剣と別れて自宅へ戻り、必要な最低限のものだけを用意した。時間になるまで自宅で過ごし、大栄の社員が開催してくれた飲み会に出かけた。営業マン最後の『新藤博人』を演じるために。
「お~新藤さん」
神戸駅前の大衆居酒屋が会場だった。思いのほかたくさんの社員に囲まれ、一人ずつからねぎらわれた。
「淋しくなりますね」
「もっと一緒に働きたかったです!」
嬉しい言葉をかけてもらい、俺が働いてきた六年も無駄ではなかったと最後に思い知ることができた。
宴もたけなわの頃、ノンアルコールビールでごまかしていた俺は同僚に退席を伝えた。主役が抜けるのならお開きにしようと言われたけれども、せっかくなので楽しんで欲しいと笑顔を見せ、別れを惜しんだ。
俺はうまくやれただろうか。おかしな行動は取らなかっただろうか。
本来なら途中退席よりも最後までいた方がよかったのかもしれない。しかしもう一軒行こうと言われてずるずる時間を使われても困るし、気持ちばかりが焦ってしまって早く抜け出したかったという思いもあった。
急いで自宅へ戻った。
敢えて退去手続きなどはしていないが、もうここへ帰ってくることは無いだろう。
俺の最低限の持ち物は、ノートパソコンとMIDIキーボード。これさえあれば作曲ができる。膨大なデータも小さなハードディスクに入れてしまえば持ち運びができるから、便利な世の中になったものだと思う。
本当は律が送ってくれたファンレターを全部持っていきたいけど、写真に撮ったからこれも諦める。彼女に荷物は持ってくるなといった手前、俺だけ段ボールいっぱいに詰まった思い出の手紙を持っていけない。これも置いて行こう。
想い出の品々と見慣れた夜景に別れを告げた。
神戸から兵庫方面に車を走らせて律の自宅を目指した。
もうこの町とも別れることになるのかと思うと、なんとも言えない気持ちが浮かんでは消えた。捨てるものがなかったこんな俺にも、温かい繋がりがあったのだと実感させられた。
感傷に浸っている場合やない。逃避行先を真剣に考えないと。
とりあえず旦那の馴染みのない土地がいいだろう。どこの別荘がいい?
これは律と相談しながら決めよう。それか、もういっそ海外へ渡ろうか。律は翻訳の仕事をしているくらいだから、英語はお手のものだろう。
日本だと隠れて暮らさなきゃいけない。でも、海外ならそうそう見つからないだろうし、罪の意識を軽くできそうだ。パスポートがあるかどうか聞いておけばよかった。
まあ、今なら間に合う。日本にするか海外にするかは、律の回答次第。行きつく先はどんな場所でも、これからはふたりで誰にも邪魔されずに生きていける。
彼女の自宅が見えた。なぜか昨日とは違う景色に見える。
来客用に空いているスペースに車を停め、インターフォンを鳴らした。午後十時前。時間ぴったりや。
インターフォンを鳴らしても暫くはしんと静まり返って、すぐに律は出てこなかった。
今さらながら、思う時がある。
もしもこの時、予感を察知してもっと早くに彼女を迎えに行っていたら、律の身にあんなことは起こらなかったのではないか。
もっと違う未来があったのではないかと、後悔ばかりが胸を締め付ける。
この時の俺はまだ知らなかった。
白い家の扉の向こうで
想像もつかない惨劇が繰り広げられているなんて――
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