◇ ◇ ◇
「美幸ちゃん、宮泉学園を受験するんですってね」
先日、藤井の家に訪れた時に、すっかり仲良くなった藤井と美幸のふたりは、メッセージアプリで何やらやり取りを始めた。
沙羅は、美幸が藤井にどんなメッセージを送っているのか、気になってしょうがない。けれど、美幸から「お母さんには、ナイショ!」っと思いっきり仲間ハズレにされて、ちょっと悲しい状態だ。
その上、美幸はいつの間にか、藤井の事を”紀美子さん”と呼ぶようになり、沙羅も美幸にならって”紀美子さん”と呼ばせてもらっている。
まったく、我が子ながら要領が良くてうらやましくなってしまう沙羅だった。
美幸を上手に甘やかしてくれる藤井の存在は、美幸にとって心のオアシスなのだろう。
「はい、チア部に入りたいって言っていまして、ダメ元でチャレンジです」
「美幸ちゃん、頑張っているみたいだもの、大丈夫よ。受かったらあの制服着るのね。チェックのスカートが可愛いくていいのよ。きっと似合うわ」
藤井の張り切り様に沙羅はクスクスと笑ってしまう。
「お詳しいんですね」
「藤井の妹の|娘《こ》が、宮泉学園で教師やっているのよ。だからチョットね」
「あら、美幸が入学出来たら先生と生徒として、お会いするかもしれませんね」
藤井は、ハッと思いついたようにパンッと柏手を打つ。
「そうだわ!翠さんに美幸ちゃんの事をお願いしなくちゃ!」
どうやら翠さんと言う人が宮泉学園で教師をしている藤井の姪っ子のようだ。
藤井は思いついたが吉日な状態で、スマホを持ち上げた。
そんな藤井を沙羅は大慌てで止める。
「紀美子さん、まだ、合格できるかわからないから、入学が決まったらお願いします」
「あら、受験前だからよ。とりあえず、お願いしておけば安心でしょう」
試験を受けるのだから、合否に何の効力がないのかもしれない。でも、藤井の言う通り、なんとなく安心な気がする。
受験生の母は、藁にも縋りたいのだ。
藤井の家での仕事帰りに沙羅は、少し遠まわりをして、川沿いの堤通りから駅へ向かう。
都会なのに開けた河川敷公園の景色は心が休まる。大きな掛け声を上げながらキャッチボールをする子供たちを眺め、のんびりとした気分だ。
太陽が傾き、空の色が茜色に変わり始めていた。
11月の冷たい風が頬を撫で、沙羅は白い息を吐き出しながら、ストールをかけ直した。
スマホを立ち上げ、写真アプリを開く。
そこには慶太と過ごした夏の日の思い出が残っている。
川のせせらぎを聞きながら、贅沢な旅館で慶太と過ごした夢のような日々は、大切な宝物だ。
沙羅は、胸元で輝くダイヤモンドにそっと手を添えた。
会いたいという気持ちが募っていく。
でも、今は美幸の受験も大詰めを迎え、身動きが取れそうもない。
慶太も年末を迎え、何かと忙しくしている様子だ。それでも、「おはよう」と「おやすみ」のメールは欠かさずにくれる。
年が明けて花の蕾が膨らむ頃には、慶太と約束をした通り、美幸をつれて金沢へ会いに行こう。
そう心に決めて、スマホの画面を閉じようとした。
すると、そのタイミングで電話の着信音が鳴りだした。その発信者を見て、沙羅は首を傾げる。
「あれ? なんの用事だろう……」
不思議に思いながら、沙羅は画面をタップした。
「はい、佐藤です」
沙羅は、少し緊張しながらスマホに耳を傾けた。
『突然のお電話ですみません。わたし、一ノ瀬萌咲です。以前、兄の高良慶太と一緒の時にお会いしたの覚えていますか?』
一ノ瀬萌咲を忘れるはずなどなかった。慶太に腹違いの妹が居るのを知らなかった沙羅は、慶太に婚約者が出来たのかと盛大な勘違いをして、悲劇のヒロインよろしく落ち込んだのだ。
後で、勘違いだったと知った時の恥ずかしさを含めて、しっかり記憶されている。
「はい、もちろん覚えています」
『あの、わたし上京しているんです。都合の良い日でかまいません。良かったらお茶しませんか?』
初対面で挨拶をした時にお茶に誘われて、萌咲と連絡先の交換をしたのだ。
何の話しがあるのだろうかと思いながら、沙羅は美幸の塾のスケジュールを頭の中で確認した。
「明日、土曜日の昼過ぎでしたら空いています」
『よかった。じゃあ、この前会ったホテルのラウンジに土曜日の午後2時にいかがですか?』
「わかりました。明日の午後2時にラウンジですね」
『ありがとうございます。あっ、兄にはナイショでお願いしますね。では、明日お待ちしてます』
プツンと通話が切れると、沙羅の肩の力が抜ける。無意識のうちに緊張していたのだ。
「……びっくりした」
いったい何の話をしたらいいのやらと、沙羅は頭を抱える。
でも、萌咲の明るいキャラクターを考えればどうにかなるような気がした。
◇
ホテル52階にあるMOON FORESTの店内は、グリーンをふんだんに使った癒しの空間。それはまるで空中に浮かぶ庭園のよう。大きな窓の向こうは青い空と眼下にビル群が見える。ディナータイムなら、宝石をちりばめたような夜景が楽しめそうだ。
その窓際にある一番奥の席には、ケーブルニットワンピース姿の萌咲が座っていた。
沙羅の姿を見つけると嬉しそうに、右手を小さく振り合図を送ってくれた。
「こんにちは、沙羅さん。今日は来てくれてありがとう」
「こちらこそ、誘って頂けて嬉しいです」
アジアンビューティーという言葉がぴったりな萌咲のスリットアイズは、慶太と似ている気がする。可愛いというより美人の類だ。
「ふふっ、慶ちゃんに彼女が出来たのが嬉しくて……」
萌咲は、テーブルの端に手を掛けながら声をひそめる。
「ほら、ウチってちょっと特殊な家庭環境でしょう。慶ちゃん、女性不信なのか、浮いた噂ひとつなくて……。それが、いつの間にか彼女連れているんだもの。それで、慶ちゃんのハートを射止めた沙羅さんに馴れ初めでも聞いてみようかと思ってね」
と、言われてチョット困り沙羅は眉を下げた。どこまで話せばいいのやらっと悩む。
「馴れ初めなんて……。高校の頃の同級生だったの。それで、偶然再会して」
「あー、なんか納得。沙羅さんは慶ちゃんにとって忘れられない人だったのね」
テーブルの上には、月をテーマにしたアフタヌーンティーのセットが置かれた。ケーキの中にこっそり隠れているうさぎの飴細工の可愛らしさに頬が緩む。
萌咲は紅茶に口を付けた後、窓の外に広がる青い空へ視線を向け、眩しそうに目を細める。
そして、何かを思い出すように語り始めた。
「慶ちゃんのお母さん。怖い印象しか無くて……。もちろん、わたしなんて、愛人の子だから疎まれても仕方ないんだけど。うーん、微笑んでいるのに目が笑っていないって言ったらいいのかな、とにかく怖かったの」
萌咲の話しを聞いて、沙羅はあの底冷えのする日に慶太の母・聡子に会った時の事を思い出していた。ゾッとするほど美しく冷たく笑う聡子は、絶対的な強者であり、恐ろしかった記憶がある。
「わたしの場合は、愛人の子と言っても高良の父は女の子だからと言って甘やかしてくれたし、母は優しかったの。でも、慶ちゃんのお母さんって、あの通りの人でしょう。高良の父も後継者だからと慶ちゃんには厳しかったみたいで、慶ちゃんは大変だったと思う」
「慶太さん……。いろいろ苦労していたとお話してくれた事があります」
沙羅の言葉に萌咲はホッと安堵の息を吐く。
「そう、そんな話しもしているのね。慶ちゃん、ずいぶん心を許しているんだ。安心した」
「私は、慶太さんに助けてもらってばかりで、お話を訊くぐらいしか出来なくて……」
「慶ちゃんには、弱音を吐ける場所が必要だと思う。沙羅さんが話しを訊いてくれるだけもいいはずよ」
「そうだと嬉しいんだけど……。自分では慶太さんの力になれているのか、自信がなくて」
「うーん。わたし的には、慶ちゃんの憩いの場に沙羅さんがなってくれていると思うけど……」
萌咲は、真っ直ぐ向き直り、真剣な眼差しで沙羅を見つめた。
「でもね。この先、ふたりが付き合っていくのは、大変かもしれない。今、慶ちゃんには、大きな縁談が持ち込まれていて、高良の父がいつになく乗り気になっているの」
萌咲の言葉に、沙羅はひゅっと息を吸い込んだ。
”大きな縁談”と慶太の父親が乗り気と言う事は、然るべき所のお嬢様がお相手なのだろう。
「好き」だという想いだけでは、どうにもならない、ふたりを隔てる大きな壁を感じてしまう。
昔、慶太の母聡子に会った時のトラウマがよみがえり、沙羅は酷く動揺をした。カチカチとティーカップが音を立て、持つ手が震えていた。
それに気づいた萌咲が、申し訳なさそうに眉尻を下げる。
「あっ、ごめんなさい。そんなにお驚くとは思わなくて……」
「い、いえ、こちらこそ取り乱したりして、すみません」
沙羅は、震える手を隠すようにティーカップから手を離し、テーブルの下でギュッと握り込む。
「慶ちゃんにお見合いの話しは、今までも来ていたけれど、ずっと断っていたの。だから、今回も断ると思う。それに、慶ちゃんは沙羅さんとの未来を考えているって言っていたから」
慰めのような言葉に沙羅は視線を落とした。
慶太との未来。
叶うなら、慶太と日々を積み重ね、死がお互いを分かつまで一緒に過ごしたい。
でも……。
「昔、慶太さんのお母様にお付き合いを反対されて……。その時に進学先まで変えて慶太さんと別れたんです。自分が慶太さんと釣り合いが取れないのは理解しています。その上、バツイチ子持ちになった今では、相応しくないのは承知しています」
「沙羅さん……」
「でも、慶太さんの事が好きなんです。……ごめんなさい」
◇
東京で慶太と過ごした夜、沙羅は過去のトラウマに囚われずに、慶太を信じようと心に決めた。
それなのに、ふとした瞬間、トラウマが心の底からよみがえり、くじけそうになってしまう。
TAKARAグループの跡取りであり、結婚相手としては理想的な慶太に縁談が持ち込まれるのは、想像に難くない。
そう、普通に考えても、あり得る事なのだ。
いちいち動揺していたら、ダメだなっと、沙羅は弱い自分にため息を吐く。
忙しい慶太と遠距離恋愛は、少しの寂しさが伴う。
毎日、送られて来る「おはよう」「おやすみ」のメール。時間がある時に、近況報告を兼ねた通話でおしゃべりをするのが、今の精一杯。
「はぁ」と白い息を吐き、肩を落としながら、帰り道をトボトボと歩く。
萌咲と会った事は、萌咲たってのお願いで慶太に秘密にしてと言われている。
ニュースソースを明かせない状態では、慶太の縁談の話しが気になっても、聞くことは出来ない。
本当は、「断ったから大丈夫だよ」と一言もらえれば、スッキリと気持ちも晴れるのに、モヤモヤとしたままだ。
木枯らしが吹き抜け、体温を攫っていく。沙羅は、身を守るようにストールを胸元の前で深く合わせた。
「うっ、寒い」
不意にバッグの外ポケットからスマホの着信メロディーが、鳴りだした。
この時間だと、美幸が何かあって連絡をして来たのかと思い、慌てて電話に出る。
すると、慶太の艶のある低い声が聞こえてくる。
『沙羅。今、電話大丈夫?』
「うん、大丈夫。家に帰るのに駅へ向かっているところ」
『今月の末に東京ヘ行く用事が出来たんだ。それで、会えたらと思って』
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!