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気づいたのは、出社して最初のエレベーターだった。
「おはようございます」と軽く会釈した総務の佐藤さんに、うっかり肩が触れた瞬間。
──『うわ、また康二くん今日もスーツ似合ってるなあ…でもあのネクタイ、昨日と一緒じゃない?大丈夫かな…』
……は?
「え?」
聞こえた、というより頭の中に流れ込んできた、って感じやった。
しかも、声は佐藤さんの声で、でも口は開いてへん。
思わず顔を見てみたけど、彼女は普通にエレベーターの階数表示を見つめてるだけ。
夢か、気のせいか、なんかの冗談か──
そう思いたかった。でも。
「おはようございます」と声をかけてきた後輩の田村くん。
その彼にうっかり握手されてしまったとき、今度はハッキリと聞こえた。
──『向井さんまた朝早いなあ…俺もちゃんとしなきゃ…てかあの人、30になっても彼女できないのかな。もったいないよなあ、顔いいのに』
え、えええええ!?
思わず握手の手を離してしまった。田村くんが「?」という顔をする。
ごまかすように笑って、足早にデスクに向かう。
心が、聞こえた?
ていうか、触れたとき限定? まさか、これって──
「……30歳まで童貞やと魔法使いになれるって、あの都市伝説かい」
冗談のつもりでつぶやいたその言葉が、まさかの現実味を持ってのしかかってくる。
昨日30歳になったばかりの俺が、よりにもよって**“心を読める魔法”**を手に入れるなんて。
やめてくれ、頼むから嘘であってくれ。
いろんな人の本音、こんな朝から浴びるほど聞いてられへん。
だけどこの力、どうやら本物っぽい。
会社の中でこれがバレたら、さすがにまずい。
やばい世界線に突入してしまった──そんな実感が、ジワジワと湧いてきた。
昼過ぎ、外回りから戻った俺は、疲れを引きずりながらエレベーターホールに立っていた。
疲れすぎて階段を使う気にもならん。
それに……できれば誰にも会わずに、こっそり席に戻りたかった。
この“力”がバレへんように。
ボタンを押してしばらくして、チン、と音がしてエレベーターの扉が開く。
中は、誰もいない。
「よし……セーフ」
小さくつぶやいて乗り込んだ瞬間──
「お疲れ、康二」
その声に振り向く間もなく、誰かがスッと隣に滑り込んできた。
細身のスーツ、整った横顔。俺より少し背が高くて、存在感がやたら強い。
──目黒。
同期入社の中で、今や営業部のエース。
人当たりは柔らかいのに、仕事はめっちゃできるし、クールで完璧。
まさに“できすぎる同期”。
「お、おつかれ……」
緊張して声がうわずる。
なるべく距離を取って、壁際に寄った……その瞬間、急にエレベーターがガタンと揺れた。
「うわっ──!」
反射的に身体がよろけ、壁に手をつこうとした俺を、目黒が支えてくれた。
「大丈夫?」って、低い声で。
そのとき、壁際に追い詰められるような形で、目黒の手が俺の肩に触れた。
──壁ドン、というか、支えドンというか……いや、それよりも。
──その瞬間、流れ込んできた声に、頭が真っ白になった。
──『今日も康二、かわいすぎた……もう、俺どうしたらいいんだよ……なんで、こんなに好きなんだろ……』
……え?
今、なんて?
誰が? これ……めめの、声?
“好き”って──俺のこと?
息が詰まる。心臓が跳ね上がる。
視線を合わせられへん。なのに、目黒は真っ直ぐ俺を見ていた。
「大丈夫?顔、赤いよ」
あかん、バレる。
バレるどころか、俺の頭がパンクする。
思わず「だ、大丈夫やから!」と叫ぶように言って、エレベーターが開いた瞬間に飛び出した。
背後から目黒が「あっ、おい!」と声をかけてきたけど、振り向けなかった。
──なんで、俺なんや。
──そんな目で、俺を見てたん?
止まらん足を引きずりながら、逃げるようにオフィスへと戻っていった。
心を読める魔法。
それがこんな……予想もしてなかった“本音”を突きつけてくるなんて。
逃げるようにオフィスのデスクに戻ってきた俺は、椅子に座るなり心の中で絶叫していた。
──いやいやいやいや、ちょっと待ってや。
落ち着け、康二。
今のは夢や。疲れてるだけ。寝不足やし、カフェインも足りてへん。
でも脳内リピート再生が止まらへん。
『なんで、こんなに好きなんだろ……』
目黒の声で。
はっきり、耳元で囁かれたみたいに。
しかもあいつ、あの距離感や。
エレベーターの狭さ、あの壁ドン体勢、あの目線。
思い出すだけで心臓が暴れてる。うるさい、静まれ俺の心臓。
「あかん……俺、完全に少女漫画のヒロインになってるやん……」
つい口に出してしまって、向かいの席の後輩に「えっ?」って変な顔された。
「いや、あの、資料……えっと、ヒロイン案件やなーって。仕事的な意味で」
……うまくごまかせてるわけがない。
でも、冷静になれって無理やん?
同期の完璧男が、俺のこと好きって、心の声でバレるって、何この地獄みたいな告白方法。
告白してないけど。されてないけど。
でも俺だけ知ってるってことは、知ってるの俺だけやねん。
しかも、それを誰にも言えない。
「ねえ聞いて、目黒が俺のこと好きらしい」なんて言ったら、お前どの世界線の王様やねんて話や。
「やばい……この魔法、思ったより、だいぶ厄介やぞ……」
そして、ふと浮かんでしまう。
“今日も康二、かわいすぎた……”
いやいやいや、忘れろ康二。そっちの道に足を踏み入れるな。
でも……なんか、ちょっと……照れるのは、なんでやろな。
「よし……切り替えよ。仕事、仕事や。」
あんなん気にしてたらキリがない。
そもそも俺が目黒の心の声を読めるなんて、あいつは知る由もないわけで。
つまり、俺が“何も知らない顔”してれば全部セーフや。
そう、自分に言い聞かせながらパソコンの前に座り直す。
気を紛らわすためにも、溜まってた営業資料のチェックに没頭。
一枚一枚、PDF開いては数字見て、メモ取って──
「ん? ここの見積り……あれ、5万だっけ?8万だっけ? まあ、5万でええやろ」
適当に記憶に頼ったのが運の尽きやった。
数十分後──
「向井くん!」
低めの声が響いた瞬間、オフィスが一瞬で冷えた気がした。
「はいっ!」
ビクッとしながら振り返ると、営業部の課長が資料片手に立っていた。
あの顔は……アカン顔や。
「この見積もり、先方との打ち合わせで言ってた金額と違うよね?5万って、これ、違うから。見てこれ、メモ。“8万”って書いてあるでしょ?」
「……ッス……」
やばい、まさかのビンゴや。俺のミスや。
「確認を怠ると信頼失うよ?自分の記憶より記録を信じてって、何度言ったら──」
はい、出ました。社会人の基本中の基本。
「……すみません……以後、気をつけます」
平謝りしながら、そっと目を伏せた。
周りの空気がザワ……と冷たくなるのを肌で感じる。
そして、ふと視線を感じて顔を上げると──
斜め向かいのデスク。
スッとした顔で、こちらをじっと見ている男がいた。
目黒。
……やめろ、その目。
責めてないのはわかってる。
怒ってるわけでも、バカにしてるわけでもないのもわかってる。
でも──だからこそ無理。
なんやその、「大丈夫?」って目。
気遣いの視線がやたらキラキラしてて、なんか逆に心臓に悪いんやけど。
しかも、こっちの心の声が聞こえてるみたいな顔すんなや。
聞こえてんのは俺の方やのに……!
「…………」
思わずデスクに突っ伏した。
頼むから誰も触らんといてくれ。
俺の心はもうキャパオーバーや。
オフィスの時計は、すでに22時を回っていた。
「終電……ギリいけるかな……」
書類の山と格闘しながら、ため息ばっかり出る。
全部、昼間のうっかりミスのせいや。
自業自得やって分かってるけど、心がどんより重たい。
パソコンのモニターは眩しすぎるし、椅子は腰にやさしくないし、なにより──
「空調、なんでこの時間になると冷えるんやろな……」
誰に言うでもなく、つぶやいて背中を丸める。
オフィスの明かりは半分消えてて、しんと静まり返ってる。
このビルに今、何人いるんやろ……いや、俺一人でも驚かへんレベルや。
そんなときだった。
「……康二」
びくっとして振り返ると、入口の方に立っていたのは──目黒やった。
手には、紙コップが2つ。
「ブラックでよかったっけ?」
そう言って、俺のデスクの隅にコトッとコーヒーを置いてくれる。
「え、あ、ええけど……なんでお前、まだおるん……?」
「残ってた。康二、ひとりで帰れないだろうなって思ったから」
さらっと言うな。
そういうやつやけども。できすぎや。
「……気ィ遣わんでええのに」
「遣うよ。心配だから」
返事が優しすぎて、ズルい。
そのとき──
俺が紙コップを手に取ろうとした瞬間、ちょっとした手違いで、指がかすかに目黒の手に触れた。
──来る。わかってても、止められん。
次の瞬間、頭の中に、目黒の“心”が流れ込んできた。
──『ちゃんと食べたのかな……疲れてるの、顔に出てるし……
今日のミス、誰だってあるのに。康二、自分に厳しすぎるんだよ……
代われるなら代わってあげたいくらいだ。』
胸の奥を、ぐっとつかまれたみたいな感覚。
「…………」
思わず顔を伏せて、コーヒーの香りを強く吸い込んだ。
視線を合わせられへん。なんで、こんなにあったかいんやろ。
「康二?」
「……ありがと。ほんま、ありがと。でも、もう大丈夫やから」
「……そっか。でも、無理はしないで」
優しい声が、耳に残る。
あかん。
この人の優しさ、真正面から受け止めるの、ちょっときつい。
だって──知ってしまった。
俺のこと、こんなにも気にかけてくれてるって。
しかも、好意とか、優しさとか、そういうのが全部混ざった、重たくてまっすぐな“気持ち”やってことを。
誰にも言えへんこの魔法のせいで、俺だけが知ってて、俺だけがしんどい。
深夜の静かなオフィスで、コーヒーの湯気だけが、やけにあったかくて、泣きそうやった。
「──で、これで全部やな?」
「うん。お疲れ」
時計を見た。
23時52分。
……あっぶな。いま走ったらギリいけるか?
慌ててバッグを肩にかけて、パソコン落としながらスマホで乗換案内を確認する。
「……あれ?なんで“電車がありません”て出てんの?」
嫌な予感が背筋を走った。
「康二」
「……うん?」
「落ち着いて見ろ。いま、0時3分だよ」
「……へ?」
スマホの時計を見て固まる。
……時間が、進んどる。仕事終わった解放感でぼーっとしてたら、知らん間に日付変わっとる。
「──やってもた!!!!」
夜中のオフィスに響く関西弁。
「あかん……終電……夢やったんか……」
「いや、それは現実」
目黒の冷静なツッコミが心に刺さる。
こっちはパニック真っ最中やのに、この人やたら落ち着いてる。
「ちょ、どうしよ、泊まるとこ……カプセル?ネカフェ? え、てか財布にあったっけ……」
「康二」
「うん?」
「うち来る?」
「……へ?」
時が止まった。
「え、なに?うち、て……どこ?」
「俺んち。会社から歩いて10分。広くはないけど、布団はある」
あまりにさらっと言われて、逆に状況が飲み込めない。
「ちょ、ちょっと待って?俺、今すごい冷静じゃないねんけど?それはその……なんやろ、“うち来る?”って、その“うち来る?”で合ってる……?」
「うん。終電ないし、タクシーも捕まりにくいだろ。……それとも、俺と一晩いるのがそんなにイヤ?」
目黒はそう言って、ほんの少しだけ口元をゆるめた。
ズルい。そういうのズルい。
こっちは今、**頭ん中ラブコメの最終巻かってくらいテンパってんのに、**なんでそんなに余裕あんねん。
「いや、イヤとかそんなんちゃうけど!でもなんか、ほら、心の準備ってあるやん?」
「何の?」
「いやそれは……えっと、なんでもない!!」
慌ててPCバッグを抱きしめる。
落ち着け康二。相手は“いつも通り”や。平常心や。これたぶん、ただの同期の親切や。
……でもこの魔法のせいで、相手の心の中がちょっと分かってしまう分、無駄にドキドキするんや。
さっき触れたときの“心配”だって、まだ残ってる気がする。
それに、家に行ったらまた……触れる機会、あるかもしれんやん……!
いや、行く?行くんか? ほんまに行くんか俺!?
心と足がバラバラなまま、俺は目黒のあとを追ってオフィスを出た。
「どうぞ、あがって」
靴を脱いで、そろっと上がった目黒の部屋は──
思ったより、ちゃんと“人が住んでる”部屋やった。
整頓されてて、無駄な装飾がなくて、でもどこかあったかい。
照明も間接照明がメインで、やたら落ち着く空気や。
観葉植物とかあるのも、なに? ズルない?
「全然汚いけど、適当に座って。飲み物何がいい?」
「……え、あ、なんでも」
ちょっと緊張してソファの端っこにちょこんと座った。
視界の端、リビングの隅に目をやったとき──ふと、気づいた。
「あっ……!」
本棚の一角に、並んでた。
あの表紙、見覚えある。
『月のオルフェウス』──俺が高校のときからずっと集めてる、SF恋愛漫画や。
「これ……持ってるん?」
目黒がキッチンから顔だけ出して、少し首を傾げた。
「ん? ああ、それ。好き。めっちゃ読み込んでる」
「マジか!あれ名作やんな!? てか、あの17巻のラストさ……“お前を守るためにここに来た”って、あそこもう……泣いたで」
「あー、わかる。あそこでリュカがやっと自分の気持ち言えたとこで、俺もやられた」
「やっぱり!? てか語れる人初めてなんやけど!」
漫画の話題が出た途端、思わず前のめりになってた。
あれだけ緊張してたのに、気づけばリラックスして喋ってる自分がいる。
「目黒、読んでそうに見えへんのに、めっちゃちゃんと読んでんのな……しかも解像度高いし……」
「康二もけっこう詳しいね。てか、オルフェウス語るときのテンションすごい」
「そらそうよ。青春やもん、俺の」
「ふふ。……なんか、嬉しいな」
目黒が小さく笑った。その笑顔は、たぶん今日いちばん自然やった。
ドキドキしてたのに、気づいたら、
“好きなものが同じ”ってだけで、こんなにも距離が縮まるんやって思った。
「──ほんま、こんな夜やけど、来てよかったかも」
ぼそっと漏らした言葉に、目黒が一瞬だけ黙ったあと、優しく返してくれた。
「俺も。康二がいて、嬉しい」
やばい。またドキドキがぶり返してきた。
魔法使いやない俺なら、たぶん気づかんかったやろうけど、
その言葉の裏に、“素の気持ち”が乗ってるのがわかってしまうから。
困るなあ。
この家、落ち着くのに……目黒がいると、全然落ち着けへん。
「康二、先に風呂入っちゃえば?」
その一言に、心臓が跳ねた。
「えっ……お風呂……?」
「うん。タオルはそこ。シャンプーとかも適当に使って」
目黒はソファに座りながら、タブレットいじってる。めっちゃ自然体。
こっちはもう、“風呂”ってワードが出た時点で脳内アラーム鳴ってるのに、当人は涼しい顔。
──お風呂て。
そんな簡単に「どうぞ」って。いや、ありがたいねんけど。
これなに? 同期泊めるテンションじゃないやろ、絶対。
(ちょ、待って?落ち着け?俺、童貞やぞ?? シャワーとか……無理やん、精神的に)
服脱ぐわけやん。で、風呂場から出てきたら、髪とか濡れてるわけやん。
絶対、“色っぽい”とか思われるやつやん。(※自意識過剰)
(てか、こっちは心読める分、いろいろ想像してまうんやって……!)
「……じゃ、じゃあ、お言葉に甘えて」
ぎこちない声で言いながら、そろーっとバスタオル抱えて風呂場に向かう。
ガチャリとドアを閉めて、脱衣所で深呼吸。
(大丈夫。何も起きへん。風呂はただの風呂や。お湯につかるだけや。リラックス、リラックス……)
──でも、風呂上がりに目黒とまた顔を合わせるって思っただけで、緊張でシャンプー泡立たん。
風呂から上がって、バスタオルを肩にかけながらリビングに戻ると、目黒がテレビの音を小さくして「おかえり」と笑う。
その自然な笑顔に、またもや勝手に心拍数が上がる。やめてくれ、優しさ。
「じゃ、俺も入るね」
「う、うん!」
目黒が風呂に消えて、リビングにひとり。
ようやくひと息つけるかと思ったそのとき──視界の隅にふと“布団”が見えた。
──完璧に、綺麗に敷かれてる。
「……え?」
床に敷かれたシンプルな布団セット。
新品みたいなシーツに、ふわっと膨らんだ枕。
清潔感ありすぎて、逆にプレッシャー感じるやつや。
(え、ちょ、なにこれ……俺のため?いやいや、泊まるって決まってたん?あの人、未来見えてんの?)
さっきまで“風呂”でパニクってた脳みそが、“布団”でまた混乱する。
(落ち着け、向井康二。ただの好意や。親切や。やさしさの塊や。……でもこんなん、準備よすぎん……?)
そのとき、風呂場からシャワーの音が聞こえた。
静かな夜の部屋に、微かに水音が響く。
(……よし、こうなったらもう、先に寝たフリや)
寝転がって、布団をかぶる。
頭まですっぽりかぶって、呼吸だけ整えて、目をぎゅっと閉じる。
(大丈夫……このまま寝たふりでやりすごせば、恥ずかしいことも、ドキドキも、なにも起こらへん……)
──とか思ってた矢先。
「……康二?」
耳元で、小さな声。
「もう寝た?」
ぞわり、と背中を何かが這う感覚。
呼吸を止める。目は閉じたまま。
(……しゃ、しゃべったらあかん。これは寝てる体や。寝てる俺や)
「……」
目黒の声が、ほんの少し近づく。
布団越しに空気の密度が変わるのが分かる。
(ちょ、なにこのシチュエーション……ドラマか……)
心臓がうるさい。
さっき風呂で温まったのに、今は背中がひんやりしてる。
(てか、こんなんされたら寝られるかい……!)
「……康二、やっぱ可愛いよな……」
(え、なに?何言った今この人???)
──やっぱり、ダメや。
(あかん、限界や。こっちだけ心の声バレてんのに、ズルいやん……!)
このままじゃ心臓が破裂する。
それなら──
(……せや、ちょっとだけ触れたらええんや。そしたら、目黒が何考えてるか……ちゃんと分かる)
決心して、そっと腕を動かす。
(ちょっとだけ。ちょっとだけ触れて、心の声を──)
「……ん?」
その瞬間、ふっと気配が離れた。
ガサリ、と何かを手に取る音。
「……あ、ごめん。スマホ忘れてた」
足音。
立ち上がる気配。
ドアが静かに開いて、また閉まる音。
……しーん。
(…………うそやろ)
布団の中で、呆然とする。
(めっちゃ勇気出したのに……!やっと“ふれる勇気”出したのに……!なんでタイミングそこやねん!!)
寝たフリ作戦、大失敗。
というか、もはや自分の挙動が怪しすぎて、逆にバレてる気すらしてくる。
(あああ、もう……なんやねんこの夜……)
──なのに、口元だけは、ちょっとだけ緩んでしまう。
「……可愛い」って、言われた。
それだけが、頭の中でぐるぐるして離れへん。
(……んん……朝……?)
うっすらとまぶたの奥が明るい。
枕元に差し込むやわらかい光。
それと──香ばしい匂い。
「……?」
ゆっくり目を開けると、天井。見慣れない部屋。
一拍おいて、昨夜のことが頭の中に再生される。
(あ……そや、目黒ん家や)
寝返りを打つと、どこかでカチャカチャと食器の音。
その方向を見ると、キッチンにいる目黒の後ろ姿。
エプロン姿で、トースト焼いて、卵を焼いてる──
なんか、普通に生活感ありすぎて逆に動揺する。
「……ん、おはよ……」
声がかすれてた。
自分でも寝起き丸出しの低音ボイスにちょっとびびる。
「おはよ。ちょうどできたとこ」
そう言って、目黒がテーブルに朝ごはんを並べてくれた。
トーストにスクランブルエッグ、ベーコン、サラダ、ヨーグルトにオレンジジュース。
シンプルなのに、見た目がきれいすぎて──こんなん、CMやん。
「すご……なんか、優雅……」
「そんなことないよ。いつもこんな感じ」
「マジか……エースって朝も完璧かよ……」
顔を洗うヒマもなく、ふらふらと席について一口。
──もぐ。
「……うまっ!!」
目が開いた。
寝ぼけてた頭が、急にバチンとスイッチ入ったみたいに冴える。
卵、ふわふわ。
トースト、カリッとしてバターの香りがしっかりあって。
ベーコンの塩気とのバランスが最高。
(なにこれ。プロか?)
「あはっ、よかった。美味しそうに食べてくれると嬉しいよ」
目黒の声は、あいかわらず落ち着いてて優しい。
「……こんなんでよかったらさ、毎日来てくれてもいいからね」
──カチン。
フォークが皿に当たって、音を立てた。
「……え?」
「ん?」
目黒はパンを一口食べながら、何食わぬ顔。
(いやいや、そんなことサラッと言う?なにその“毎日来てくれていい”って……実質プロポーズみたいな響きやん……)
こっちは今、心読めるチート能力を使ってる立場。
でも今この瞬間、聞いたのは言葉や。
声に出して言われたら、それはもう確定やろ。
ドキドキが止まらん。
眠気はどこかに吹っ飛んで、体温だけ上がっていく。
「……い、いまの、それ、冗談?」
「どっちだと思う?」
「うわ、そういうのいちばん困る~~!!」
叫びそうになるのをこらえて、トーストをもぐもぐ噛んでごまかす。
でも、うっかり笑みが漏れる。
(なにこれ……むちゃくちゃ幸せな朝やん)
駅の改札を抜けて、オフィスビルが見えてきた。
「あ、今日も天気いいな」
隣を歩く目黒が、何気ない声でそう言う。
「……せやな」
なんでもない会話。
“ふつうの同僚”としての朝。
でも、頭の中は全然普通じゃない。
(──なんやろこの感じ。さっきまで家で朝ごはん食べてた相手と、そのまま並んで通勤してるって、もう……同棲か?)
周りの社員がすれ違っていく。
挨拶もかわす。でも、なんか全部ふわふわしてる。
(あかん、俺、今まともに人の顔見られてへん……)
デスクに座って、パソコンを立ち上げる。
キーボードの音。電話のコール。
いつもの職場の風景──なのに、心だけは全然落ち着かない。
ちらっと横を見ると、目黒が真剣な顔でメールをチェックしてる。
(……落ち着きすぎやろ、この人)
スーツ姿で、デスクに向かって仕事してるその姿は、完全に「できる男」。
でも、ついさっきまでエプロン姿でベーコン焼いてたんやで……?
(そのギャップがしんどいねん。ずるいやん。こっちまだ“美味しそうに食べてくれると嬉しいよ”の余韻残ってんねんで!?)
しかも、「毎日来てくれてもいい」発言。
あんなの言われたら、意識しないわけがない。
(それでいて今、“ただの同期”の顔して横にいるんやで?いや、心の声も……全然聞こえてけーへん。ってことは、ガチで仕事に集中してるってこと……)
なんでそんなに自然体でいられるのか、不思議で仕方ない。
こっちは心の声が聞こえる分、目黒が“本気”だったってのがバレてて、むしろ余計に混乱してるのに──
「……あ、康二くん。昨日の書類、ここの修正お願いできる?」
「え、あっ、はいっ!」
急に話しかけられて、思わず声が裏返る。
同僚が不思議そうに見てくる。
「だ、大丈夫?顔赤いよ?」
「えっ!?い、いや大丈夫っす!全然元気っす!書類やりますっ!」
(あかん、ただの挙動不審や……)
隣の席の目黒が、くすっと笑った気がした。
目は合わせてない。でも、確実に“こっち見てた”。
(……今の、聞かれてた?心の中。ばれてへんよな?てか、ばれてたら終わりやけど、それでも──ちょっと嬉しいとか思ってる自分がおるのもまた問題や)
仕事の画面を前に、タイピングの手が止まる。
“昨日までと同じはずの職場”なのに。
“ただの朝のはず”なのに。
なんでやろ。
目黒の隣ってだけで、息が苦しいくらいドキドキしてる。
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