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マンションを出て、大通りへ。足が勝手に前へ進むけど、行き先なんて決まってない。
さて、どこ行こうか。
電車かバスで、適当に郊外まで逃げるか……。
仕事は辞められない。生活は続けなきゃならない。
でも、貯金はもうない。あいつに全部、吸い取られた。
財布に残ってるのは、ほんのわずかな現金だけ。
頼れる人も、帰る場所も、今はどこにもない。
「……ネカフェか。まあ、しばらくはそれだな」
自分に言い聞かせるように呟く。乾いた笑いが喉の奥で消えた。
とにかく、駅まで行こう。それから先のことは、その時に考える。
駅前の広場に出た瞬間、じっとり蒸し暑い風が顔をなでた。
行き交う人、どこかみんな、よそよそしい。
自分だけがこの世界から少しズレてしまったような、そんな感覚に襲われる。
少し離れたベンチに目をやると、胸の奥にわずかなざわめきが走った。
そうだ、あの時も、あのベンチだった。
「……なんで今、思い出すんだよ」
ぼそっと呟く声は、自分でも驚くくらい、かすれていた。
明るい髪に、場違いなくらいキマったスーツ。
思わず二度見するレベルのイケメンで……
なのに、声をかけてきたときはやけに気さくで、でも目だけがどこか優しかった。
無遠慮なくせに、やたらとこっちの様子を見てきて。
あの夜、あの人に全部見透かされた気がしたんだ。
ほんの少し話しただけなのに、あの人の言葉は、まっすぐ胸にきた。
優しくされたのなんて、いつぶりだったっけ。
……あーあ、結局、俺こんなとこに立って何やってんだか。
そんなふうに自嘲しかけたとき、ふと耳に入ってきたのは、ちょっとした揉め事の声。
タクシーの脇で、運転手と誰かが言い合いしてる。
周りの人たちはみんな気づかないふりで通り過ぎていく中――なぜか、俺だけが立ち止まってた。
どうでもいいやって気持ちが、逆に人を動かすこともあるんだな。
なんとなく足が向いて、そのまま声をかけてた。
「すみません、何かあったんですか?」
「ん? ああ、このバアサンが無賃乗車しやがってよ。降りた瞬間に逃げようとしたんだ」
「……え?」
運転手が怒気まじりに言い放ったその横で、小綺麗で品のあるお婆さんが、少し困ったようにこちらを見つめた。
「逃げるつもりなんかないのよ。お財布、家に忘れちゃって……孫がすぐそこの会社で働いてるの。そこに行って借りてくるって言っただけなのに」
「そんな話、誰が信じるかよ。あんた、言い訳してそのまま消えるつもりだったんじゃねぇの?」
なんとなく、話の流れは読めた。
けど、このお婆さんが“逃げようとした”ってのは……どうにもピンとこない。
服装もちゃんとしてて、どこか上品な雰囲気。
ちょっと天然っぽさはあるけど、話し方はハキハキしてて、なんだか可愛らしい。
それに、嘘をついてる人の目じゃない。
「運転手さん、料金はいくらですか?」
「……4600円ですけど」
「わかりました。俺が払います」
財布から五千円札を一枚抜いて、運転手に手渡した。
「はい。これで。お釣りは要らないんで」
「えっ、あ、……ありがとうございます!」
さっきまでとは打って変わって、運転手はペコペコ頭を下げてから車に戻り、さっさと走り去っていった。
残されたのは、俺とお婆さんだけだった。
「まあ……本当に助かったわ。ありがとねぇ。すぐそこの会社に孫がいるのよ。ちゃんとお金、返すから」
「……いや、大丈夫ですよ。そんな困ってるわけじゃ……」
「だーめ。それは私の気が済まないの。さ、こっちこっち!」
そう言って、お婆さんは思った以上に軽やかな足取りで、俺の腕をぐいぐい引っぱって歩き出した。
「孫はね、とっても真面目で良い子なの。でもちょっと変わっててね……」
「はあ」
「今日も怒られるかしら。あっ、着いたわ。ここ」
目の前に現れたのは、見上げるほど大きなビル。
ガラス張りの立派な建物には、有名な映像制作会社――“株式会社アークメディアホールディングス”のロゴが掲げられている。
「ここで、お孫さんが働いてるんですか?」
「そうよ。この時間なら、きっと中にいるわ」
出入りする社員らしき人たちが、ちらりとこちらに視線を向けながら通り過ぎていく。
エントランスの中へ入ると、明るくて清潔感のある空間に、企業紹介のパネルや映像が並んでいた。
お婆さんは受付の人に何やら手慣れた様子で話し、すぐこっちに戻ってくる。
「ちょっとだけここで待っててね。すぐ呼んでくるから」
そう言って、笑顔のままエレベーターに乗り込んでいった。
俺は近くのソファーに腰を下ろして、ふぅっと息をつく。
……にしても、すごい会社だな。設備もデザインも、まるでドラマのセットみたいだ。
なんだか、場違いなとこに来ちまった気もするけど。
けど、もし今日あの場所に行かなかったら、お婆さんとも出会わなかった。
タクシー代を肩代わりするなんて、普段の自分じゃ考えられないけど。
でもまあ、たまにはこういう偶然も悪くない。
そんなふうに思えた自分に、少しだけ驚いた。