俺が姿を消したのは、自然発生的じゃなかった。
静かに、少しずつ、それが最初で最後の選択だと自分に言い聞かせながらの撤退だった。
ある朝、メンバーに告げた。簡潔なメール一通。
「もう、このまま続けられそうにありません。脱退します」
理由も言葉も、長くはしなかった。説明しようとすると、胸の奥の何かが硬くなって、言葉が出なくなったからだ。
りうらは最初、信じられないという顔をしていた。
「ないくん、冗談しょ?」と笑いながら来たその顔には、本気で信じてほしい気持ちが滲んでいた。
いむは言葉を詰まらせ、しょーちゃんは怒りとも悲しみともつかない表情で俺を見た。
まろは震える声で「なんでやねん、ないこ……」とだけ言った。あにきは黙って、俺の肩をつかんだ。温かさが、余計に冷たく刺さった。
直接会って話す場面は、最小限にした。集まった顔ぶれを前に、俺はただ一度、短く頭を下げた。
「ごめん。もう続けられない」
──それだけだった。
誰も止められなかった。
止める言葉はあったかもしれない。怒鳴ることも、土下座することも、必死に頼むことも。
でも俺の中では、決裂はとっくに起きていて、外からの力では戻れない地点に達していた。
脱退発表のニュースは、静かに広がった。
ファンは悲しみ、憶測が流れ、メンバーはSNSで謝罪と釈明を繰り返した。
だが謝罪の言葉は全部、空回りしていた。
俺が必要としていたのは「助けてくれ」という一言だったのに、届いたのは
「頼むから戻ってきてくれ」
──それは他人のための呼びかけだった。
去ったあと、俺は街を転々とした。狭いアパート。短い日々。
仕事は辞め、連絡も断ち、誰とも会わなかった。
心は硬い殻に包まれ、感情は砂のように扱われた。触れれば崩れそうで、誰にも触れてほしくなかった。
メンバーたちは、最初は必死に動いた。
りうらは公の場で涙を隠せず、いむは取材の前でも顔色が悪かった。しょーちゃんはスケジュールを投げ出してでも会いに行こうとしたらしい。まろは夜遅くまで仕事をした。あにきはいつもより声が小さくなった。
けれど、時間は容赦なく進んでいく。仕事があり、スケジュールがあり、責任がある。
人の心は、いつしか日常の波に揉まれて、記憶の岸辺に小さな石を一つずつ打ち付けていく。
「ないこ」はその岸辺の外れに置き去りにされた小石のように、徐々に見えなくなっていった。
数ヶ月後──
俺の名前は、グループの活動記録の端に残っているだけだった。ファンの間では「あの頃のないこ」を懐かしむ声が小さく揺れている。メンバーは表情を引き締め、新しい形で前に進んでいる。だが彼らの目に、あの頃の温度は戻らない。
ある夜、りうらが一人で俺の近くまで来たことがあったらしい。話したかったのかもしれない。だが俺は会わなかった。会うことが、自分を壊すことに思えたからだ。りうらは翌日、顔を青くしてスタッフに謝っていたという。
それが正しい選択だったのか、間違いだったのか――今でもわからない。
ただ一つ確かなのは、あのとき俺は助けを求めることができず、そして彼らは気づくのが遅かった。双方のすれ違いが、取り返しのつかない距離を作った。
──数年後、彼らの口から「もしあの時気づいていたら」という言葉が零れることがある。
ラジオのインタビューの合間、まろがふと視線を落とし、小さく呟いたという。
「ないこが、もう一回笑ってくれたらな」
りうらは、いまだに時折夜空を見上げる。
いむはステージの袖で、「ないちゃん」と小声で呼ぶことがある。
しょーちゃんは酒の席で、声を震わせて謝る。あにきは鏡に向かって何度も「ごめん」と言い聞かせているらしい。
だが、俺の世界はもうその中には戻らない。
俺は静かに、遠くで生きている。たまに思い出すのは、温かな日々の断片と、あの日の電話で溢れた言葉。どちらももう修復できない。
彼らの後悔は重く、胸に刺さる棘となって残った。
それはいつか癒えるかもしれない。しかし、同じ形で「ないこ」が戻ることはない──その事実だけが、皆の心に深く刻まれたままだった。
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