「はい!販売もついに最終期に入りました」
安藤が嬉しそうに声を弾ませる。
「私が担当させていただいた方も、何組かご成約をいただきまして」
「そうなんだ!がんばってるね」
「都筑さんのお力添えのおかげです。本当にありがとうございます」
「いやいや、俺なんか何も。それより、かなりマンションの工事も進んだようだから、映像やデジタルコンテンツもブラッシュアップしようと思って」
「ええ?!よろしいのですか?」
「もちろん。原口さんと木谷さんにも相談したいんだけど」
「かしこまりました。すぐに呼んで参りますね」
吾郎は、タタッとバックヤードに向かう安藤の後ろ姿を見送る。
(少し会わなかった間に、なんかちょっと雰囲気変わったな)
久しぶりに見る安藤は生き生きとしていて、自信に満ちた明るい表情だった。
(仕事が上手くいってるんだろうな。良かった)
以前は真面目な学級委員のように、常に真顔でカリカリとメモを取っていた安藤が、今は顔を上げてにこやかに話をしてくれる。
眼鏡をやめ、ひとつ結びだった髪型も、後ろでゆるくシニヨンにまとめていた。
(そうするともう前みたいに、酔っ払った一人新喜劇は見せてくれないのかな?)
そう思うと、なんだか少し残念な気もする。
またいつか見てみたい、と口元を緩めていると、バックヤードから原口と木谷を連れて安藤が戻って来た。
「都筑さん、お久しぶりです」
「木谷さん、原口さん、ご無沙汰しております」
3人で握手を交わしてから、部屋の隅のテーブルに着いた。
「映像とコンテンツをブラッシュアップですか?こちらとしては嬉しい限りですが、本当によろしいのでしょうか」
「はい、もちろんです。『既存のものに満足せず、常に良いものを目指す』というのが弊社のポリシーでもあります。マンションの建築が進み、全体の風景も随分変わってきました。そこを反映させないままでは、私も納得出来ませんので」
「そうでしたか。アートプラネッツさんの素晴らしさの理由が分かった気がします。それでは、ぜひともよろしくお願いいたします」
「ありがとうございます。詳しい納期はまた後日お伝えいたします」
話し合いを終えてモデルルームを出ると、吾郎は敷地内をゆっくり歩きながら写真を撮る。
(公園やドッグランもほぼ完成してるな)
オシャレな噴水やガーデンなど、改めてここが異国情緒溢れる街のようだと思わせられた。
(透や亜由美ちゃんも、ここに住めば毎日が楽しいだろうな)
二人が笑顔で手を繋いで散歩している様子が目に浮かび、吾郎は微笑ましくなる。
その時だった。
ふいに足元に何かがすり寄って来て、吾郎は驚いて視線を下げた。
「えっ!」
ふわふわでコロコロした茶色の子犬が、吾郎の足に身体をすりつけている。
「お前、どこから来たんだ?」
しゃがみこんで頭をなでると、ぺろぺろと吾郎の手のひらを舐め始めた。
(首輪もないし、近くに飼い主も見当たらないな)
吾郎が辺りをキョロキョロしていると、工事のおじさんが、おっ!と目を留めて近づいて来た。
「まだいたのか、チビ」
「この子犬のこと、ご存知なんですか?」
「いやー、それがな。裏山の工事を始めたら、母犬と子犬が2匹いたんだよ。どうやら山に住みついてたらしくてな。かわいそうに、追いやられて出て行ったんだけど、どうもこのチビだけはぐれてしまったみたいで。見かけたら、時々わしがドッグフードあげてたんだ」
「そうだったんですか…」
吾郎は、頭をすり寄せてくる子犬を抱き上げた。
毛並みはカチコチで艶もなく、身体はやせ細っている。
「あれ、怪我してるじゃないか」
思わす声を上げると、工事のおじさんも、どこ?と顔を寄せる。
「前足のここから血が出てます」
「ほんとだ。木の枝にでもひっかけたかな?」
「おじさん、そこの公園の水道、もう水出ますか?」
「いや、水道工事はまだだ」
「そうですか…」
吾郎は、クゥーン…と、か細く鳴いてこちらを見上げてくる子犬と目が合った。
(まずい。こんなおめめで見つめられたら、もう…)
「連れて帰るしかないか」
そう呟くと、おじさんは「おっ?」と顔を上げる。
「兄ちゃん、飼ってやってくれるか?助かるよ。わしのボロアパートはペット禁止でな。仕事仲間に声かけてもなかなか飼い手が見つからなくて。兄ちゃんが面倒見てくれるなら安心だ。良かったなー、チビ」
おじさんは満面の笑みで子犬の頭をなでていた。
自宅マンションに向かう途中で、吾郎は近所の動物病院に立ち寄った。
事情を話し、怪我の手当てと健康状態を診てもらう。
「あらー、可愛いワンちゃんね。男の子か」
優しそうな女性の獣医はそう言いながら子犬をなでると、顔を上げて吾郎に尋ねた。
「お名前は?」
微笑みながら首を傾げられ、吾郎は、へ?と面食らう。
「あ、はい。都筑 吾郎と申します」
「ゴロウちゃんね。こんにちは、ゴロウちゃん」
そう言って再び子犬の頭をなでる獣医に、吾郎は慌てふためく。
「あ!すみません。吾郎は私の名前でして…」
「まあ、そうだったのね。じゃあこの子のお名前は?」
「えっと…、この子は…、トオルちゃん、です」
「トオルちゃんね。初めまして、トオルちゃん」
すると子犬は、アン!と鳴き声を上げた。
「あら、お返事上手ねー。トオルちゃん」
子犬は嬉しそうにパタパタと尻尾を振る。
「ふふ、元気そうね。では傷の消毒と、体調チェックをしましょうか」
その後、何度も
「いい子ねー、トオルちゃん」
「上手よー、トオルちゃん」
と声をかけられ、子犬は終始ご機嫌で尻尾を振っていた。
「ふう、やれやれ…」
マンションに戻ると、吾郎は子犬を床に下ろす。
病院では、傷は浅い擦り傷で特に心配はいらないと言われ、消毒してから薬を塗ってもらった。
受付の横でドッグフードやリードなども販売しており、吾郎は当面の分だけ購入して帰って来た。
やはり少し栄養が足りていないようだと言われた為、教えられた通りのドッグフードを食べさせる。
「えっと、とりあえずこの食器でいいか」
柔らかいドックフードを皿に載せて子犬の前に差し出すと、少しクンクンと匂いを嗅いでから、パクパクと勢いよく食べ始めた。
「ははっ!いい食べっぷりだな。喉詰まらせるなよ」
あっという間に完食した子犬を抱き上げ、ソファに座ってなでていると、すっかり気を許したように身体を丸めてうとうとし始めた。
病院で洗ってもらった毛並みはふわふわとしている。
「あーあ、まだ見ぬ彼女より先に、お前と同棲することになるなんてな」
独りごちながら、この後の手続きや購入するものを考える。
(えーっと、飼い犬の届け出を出して予防注射を受けて。サークルとキャリーバッグも買わなきゃな)
そこまで考えてふと手を止める。
(名前、どうするかな)
病院で咄嗟にトオルちゃんと答えてしまったが、まさかそのままという訳にはいかない。
(んー、柴犬っぽいから、シバちゃん?それとも、コロコロしてるからコロすけとか?)
なでる手を止めたからか、子犬が目を開けて吾郎を見上げてきた。
「おっ、どうした?シバちゃん」
するとプイッと子犬はそっぽを向く。
「シバちゃんは嫌か?それなら、コロすけは?」
子犬は微動だにしない。
(もしかして、もう染みついてしまったのだろうか、あの名前が)
吾郎は恐る恐る呼んでみた。
「…トオル?」
すると子犬はパッと吾郎を振り返り、アン!と可愛く返事をする。
しまった…、とうなだれる吾郎の顔を、トオルはぺろぺろと舐めまわしていた。
それからしばらくはアートプラネッツのオフィスで、吾郎はモデルルームのコンテンツをブラッシュアップする作業に追われていた。
プリントアウトした大量の資料の上に、大河からもらったフランス土産のペーパーウエイトを載せると、「ああっ!」と大河が大きな声を出す。
「びっくりしたー。なんだよ?大河」
「それ!その凱旋門!ペーパーウエイトだったのか」
「はあ?何言ってんだよ。大河が買ってきてくれたんだろうが」
「そうだけど。俺も瞳子も、なんだかよく分からんものって買ってきた」
おい!と吾郎は真顔で突っ込む。
「何だよ?よく分からんものを土産にするって」
「だってさ、なんだかよく分からんが、『凱旋門吾郎』って感じで似合ってるって瞳子が」
すると洋平と透が、ブッ!と吹き出して笑い始めた。
「ははは!凱旋門吾郎!めちゃくちゃ似合ってる」
「ほんとほんと!アリシア、上手いねー!」
「だろ?みんなのお土産、それぞれネーミングしてたぞ。クロワッサン透とエッフェル洋平って」
ヒーッ!と二人はお腹を抱えて笑い転げる。
「確かに!透、そのクロワッサンのクッションに顔面突っ込んで、よくデスクで昼寝してるもんな」
「洋平だって、そのすかした感じにエッフェル塔が似合ってるよ」
「でも一番似合ってるのは…」
三人は一斉に吾郎を見て声を揃えた。
「凱旋門吾郎!」
「やめんかーい!」
大声で遮るが、三人はゲラゲラ笑う一方だった。
「ただいまー」
マンションの玄関を開けて声をかけると、リビングから「アン!」と返事が聞こえてきた。
「ただいま、トオル。いい子にしてたか?」
サークルから抱き上げて、頭をワシャワシャとなでる。
トオルは嬉しそうに尻尾を振りながら、吾郎の顔をぺろぺろと舐めた。
「ははは!熱烈歓迎だな。お腹空いただろ。ご飯にするぞ」
ドッグフードを食べるトオルを隣で見守りながら、吾郎はソファの前のローテーブルで牛丼を食べる。
いつもならダイニングテーブルで食事をしていたが、トオルが来てからは、トオルのそばで食べるのが当たり前になっていた。
外食も全くしなくなり、仕事も出来るだけ早く切り上げてマンションに帰る。
「あー、なんか癒やされるな。お前がいてくれるなら彼女はいらないや。な?トオル」
食事のあとに膝の上でトオルをなでていると、トオルもアン!と返事をする。
「俺達、相思相愛だな。やべー、男同士なのにな。あいつの前では絶対に言えないけど、大好きだぞー、トオル!」
「アン!」
「ははは!ほんとに可愛いな、トオル」
「アン!」
寝る時もベッドで一緒に眠る。
もはやトオルのいない生活は考えられない。
ますます恋が遠のいていく気がするが、トオルがいてくれるならそれで構わないと、吾郎は本気で思い始めていた。
それから数日後。
吾郎はトオルを連れて内海不動産のモデルルームに来ていた。
映像をブラッシュアップする中で、完成した実際のドッグランで犬を走らせる映像を撮ることにし、トオルにモデルになってもらうことにしたのだった。
「おー、兄ちゃん!この子、こんなに可愛くなったんか」
駐車場に停めた車からトオルを抱いて降ろしていると、先日の工事のおじさんが嬉しそうに近づいて来た。
「そうなんです。すっかり元気になりましたよ」
「そうかそうか。良かったなあ」
トオルも尻尾を振っておじさんの手を舐めている。
「また顔が見られて嬉しいわ。今日は何か用事?」
「はい。ドッグランで遊ばせて、動画の撮影をしようかと。マンションの紹介映像に使うんです」
「へえ、モデルさんか。がんばれよ」
「アン!」
元気に返事をするトオルに目を細めて、おじさんは、またな!と去って行く。
ドッグランに着くと、「都筑さん!」と声がして、安藤が駆け寄って来た。
「今日はわざわざありがとうございます」
「こちらこそ。撮影に立ち会ってくれてありがとう」
「いいえ。わあー、この子がトオルちゃんですね。初めまして!安藤 莉沙です」
トオルは、アン!と返事をして安藤の方に身を乗り出す。
吾郎が近づけると、トオルはぴょんと安藤の腕に飛び移った。
「ひゃー、可愛い!ふふっ、とってもいい子ですね」
にっこり微笑む安藤の顔を、トオルはぺろぺろと勢いよく舐める。
「あはは!元気ねー。つぶらなおめめにふわふわの身体!とっても可愛い」
トオルは吾郎の存在を忘れたように、安藤にべったりになる。
そんなトオルになんだか寂しさを覚えた吾郎は、いかんいかん!と頭を振る。
(どんだけトオルにぞっこんなんだよ、俺)
気を取り直して、早速撮影に入った。
「ほーら!トオルちゃん。こっちよー!」
「アンアン!」
「あはは!速い速い!すごいわね、トオルちゃん」
安藤とトオルは、まるでラブラブなカップルのように抱き合って微笑む。
(なんだろう、なんなんだ?この感覚は)
もう充分撮影出来たというのに、吾郎はもやもやしたままカメラを回し続けていた。
安藤に駆け寄るトオルの生き生きした表情と、トオルに飛びつかれて笑顔を弾けさせる安藤。
そのどちらからも、吾郎は目を逸らせずにいた。
「うーん…」
マンションで動画の編集作業をしながらも、吾郎はどこかスッキリしない。
何がそんなに気になるのか。
自分よりも安藤になつくトオル?
トオルを笑顔で見つめる安藤?
「いやいや、とにかく今は紹介映像を作らねば」
吾郎は淡々と作業を進めた。
全速力でドッグランを駆け回るトオルだけを切り抜いてみたが、どうしても最後に安藤に飛びつくトオルと、満面の笑みでトオルを抱きしめる安藤のワンシーンを入れたくなる。
自分では判断出来ず、結局2つのパターンを用意して、先方に選んでもらうことにした。
モデルルームに行き、木谷や原口、安藤に見せると、最後のワンシーンがあった方がいいと言われ、安藤もそれを承諾する。
そして映像やコンテンツ、全てのブラッシュアップを終えて、納品も無事に済ませた。
めでたく全戸完売となった、と連絡が来たのは、それから3週間後のことだった。