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東京都港区白金台。
広大な敷地を持つ料亭『八芳園』の奥座敷、離れの個室は、都心とは思えないほどの静寂に包まれていた。
手入れの行き届いた日本庭園から響く、ししおどしの音だけが、カコン、と乾いたリズムを刻んでいる。
上座に座る老人は、まるで岩巌のような威圧感を放っていた。
海道龍之介(かいどう りゅうのすけ)。七十八歳。
日本の重工業界を牛耳る『海道重工』の会長であり、経団連の名誉顧問。
政財界に太いパイプを持ち、一言で内閣を揺るがすとも言われる「財界のフィクサー」だ。
だが今の彼は、その鋭い眼光の奥に、隠しきれない疲労と焦燥を滲ませていた。
「……それで? 話というのは、なんだ。日下部くん」
海道は、目の前に座る若き官僚——内閣官房の日下部を睨みつけた。
「君が優秀な男だとは聞いている。総理の懐刀ともな。
だが今の私には時間がない。無駄話なら帰ってくれ」
海道の声には苛立ちがあった。
無理もない。彼の最愛の孫娘、サクラの容態が芳しくないのだ。
世界中の名医を呼び寄せ、あらゆる最先端医療を試したが、結果は芳しくない。
今日明日にも危篤状態に陥るかもしれないという瀬戸際で、こんな料亭に呼び出されたのだ。怒らない方がおかしい。
日下部は、その怒気を柳のように受け流し、静かに一礼した。
「貴重なお時間をいただき、感謝いたします。会長。
本日お時間をいただいたのは、他でもありません。
お孫様サクラお嬢様のことです」
ピクリ、と海道の眉が動いた。
「……サクラがどうした。
政府が私の孫の病状まで監視しているのか?」
「監視ではありません。保護です。
単刀直入に申し上げます。
政府が極秘裏に進めている『最先端医療研究プロジェクト』の特別枠に、サクラお嬢様が選出されました」
日下部は一枚の書類をテーブルに置いた。
『臨床試験実施計画書(特務)』と書かれた、分厚いファイルだ。
「このプロジェクトに参加していただければ、お孫様の病は治ります。
完治です」
海道は鼻で笑った。
冷ややかな絶望に裏打ちされた嘲笑だった。
「完治だと?
馬鹿を言うな。サクラの心臓はもうボロボロだ。免疫系も崩壊している。
アメリカのメイヨー・クリニックのトップチームですら匙を投げたんだぞ。
それを日本の官僚風情が『治る』だと?
気休めや売名行為なら、他を当たれ」
海道は立ち上がろうとした。
これ以上、孫娘を実験台にするつもりはない。
静かに逝かせてやるのが慈悲だと思っていた。
「お待ちください」
日下部の声が鋭く、空気を裂いた。
「口で説明しても信じていただけないことは、重々承知しております。
ですから、証拠をお持ちしました」
日下部は鞄からタブレット端末を取り出し、テーブルの中央に置いた。
画面には「TOP SECRET」の文字。
「……ここには、我々が直近で実施した4つの症例のデータと、施術前後の記録映像が収められています。
まずはご覧ください。
話はそれからです」
海道は舌打ちをし、渋々といった様子で再び座り直した。
どうせ新型の人工心臓か、iPS細胞の治験データだろう。
そんなものは見飽きている。
そう思いながら、彼は再生ボタンを押した。
数分後。
料亭の静寂は、海道の荒い息遣いによって破られた。
「……な、なんだ、これは」
老人の手が震えていた。
タブレットを持つ指が白くなり、画面を握り潰しそうなほど力がこもっている。
映像の中では、あり得ないことが起きていた。
全身の癌細胞が瞬く間に消滅し、肌艶を取り戻す末期患者。
失われた脚が一分で再生する男。
震える手が止まり、眼光を取り戻すパーキンソン病の老人。
そして、濁った瞳が澄み渡り、光を取り戻す盲目の女性。
それは医療ではなかった。
奇跡。
あるいは魔法。
人類の科学が到達しているはずのない、神の領域の映像だった。
「……CGか? フェイク動画か?」
海道は掠れた声で言った。
だが彼の長年の経験と直感が、これを「本物」だと告げていた。
映像に映る患者たちの表情、医師たちの狼狽、そしてモニターの数値の推移。
作り物にしては、あまりにも生々しすぎる。
「すべて事実です。
場所は自衛隊中央病院の地下特別区画。
患者たちの身元も、すべて確認可能です」
日下部は淡々と告げた。
「使われたのは、外科手術でも抗がん剤でもありません。
たった一本の『薬剤』……いえ、『医療用キット』と呼ばれるナノマシン集合体です」
「ナノ……マシンだと?」
「はい。
体内に注入された極小の機械群がDNA情報を読み取り、損傷箇所を物理的に修復・再構築します。
心臓の弁だろうが、壊死した心筋だろうが、彼らにかかれば『部品交換』と同じです」
海道は顔を上げ、日下部を凝視した。
その目には、もはや怒りも嘲笑もなかった。
あるのは溺れる者が藁をも掴むような、強烈な渇望だけだった。
「……これが、サクラにも使えると言うのか?」
「適用可能です。
むしろまだ成長期にあるお子様の方が、細胞の適応力が高く、効果は劇的でしょう。
心臓疾患も免疫不全も、すべて『初期化』され、健康体として生まれ変わります」
海道はテーブルに手をつき、項垂れた。
財界の巨人が、一人の若い官僚の前で小さくなっていた。
彼は全てを察したのだ。
こんなオーパーツじみた技術を、政府がタダで提供するはずがない。
裏がある。
とてつもなく大きく、危険な裏が。
「……何が目的だ?」
海道は絞り出すように問うた。
「金か? 利権か?
海道重工の株か? それとも次期戦闘機の受注枠か?
言え。何でもやる。
私の全財産を差し出してもいい。会社を切り売りしても構わん」
彼は顔を上げ、涙ぐんだ目で日下部に懇願した。
「頼む……。
サクラを助けてくれ。
あの子は私の命だ。
あの子がいなくなるなら、私は……」
あの傲岸不遜な海道龍之介が、頭を下げた。
畳に額を擦り付けんばかりの土下座だ。
日下部は胸の奥で微かな痛みを覚えた。
人の弱みに付け込む、卑劣なやり方だ。
だが彼は国家の代弁者として心を鉄にして、その願いを受け止めた。
「顔を上げてください、会長。
貴方の財産など要りません。
我々が求めているのは、貴方の『力』そのものです」
日下部は、もう一つの資料を取り出した。
そこには見たこともない異星の風景写真と、巨大なゲートの写真があった。
「……日本政府は現在、ある『極秘プロジェクト』を進行中です。
場所は、この地球ではありません」
「地球では……ない?」
「はい。
我々は異星への『ゲート』を所持しています」
日下部はテラ・ノヴァについて簡潔に説明した。
新宿の地下で発見されたゲート(※工藤のことは伏せ、あくまで政府管理下の施設として説明)。
その向こうに広がる地球と環境が酷似した惑星。
そしてそこからもたらされる、無限に近い資源とオーバーテクノロジー。
「先ほどの医療用キットも、この異星の技術によって作られたものです。
地球産ではありません。
だからこそ現代医学を凌駕する奇跡を起こせるのです」
海道は呆然と話を聞いていた。
SF小説のような話だ。
だが目の前の奇跡の映像と、政府高官の真剣な眼差しが、それが現実であることを突きつけてくる。
「……信じられん。
だが、信じるしかないのか」
「資源だけではありません。
あちらにはレアメタル、石油、そして未知のエネルギー資源が眠っています。
これを日本に持ち込めば、我が国は資源大国として生まれ変わるでしょう」
日下部は海道の目を、真っ直ぐに見つめた。
「ですが、これは国家機密の最高レベルです。
アメリカや中国に知られれば、即座に干渉を受け、全てを奪われるでしょう。
我々は今、薄氷の上を歩いています。
『深海採掘』や『リサイクル技術』という嘘で世界を欺いていますが、それも限界が近い」
「……そこで、私の出番というわけか」
海道は、ようやくビジネスマンの顔に戻りつつあった。
話が見えてきたのだ。
「その通りです。
嘘を真実に見せかけるためには、実体のある『隠れ蓑』が必要です。
海道重工の持つ巨大なドック、工場、物流網、そして技術力。
これらを使って、テラ・ノヴァからの資源を『正規のルート』で調達したように偽装していただきたい」
日下部は具体的な要求を並べた。
「ダミーの深海採掘船の建造と運航。
新木場から運び出される物資の洗浄(ロンダリング)。
そしてテラ・ノヴァ基地へ送るための重機や兵器の極秘製造。
これらを誰にも悟られずに遂行できるのは、日本広しと言えども、海道重工しかありません」
「……なるほど。
私に国家ぐるみの詐欺の片棒を担げと言うのだな」
「人聞きが悪い。
『国益のための秘密工作への協力』と言ってください」
日下部は薄く笑った。
「見返りは、サクラお嬢様の命です。
そして今後、テラ・ノヴァからもたらされる未知のテクノロジーや資源の優先的な使用権も、御社に提供しましょう。
海道重工は、次の世紀の覇権企業になれます」
海道は目を閉じた。
選択の余地などない。
孫娘が助かり、会社も繁栄する。
断る理由がない。
ただ一つ、国家という巨大なシステムの一部として、魂を売り渡すことを除けば。
「……分かった」
海道は目を開けた。
その瞳には、かつての覇気が、より強固な覚悟となって宿っていた。
「日本政府に忠誠を誓おう。
海道重工の全てを使って、その秘密を守り抜いてみせる。
泥を被れと言うなら、喜んで被ろう」
「ありがとうございます、会長」
日下部は深く頭を下げた。
「では契約成立です。
……サクラお嬢様の治療は、一刻を争います。
直ちに手配をいたします」
数日後。
都内にある海道重工系列の大学病院。
その最上階にある特別病室は、厳重な警備によって封鎖されていた。
病室の中には、真っ白なベッドに横たわる少女サクラの姿があった。
細い腕には何本もの点滴が繋がり、酸素マスクが小さな顔を覆っている。
顔色は蝋のように白く、呼吸は浅い。
モニターの電子音だけが、彼女の命がまだ続いていることを告げていた。
ベッドの脇には、防護服を着た医師団と、スーツ姿の日下部、そして祈るように手を組む海道龍之介が立っていた。
「……準備完了しました」
執刀医が震える声で告げる。
彼の手には、あの銀色に輝くインジェクターが握られている。
中にはエメラルドグリーンの液体が満たされていた。
「お願いします……。どうか、サクラを……」
海道が呻くように言った。
日下部が静かに頷き、医師に合図を送る。
「投与開始」
プシュッ。
微かな音と共に、未知のナノマシンが少女の細い血管へと解き放たれた。
ドクン……ドクン……
心拍計のリズムが変わる。
弱々しかった波形が、次第に力強く大きくなっていく。
少女の頬に朱色が差した。
まるで枯れ木に花が咲くように、生命力が全身を駆け巡っていく。
医師たちが息を呑んでモニターを見つめる。
心臓の肥大が収縮し、弁膜の不全が修復され、血液データが正常値へと書き換わっていく。
魔法のような一分間。
やがて少女の瞼がピクリと動いた。
ゆっくりと、その目が開かれる。
以前のような虚ろな光ではない。
生きる力に満ちた、強い瞳だ。
「……ん……」
サクラは酸素マスクを、自らの手で外し、深く息を吸い込んだ。
胸が痛くない。
体が軽い。
彼女は驚いたように自分の手を見つめ、そしてベッド脇に立つ老人を見つけた。
「……おじいちゃん?」
その声は、驚くほど澄んでいた。
「サクラ……! サクラ!」
海道はたまらずベッドに駆け寄った。
孫娘を抱きしめる。
温かい。そして力強い。
死の淵にいたはずの孫が、今、確かに自分の腕の中で脈打っている。
「おじいちゃん、私……苦しくないよ。
体がポカポカするの。
走れそうな気がする!」
サクラは無邪気に笑った。
彼女はベッドから飛び降り、クルリと回ってみせた。
点滴の管など、もう必要なかった。
「おお……おおお……神よ……」
海道は膝をつき、男泣きに泣いた。
財界の鬼と呼ばれた男が、子供のように涙を流していた。
それは心からの感謝と安堵の涙だった。
その光景を日下部は部屋の隅から静かに見つめていた。
感動的な光景だ。
だが彼の目は、冷徹な計算を止めてはいなかった。
「……良かったですね、会長」
日下部が声をかけると、海道は涙を拭い、立ち上がった。
その顔は紅潮していたが、日下部を見た瞬間、スッと真顔に戻った。
彼は理解しているのだ。
この奇跡の対価を、これから支払い続けなければならないことを。
「日下部くん……いや、日下部さん」
海道は深々と頭を下げた。
「ありがとう。
本当に……ありがとう」
「礼には及びません。
これは『契約』の履行に過ぎませんから」
日下部は微笑んだが、その目は笑っていなかった。
「サクラお嬢様は完治されました。
これからは普通の学校に通い、恋をし、未来を歩んでいけるでしょう。
……その未来を守るためにも」
日下部は一歩近づき、囁いた。
「今後ともよろしくお願いいたしますね。
日本政府(われわれ)の大切なパートナーとして」
それは祝福であると同時に、決して逃れられない鎖の音でもあった。
サクラの命がある限り、海道重工は政府を裏切れない。
もし裏切れば、この奇跡がどうなるか……そんな無言の圧力が、病室の空気を支配していた。
海道は孫娘の笑顔を振り返り、そして日下部に向き直った。
その顔には、修羅の覚悟が決まっていた。
「……分かった。
改めて誓おう。
この身が朽ちるまで、貴公らの手足となろう。
サクラの笑顔を守れるなら、悪魔に魂を売るなど安いものだ」
「賢明なご判断です」
日下部は一礼し、病室を後にした。
背後からは、サクラの明るい笑い声が響いている。
純白の生贄は健康な体を手に入れた。
そして巨人は、その首に国家という名の首輪を嵌められた。
廊下を歩きながら、日下部は大きく息を吐いた。
胃が痛い。
だがこれで最強のカードが手に入った。
海道重工の産業力があれば、テラ・ノヴァの資源を合法的に世界中に流通させることができる。
カバーストーリーは盤石となった。
「……さて、次はアメリカか」
日下部は携帯を取り出し、次の予定を確認した。
工場は成長しなければならない。
そのための生贄なら、あと何人でも捧げてやる。
彼は自嘲気味に笑い、薄暗い廊下の向こうへと消えていった。