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日曜日の朝・・・
沙羅の家のリビングは窓から差し込む朝日の光で、電気をつける必要などなく、陽光は隅々まで部屋を明るく照らしていた
リビングの中央に置かれたガラスのテーブルには、毎週日曜日の朝、決まって届く大輪のユリの花が飾られていた
大輪でとても瑞々しく、純白の花びらが満開に咲き誇るユリは、一輪一輪が力強い生命力と繊細な美しさを兼ね備えている
今、沙羅はソファーに腰を下ろし、花びらの先端に透明な光沢を放って輝いている、ユリの花をじっと見つめていた
大きく息を吸ってユリの香りを吸い込む、その香りは甘く濃厚で、今は部屋中に漂っている
まるでユリそのものが愛に満ちているかの様で、香りを吸い込むたびに心の奥深くが切なく震えた
ユリの花が好きだと言った沙羅の言葉を聞いて、一年間毎週日曜日にユリが届く様に、力はその場で注文した、沙羅が一週間子育てに、仕事に頑張った感謝のしるしだとも言った
力の連絡がぱったりと無くなって、確かに真由美には八年前と同じだと言ったが、今回は大きく異なっていることにも気づいた
それは沙羅がどうしても力の愛を疑えないことだった
どうしても、どう考えても、どの角度から疑ってみても、目の前にある大輪に咲き誇っているユリの様に、今でも沙羅の心の中に力の愛は輝いていた
ガラスのテーブルに置かれたタブレットに目を向ける、画面にはニュースサイトの見出しが大きく映し出されていた
【ブラックロックの謎:リードボーカル『力』は本物か? 急浮上する『影武者説』の真相第3弾】
沙羅は食い入る様にその文字を見つめていた、タブレットの画面をスワイプする指先に思わず力がこもる
楽屋で自撮りする力の写真・・・いや、力の「影武者」と見れる男の傲慢な笑顔が、沙羅の胸を締め付けた、その笑顔は力のものとは似ても似つかない、どこか冷たく計算高いものだった
「何よコイツ・・・力のフリして好き勝手にもほどがあるわ」
彼女の瞳には怒りと悲しみが交錯していた、あの日・・・力がワールドツアーに出る直前に交わした約束が沙羅の心に焼き付いている
「ツアーが終わったら、僕たちは家族で一緒に暮らすんだ
・:.。.・:.。.
その言葉を思い出す度沙羅の胸は熱くなり、同時に鋭い痛みが走った
今ならわかる・・・八年前とは違う、私達はたしかに家族の絆を築けたはずだ
沙羅はため息をつき、視線を左手の薬指に光る指輪に落とした、一度は外そうと思った力から贈られたハリー・ウィンストンの時価総額1500万の婚約指輪『エタニティ・プロミスリング』・・・
もし力が私を嫌って連絡をして来ないのではなく、彼は何か窮地に立たされて連絡したくても出来ない状態だったら・・・
昨夜、沙羅は再びこの指輪をある決意と共に薬指にはめた
その時真由美と陽子がリビングに入ってきた、二人は沙羅の異変に気づいてそっと近づいて来た
「ニュース見た? またあの力の『影武者』が暴言吐いて暴れてるわ」
真由美の声には苛立ちが滲んでいいた
「まったく信じられないよね」
陽子の眉間には深い皺が刻まれていた、沙羅は深く息を吸い、二人を見やった
「力は・・・本物の力はあんな傲慢な態度は絶対ににとらないわ、あの人は私にさえ一度も声を乱暴に荒げたことなんてないのよ、ましてや、力が何よりも大切にしているファンに暴言を吐くなんてありえない!」
沙羅の声は震えていたが、どこか強い決意が滲んでいた、一度はまたあの八年前の悪夢がよみがえったのかと思っていたが今は、音々と築き上げてきた力への信頼と愛を、もう一度信じて見ようと思った、その信頼が沙羅を突き動かしていた
「ここ数日騒がせている芸能サイトのニュースとXの投稿を全部追ってるけど、やっぱりおかしいわ、あんな広告まみれのライブ配信! 力のライブがあんなチープなものになるわけないわ、調べたんだけど、ジョンハンってプロデューサーが怪しいって、Xでもめっちゃ言われてるよ」
陽子も顎に手を当てて続ける
「夕べの配信でも『ジョンハン様ー!』って叫んでたよ、あんなの力じゃないって一発でわかるよ、ファンも気づき始めているよ」
「うん・・・力の偽物から「ジョンハン」ってよく出て来るよね・・・その人なら本物の力のこと知ってるかもね?もしかしたら力は・・・私達に連絡を出来なくされてるのかも」
沙羅の声は小さかったが決意は揺るぎなかった
沙羅の心に八年前の記憶が蘇る・・・
あの頃彼女は力に置き去りにされ、ただ力なく泣いているだけの無力な少女だった、すぐに音々を身ごもり身動きが出来ず、ひたすら彼の帰りを泣きながら待つだけで、何もできなかった・・・
でも今は違う、私はあの頃の自分ではない
沙羅は窓辺に歩み寄って窓を見た、外は彼女が生まれ育った町が夕暮れに染まり、遠くで車のクラクションが響く・・・
ずっと愛してきたこの光景に今は力だけがいない
あのワールドツアー直前の一か月、沙羅と音々、そして健一、ブラックロックのメンバー達と過ごした日々が沙羅の心に鮮やかに甦る
力は音々を抱き上げてギターのコードを教え、沙羅とは夜ごと体を重ね、耳元で何度も愛を囁いた
朝は3人で沙羅のパンを食べ、昼は公園で音々と走り回り、夕食後はリビングで熟年夫婦の様に寄り添って映画を見てくつろいだ、そして音々が寝た後は新婚夫婦の様に朝まで愛し合った、そのどれもが力の幸せそうな笑顔で溢れていた
「沙羅・・・これが僕の夢だったんだ、音楽も大事だけど君と音々ちゃんが僕の全てだよ」
・:.。.・:.。.
力の優しい顔が幻の様に心に浮かび上がる
あの時間は確かに幸福な家族だった、あの安らぎを、力が自ら捨てたなど、沙羅には到底思えなかった
何かが起きている・・・
沙羅の心に刻まれた力への愛が今、彼女を突き動かして行動させようとしていた
「私・・・韓国へ行く!」
「ええ?」
「ええ?」
真由美と陽子が同時に驚きの声を上げた
「で・・・でも・・・韓国に行ってどうするの? 何か手掛かりはあるの? 危ないかもしれないよ?」
陽子の声には心配が滲んでいた
「危なくたって構わない! 力は私の夫で、音々の父親よ! ジョンハンだか何だか知らないけど、もし誰かが力に危害を加えているなら、私が助ける!」
「そんな!よく考えて、あなたに何かあったらどうするの?音々ちゃんは?」
陽子が必死に沙羅に音々の為に考え直せと言う、それを言われると沙羅も後ろ髪が引かれた、しかし数日考えた結果だ
音々の為に例え力がもう帰ってこなくても、通常通りの日常を送ろうと今まで頑張って来た、でもそれが本当に音々のためになるのだろうか
真相を何も知らないまま、あきらかに動画の力は力でないのに、メンバー誰も連絡をよこしてこないのに、このまま何も掴めないまま、ここで気に病んで年を重ねて行くのだろうか
それならば力を追いかけて行って、真相を見極めて帰ってきた方がたとえどんな結果になろうと音々にママは頑張ったと言えるだろう
「わかった・・・音々ちゃんは私に任せて! 健一さんもいるし」
突然真由美が言った
「ちょっと! 真由美! そんな無謀なこと言わないで!」
陽子が慌てて割って入るが真由美も聞く耳をもたない
「だって行くしかないよ! ここで指を咥えて見てたら、あの影武者が何をするかわからないわ! 今はブラックロックの最大の危機よ! どんどんファンが離れていってる、あの訳のわからない影武者のせいで、力達が築き上げてきたものがボロボロにされてるのよ!」
真由美の言葉に沙羅の決意はさらに固まった、陽子がキョロキョロと沙羅と真由美を見つめ、観念したように言った
「わかった! わかったわよ! あたしも協力するわ! でも、まずは情報集めよ! 沙羅が韓国で困らないように、あたしがバッチリ調査してあげる! 韓国に行くのはそれからよ!」
「ありがとう、陽子! 真由美!」
沙羅の目には涙が浮かんでいたが、その奥には燃えるような決意があった
沙羅は指輪をそっと撫でた、心の中で音々の笑顔と力の優しい声が響く、自分はもう、ただ待つだけの弱い少女ではない、愛する我が子と夫のために立ち上がる覚悟はできていた
でも・・・もしただ単に、力に私が愛想をつかされてるだけなら・・・ああっ!それを考えると不安でたまらない!
そこで沙羅はその考えを振り払うようにブンブンと首を振った
「お店は私と陽子でやるから大丈夫よ!」
「健一さんにも連絡しましょう!」
「あなたが帰って来るまでみんなで音々ちゃんを育てるわ」
真由美と陽子が沙羅の肩に手を置いて言った
「今の沙羅、たしかに八年前と違うわね、地の果てまで力を追いかけるその覚悟、めっちゃカッコいいよ、応援するからね!」
「あの偽物のみぞおちにアッパーカット、決めて来て!」
「真由美・・・陽子・・・ありがとう・・・」
沙羅は二人の友情に涙が溢れて来た、そしてタブレットを手に取り、傲慢に笑う、いまいましい影武者の顔をじっと睨んだ
「これ以上偽物なんかに力の歌を唄わせないんだから・・・」
沙羅はそう胸に決意し、ぐっと下唇を噛んだ
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