いつの間にか世間はクリスマスカラーに染まり始め、リオンが身を寄せている教会でもミサだ何だとホームにいた頃を彷彿とさせる忙しさに追われていた。
第一アドヴェントのロウソクに火を灯すから家に来いとクリスが幼い妹の手を引いて教会にやって来たのは、日曜礼拝が終わって少し休憩をしている時だった。
まだすることがあると躊躇うリオンを神父が快く送り出し、クリスとリオンを見比べたアンナゾフィー−通称リトル・ゾフィーがリオンに向けて小さなミトンが包む両手を伸ばして抱きあげろと笑顔で強請ったため、遠い遥かな昔、同じ名前を持つゾフィーに自分も抱き上げられていたのだろうと思いつつ小さな身体を抱き上げる。
「……リオン」
「んー?」
「あーね、シューレン、食べよ」
顔のすぐそばで聴こえる幼児特有の舌足らずな言葉の意味が咄嗟に分からずに通訳をしろと兄の顔を見下ろすと、シュトレンを食べようだってと、頭の後ろで手を組みながら歩くクリスがニヤリと笑う。
「おー、シュトレン作ったのか?」
「ん、マミー、作ったの」
「そうか」
「リックも一緒に作ってたぜ」
アドヴェントごとに食べるシュトレンを作ったと満面の笑みで教えられて笑顔で頷くリオンの脳裏に今年もマザーはシュトレンを作ったのだろうかという疑問が浮かび、待ち侘びている人がいるはずだから作っただろう、その待ち侘びている人の中にウーヴェも入っているはずだと気付き、先日出した手紙への返事が届いているスマホを服の上から撫でる。
「……マザーのシュトレン、オーヴェと食いてぇなぁ」
隠すことのできない本音がポロリと溢れ、それを無邪気な顔でリトル・ゾフィーが小さな手で掬い取る。
「オーヴェ、あいたの?」
「……っ……そーだなー、すげー逢いてぇなぁ」
自分から飛び出したくせにやっぱりいつもどこにいてもオーヴェに会いたい、声を聞いて抱き締めたいと遠い空を見上げながら軽い口調で呟くリオンだったが、クリスが見上げたその顔は子供にはまだまだ理解出来ないものながらもいつも陽気で笑っているリオンが初めて見せる苦しんでいるような顔だった為、会えるよと思わず声をあげてしまう。
「クリス?」
「会えるって! リオンが会いたいって思えばオーヴェに会えるよ!」
だからそんな悲しそうな顔をするなと一端の男の顔で拳を握るクリスに呆気に取られたリオンだったが、そうか会えるかと苦い笑みを浮かべつつクリスの頭に手を乗せて髪をくしゃくしゃに乱す。
「やめろよ!」
「……ダンケ、クリス」
「へへっ」
リオンの小さな感謝の言葉に子供の顔に自慢げな色が浮かび、リオンに抱き上げられて笑顔を浮かべている妹の頬を指先で突いた兄は、早く家に行こう、ママもリックも待っていると笑う。
「そーだな」
第一アドヴェントを祝うために待ってくれているお前の家族をこれ以上待たせるわけにはいかないなと頷き、本来ならば真っ先に帰らなければならない己の家族にもう帰ると伝えられない己の不甲斐なさに拳を握りしめるが、二人の子供にはいつもと変わらない笑顔を見せるのだった。
今年もシュトレンを作りました、一緒に食べませんかとの優しい声で第一アドヴェントの誘いを受けたウーヴェは、もうそんな時期なのかという感慨とクリニックの下の広場でもクリスマスマーケットの準備が始まっていたことを思い出し、気怠げな気持ちのまま行きますと返事をする。
リオンが家を出てしまってから季節は秋を過ぎて冬に入り、もうすぐ自分達の誕生日を迎える十二月になっていた。
必ず帰る、愛しているという言葉で締め括られる手紙は以前に比べれば週に一度のペースで届くようになっていたが、必ず帰ってくるという言葉を信じて待つ心の中にまるで光り輝く太陽の中の黒点の様に暗い思いが時々顔を出し始めていた。
リオンを信じ待つという気持ちに変わりはないが、秋の風が吹き抜けて冬の女王が目覚めたことを示す冷たい風が吹き始めた頃、ウーヴェの心の中にも冷えた風が一度強く吹いた。
それは急激に冷えた日の朝、眠りの底から一気に引きずり上げられるほどの足の痛みを覚えた時で、今までならばこんな時どれほど深い眠りに落ちていても目を覚まして痛みを軽減させてくれる手を貸してくれたリオンがいないという現実をまざまざと突きつけられた時だった。
一瞬で全身に浮かんだ冷汗を流しながら痛みを訴える足を抱え込み、悲鳴をあげる事すら出来ない痛みの中、ウーヴェの脳裏に浮かんだのは、今まで痛みを和らげてくれたリオンという存在はもしかして現実逃避をするために脳味噌が生み出した己にとって都合の良い存在ではないのかという疑問だった。
まだ自分はあの事件の中にいて犯人たちの言葉通りスイスに売られてしまい、その現実から逃げ出す為にリオンという存在を生み出しただけでは無いのかという、何を信じれば良いのかも分からない闇の中に一人放り出されてしまい、抑えることの出来ない恐怖に頭を抱えたウーヴェだったが、その時、胸元に何かが鈍く光った気がし、痛みと恐怖に霞む視界でその光を確かめる。
それは、己が生み出した幻想ではとたった今疑問を抱いたリオンが残していった結婚指輪にサイドテーブルの照明が反射したものだった。
「……!」
この指輪はあの事件の時には存在していなかった事、己のものはリオンに預けた事を思い出すと足の痛みは変わらなかったが、闇と恐怖が徐々に薄らいでいく。
この痛みも永遠に続く訳ではない、いつかは治まるはずだと己に言い聞かせ、パジャマが汗を吸って重くなった頃にやっとベッドに起き上がれる様になったウーヴェは、リオンのいないベッドの広さが唐突に恐ろしくなり、何かに縋り付きたい思いに囚われる。
いなくなるなど想像出来ないほどリオンの存在が当たり前になっていて、不在になった今その存在の大きさに押しつぶされそうになる。
ベッドの上で上体を折ってコンフォーターを握り締めたウーヴェの口から今まで殆ど口にしたことのない、神を呪い己が生きて来た道をも呪う言葉が歯軋りの奥から流れ出してしまう。
それを止める存在もいない、まるで世界にひとりきりの様な孤独の中で握り締めた拳にポツリと滴が落ち、ついで暗い笑い声が流れ出す。
リオンは必ず帰って来る、先日届いた手紙にもそう書いてあったはずだ、だからリオンを信じなくてどうするという声と、信じていようがいまいが今そのリオンは何処にいるかも分からず、戻って来るという言葉も紙に書かれただけの文字の羅列だと反論する声が頭の中で響く。
どちらの声も煩いと笑いの中で呟いたウーヴェは痛みを覚えたままの足で何とかベッドから降り立ち、ステッキと部屋や廊下に設置されている手摺を頼りに仕事に向かう準備に取り掛かる。
バスルームから出て来た時には足の痛みはいつも感じているものと同程度となり、食欲も何もない為にクローゼットで着替えを済ませると、痛みにのたうち回っていた面影など一切見せない顔で自宅を出たのだが、その直前に車のキーなどを吊るしている壁のフックの一つに、肌身離さず付けていた誓いの指輪を無表情に外してネックレスごと引っ掛けたのだ。
その日以降、リオンの指輪は定位置であったウーヴェの胸元から玄関の必ず目につく壁掛けへと移動し、マザー・カタリーナから誘いがあったその日もそこでウーヴェが出掛けるのを見守っていた。
そろそろ約束の時間だとリビングのソファから立ち上がったウーヴェは、隣に座っている異様な大きさを誇るテディベアの頭を無意識に一つ叩いてシュトレンを食べて来るかと笑みを浮かべるが、暖炉の上に並べた自分達に所縁のある人々や家族の写真には目も向けずに淡々と出掛ける準備をし、せっかくの休日に気怠いと思いながらステッキをついて長い廊下を進み車のキーを手に取るが、その隣にひっそりと光るリングを一瞥するだけで玄関のドアを開けて出ていくのだった。
己の右手にも胸元にも指輪がない状態は一体いつ以来だろうと車から降り立ちながらぼんやりと考えていたウーヴェは、リオンと付き合っていなければ絶対に訪れる事がない教会の敷地にステッキをつきながら進み、小さな家の小さなドアをノックする。
「いらっしゃい、ウーヴェ」
「こんにちは、マザー」
お誘いに乗ってシュトレンを食べに来ましたと笑うウーヴェの頬にキスをしたマザー・カタリーナは、よく来てくれたとウーヴェと肩を並べてキッチンに向かい、室内にいた皆にウーヴェが来た事を笑顔で伝える。
その言葉に真っ先に反応したのは子供達と遊んでいたノアで、振り返りながらウーヴェに笑いかける。
「ハロ、ウーヴェ」
「……来ていたのか、ノア」
その顔がごく自然とリオンの笑顔を思い出させて胸に芽生えた痛みを何とかやり過ごして頷くと、切り分けられたシュトレンが差し出される。
「ウーヴェにだって」
「あ、ああ、ありがとう」
夏の終わり頃にここに転がり込み、それ以来仲の良かった両親と物理的にも心理的にも距離を取ったノアだったが、いつまでもここの人たちの優しさに甘えていてはいけないと気が付いたらしく、また少し離れていたことからまた写真を撮りたくなった為、作業場兼自宅に出来る空き倉庫を格安で支援者から借り受けてそこに引越しをしたのだ。
ノアがここでリオンがどのように暮らしていたのかを見聞きして己と比べて落ち込んだ時もあったようだが、今はその落ち込みようからも復活しているようで、絶対に外部に出すことはない条件で今まで殆ど撮る事のなかった人の写真を撮るようになっていた。
ここで日々暮らす子供達の笑顔や泣き顔といったコロコロと変わる表情をファインダー越しに覗いていると、何も知らずにのほほんと生きて来た己に対する自嘲の思いも薄らいでいき、今ではリオンに対して申し訳ないという後ろ暗い思いよりも、初めてリオンと言葉を交わし仲良くなれればと思ったその思いが強くなっていた。
ここにリオンがいればどれだけ楽しいだろう、そう思いながら子供達やその子供たちを見守るマザー・カタリーナやブラザー・アーベルといった大人らを写真に納め、ここに残す為だけにアルバムを作っていたノアだが、そう言えばウーヴェを撮っていなかったと唐突に気付き、キッチンの椅子を引いて腰を下ろすウーヴェに写真を撮って良いかと問いかける。
「え?」
「ここの人達は皆撮ったけど、ウーヴェはまだ撮ってなかったなぁって」
だから写真を撮って良いかとフォトグラファーの好奇心よりも礼儀正しさを優先させるノアの言葉にウーヴェが返事を躊躇うものの、自分など撮っても楽しくないと微苦笑するがそれでも良ければ好きにすれば良いと笑みを浮かべる。
「マザー、シュトレン美味しいな」
「そうですか? それは良かった」
本当なら一番食べさせたいリオンがここにいないことは残念ですがと悲しげに顔を伏せるマザー・カタリーナにどんな言葉も返せなかったウーヴェだったが、小さく首を振って大丈夫です、必ず帰って来ますとまるで己に言い聞かせるように告げ、テーブルに飾られている蜜蝋のキャンドルを見つめ、二人で毎年作っていたクランツや一つずつ買い足していたオーナメントも今年は作ることも増えることも無いと内心で苦笑する。
リオンとの約束でそれらを毎年行っていたが、付き合い出す前まではクリスマスや己の誕生日も祝う事がなかったのだ。
その頃の習慣に戻るだけだと己でも驚くほど冷たい声が胸の中で響き、メガネのブリッジを押し上げながらそうだなと自答してしまう。
その言葉にノアが小首を傾げてウーヴェを見つめるが、最愛の男と良く似た顔に見つめられていることにも気付かず、近寄ってくる子供の頭を撫で抱き上げて足の上に座らせ、同じようにシュトレンを食べるのだった。
少し控え目な照明が手元のグラスに落ちて琥珀の波に吸い込まれる。
流れる音楽は耳に心地よいピアノジャズで、思わず周囲をそれとなく見回してしまったノアの横、クスリと小さな笑い声がカウンターの上に落ちる。
「……あまりこの手の店には行かなかったか?」
「友人たちもクナイぺとかが好きだからなぁ。こんな風にホテルのバーで酒を飲むことは殆どないかなぁ」
あるとすれば仕事関係の人達と飲むぐらいだと苦笑するノアに頷いたのはウーヴェで、一体何日振りに飲むだろうと呟きつつグラスの中のバーボンを一気に呷るように飲み干す。
喉を焼く強い酒だが噎せ返る事などなくグラスをカウンターに溜息と共に置くと、ウーヴェの酒の飲み方を知らなかったノアの顔に驚きの色が浮かぶ。
リオンと三人で一緒に食事をした時、また酒を先に飲むと苦言を呈されていたウーヴェだったが、今の飲み方を見れば心配から文句の一つも言いたくなるとあの時のリオンの言動を理解したノアだったが、止めていいのかが分からずに様子を見守っていると、メガネの下からターコイズ色の双眸に見つめられて鼓動を跳ねさせてしまう。
「ウーヴェ……?」
「……飲まないのか?」
良かったら飲みに行かないかと誘ったのはきみなのに飲まないのかと笑われてしまい、狼狽えながら顔を赤らめてしまう。
「え? あ……カクテルにしようかな」
バーテンダーにソルティドッグを注文したノアにクスリと再び小さな笑みを見せたウーヴェは、バーボンのロックをとバーテンダーにオーダーするが、飲むなら何か食え、可能なら同じぐらい食えと口うるさく言われていたことを思い出し、その言葉を振り払うように頭を振る。
「ウーヴェ?」
「何だ?」
ノアがホームに転がり込んで何ヶ月か経つが、その間最低でも週に一度は顔を出していたウーヴェとそんな彼を出迎えていたノアはごく自然と仲良くなり、今のように飲みに行くのは初めてだが食事に出かけたりホームで行われるバザーの手伝いを一緒にしたりと、共に時間を過ごすことが多くなっていた。
そんな中でノアがリオンとの馴れ初めや付き合っている頃、結婚してからの話を聞かせてくれという為、自分一人では判断ができないこと以外はある程度話をしていた。
だからノアの疑問の言葉に体を少しだけ向き直って頬づえをついたウーヴェは、早く帰って来るといいなと素直な思いを口に出されてグッと奥歯を噛みしめてしまう。
「そう、だな……」
リオンが帰って来れば。
それだけで今は一人で苦しんでいるリオンが抱えている問題が解決するわけではないが全ての事象が昇華される、そんな錯覚を抱きそうになって自嘲でそれを押し留めたウーヴェだったが、早く帰ってきて欲しい、あの広いベッドで独りで寝るのはもう嫌だという大人の顔をした子供じみたワガママが胸の奥にむくむくと湧き上がるのを止められず、グラスを握って何とか堪えることに成功する。
「……まあ、手紙の回数が増えたことだけでも、マシになったかな」
「そっか……」
どうしても早くなるペースにノアが付いて行けずにあまり飲み過ぎは良くないとウーヴェに控えめに忠告するが、これぐらい大丈夫だという酔っ払い特有の言葉が返ってくる。
大丈夫かな心配だなと素直にウーヴェを案じて眉尻を下げるノアの様子に気付きつつどうしても飲むことを止められず、それでもロックで飲んでいたものを少し薄めのハイボールへとチェンジし、摘みに何か適当に出して欲しいと告げると、程なくして出されたのは何種類かのチーズとチョコの盛り合わせだった。
「……」
そのどちらもリオンの好物であることを誰よりも知るウーヴェが自分でも理解できない苛立ちと不安と、そして言い表せない寂寥感を抱えながらそれを見るのはただ辛いだけで、今まで何とかやり過ごしてきた事も今日は心のささくれに引っ掛かってしまうことに諦めの溜息を吐き、チョコを摘んで口に放り込む。
「……そういえば、ご両親とはまだ連絡を取っていないのか?」
溜息ばかりから気分を切り替えるようにノアに逆に問いかけたウーヴェは、取っていないがテレビでウィルが仕事に復帰したこと、マリーも徐々にテレビに出たりしている事を見たと教えられて頷き、きみの仕事はどうするんだと更に問いかけると、また写真を撮りたくなって来たからアーベルが借りてくれた倉庫で作業出来る様に機材等を揃えていると、グラスを片手に自嘲と自慢が綯い交ぜになった笑顔で答えるノアにそうかと再度頷いたウーヴェは、何か手伝えることがあれば言ってくれと笑みを見せ、ハイボールを飲み干す。
この街で狙撃され大変な目に遭ったノアの母と妻を献身的に支えていた父だったが、その二人がリオンの実の親だと判明してからの出来事が脳裏を過ぎり、この街に来なければリオンは今頃根源への疑問を抱えつつも己の側で喜怒哀楽を表現し、毎日同じベッドで温もりを感じながら夜を越えて朝を迎えていたのにと普段のウーヴェならば考えつかない言葉が次から次へと溢れ返って来る。
だがそれを隣にいる彼らの息子であるノアにぶつけても仕方がない事も理解していた為、何度目になるか分からない溜息を零してバーテンダーにお代わりを注文する。
「ウーヴェ、そろそろやめた方が良くないか?」
「……そう、だな」
これを最後の一杯にしようと自嘲とも何ともいえない笑みを浮かべて頷くその顔にノアの顔が曇り、この場にはいないリオンの顔も曇ったような錯覚に囚われたウーヴェは無意識にその頬に手を伸ばし、出て行く前ならば当たり前だった頬を撫でてそこにキスをしてしまう。
「そんなに心配するな、リーオ」
「……!!」
俺は大丈夫だから心配するなといつものように穏やかな笑みを浮かべてリオンにだけ見せていた顔で囁いたウーヴェだったが、リオンならばすることのない赤面をしてロイヤルブルーの双眸を左右に揺らす様子に一瞬で酔いから覚めたように顔を青くさせるが、最愛のリオンに良く似たノアに触れ、まるでリオンに触れているようだとアルコールの回った脳味噌が判断した結果、自身でも驚くような言葉を照明の明かりのように小さく呟いていた。
「……独りは、イヤ、だ……」
二人で使っていたベッドをただ独りで使う事にもう耐えられない、目が覚めた時にお前が横で寝ていない朝はもう嫌だと顔を伏せながら繰り返したウーヴェにただ呆然としていたノアだったが、伏せられたウーヴェの顔を覗き込んだ瞬間、仕事の時も今も手離せないポケットが幾つもあるベストを脱いでウーヴェの頭に被せる。
そしてバーテンダーに何事かを囁き掛けると、ポケットからチップにしては高い紙幣をそっと差し出す。
ノアが何をしているのかを確かめる事ができなかったウーヴェだったが、頭にベストを被せられてからさほど時間が経っていない頃、バーを出る事を低い声で教えられ、顔を上げることも出来ずにスツールから立ち上がるとふらつく身体を腰に回された腕に支えられる。
誰かに身体を支えられるなど今までそれをしていたのがリオンだけだった為、ウーヴェの中で堪えていた何かがプツリと音を立てて切れてしまう。
「……っ……!」
ベストの布地ごしに泣くなと囁かれた気がしたが、自分が泣いているのかもその声を掛けたのがノアなのかリオンなのかも理解できなかったウーヴェだったが、何処に行くんだと問いかけ、部屋を取ったからそこで休んで帰ろうと囁かれて素直に頷き、ただ支えられながらノアがバーテンダーに多めのチップを支払って取ってもらった部屋に連れて行かれるのだった。
急遽取ってもらった部屋は青いカーテンがアイボリーの壁に映える部屋だったが、そこに意識を向ける余裕など無く、足を引きずって歩くウーヴェをとにかく座らせたかったノアは、壁際に置かれているラウンドソファに向かおうとするがベッドに座らせた方が早いと気付いてベッドに座ってくれとベスト越しに告げる。
言われるがままに座るウーヴェの頭からベストを取り、その前に膝をついて顔を見上げたノアは、眼鏡のレンズやフレームに溜まる涙や頬を流れ落ちるそれにグッと唇を噛み締め、この部屋を取ったのはウーヴェをただ純粋に休ませるためだけだと己の中に芽生えた後ろ暗い思いに蓋をするように頭を振る。
だがそんなノアの努力をいとも簡単に打ち破るように顔を少しあげたウーヴェが雨上がりの夜空を思い出させるような笑みを浮かべ、ああ、帰って来たんだな、おかえり、リーオと呟いてノアに覆い被さるように抱き締めた為、ノアの中でも堪えていた何かが音を立てて崩れてしまう。
両親と離れた心細さやリオンに対する罪悪感を抱えながら兄が育った児童福祉施設で日々暮らしていたが、そこにこまめに顔を出しては己を気遣ってくれるウーヴェの存在はノアが思っている以上に己の心を助けてくれていて、感謝の思いがいつしか思慕の念へと変化をしていたのだが、己の頭を抱きしめながらやっと帰って来た、もう独りは嫌だ、どこにも行くなと誰にもこぼす事のなかった本音を涙と共に流しているウーヴェを放っておけずに流れ落ちる涙だけでも止めたかったノアは、その耳にうんとだけ囁き掛けて力を込めて立ち上がり、驚くウーヴェの顔から眼鏡を取ってサイドテーブルに置くと細い肩を軽く押して背中をベッドに沈ませる。
今から自分がしようとしている事はリオンに対する新たな裏切り行為であり、彼に肉親による新たな傷をつける行為だから止めておけと理性が叫んでいたが、覆いかぶさるように見下ろしたターコイズ色の双眸から止まることなく流れる涙をただただ止めたくて、先程の笑顔が己に向けられたものではない事を十二分に理解しつつも抑えられないと自嘲したノアは、抱きしめようと両腕を伸ばすウーヴェに覆い被さり、薄く開く唇に微かに震えながらキスをするのだった。
細く開いたままのカーテンの向こう、冬の女王の子供達が楽しそうに駆け抜ける風の音が窓を打ち、行き交う人々の体を竦みあがらせていたが、二人の耳にはそんな物音も何も入らず一夜の夢や偽りと分かっていても止められなかった温もりを互いに求めあうのだった。
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