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春が来る頃には、二人には「生活」ができていた。
最初の頃みたいな混乱はもうない。
朝起きて、歯を磨いて、適当に朝ごはんを食べる。
今日はどこへ行くか決めて、暗くなる前に帰る。
帰る場所は、最初に出会ったマンションの一室だった。
十三階。
南向き。
日当たりがいい。
悠真が「高い場所のほうが終末っぽくて好き」と言って選んだ。
意味はよくわからなかったけれど、夜景は綺麗だった。
「起きろー」
蒼がカーテンを開ける。
朝日が部屋に流れ込む。
ソファでは悠真が毛布に埋まっていた。
「……まぶし」
「もう昼だぞ」
「世界に俺らしかいないんだから別に急ぐ必要なくない?」
「その理論、最近多いな」
悠真はうーん、と唸りながら起き上がる。
寝癖がすごい。
蒼は笑いながら冷蔵庫を開けた。
「朝飯どうする」
「パン」
「昨日もパンだった」
「じゃあフレンチトースト」
「急にオシャレ」
「終末だからな」
「関係ある?」
フレンチトーストは意外とうまくできた。
二人でベランダに椅子を出して食べる。
下を見ると、道路には相変わらず車が並んでいる。
でももう、それを異常だとは思わなくなっていた。
むしろ人がいた頃のほうが、遠い夢みたいだった。
「なあ」
悠真が牛乳を飲みながら言う。
「今日、水族館行かね?」
「また?」
「クラゲ見たい」
蒼は少し考える。
「……まあいいか」
「よし決まり」
悠真は嬉しそうに笑った。
クラゲが好きだった。
理由を聞いたら、
「なんも考えてなさそうだから」
と言っていた。
水族館は街の端にあった。
電気が生きているおかげで、水槽もまだ動いている。
どういう仕組みなのか二人にはわからなかった。
でも考えても答えは出ないので、途中から考えるのをやめた。
薄暗い館内を歩く。
青い光が床に揺れていた。
魚たちは、人類が消えたことなんて知らないみたいに泳いでいる。
「こいつら平和そうだな」
蒼が言う。
「いいよなー」
悠真は大水槽の前に座り込む。
巨大なエイが頭上を通り過ぎた。
「もし魚にも学校とかあったら嫌だな」
「何その発想」
「“はい、今日は泳ぎ方のテストをします”とか」
蒼は吹き出した。
「サボる魚いそう」
「絶対いる」
二人で笑う。
笑い声が広い水族館に反響して、少し遅れて消えていった。
クラゲの水槽の前で、悠真は長いこと動かなかった。
青白い光の中を、透明な体がふわふわ漂っている。
静かだった。
本当に静かで。
世界に音なんて最初から存在しなかったみたいだった。
「……綺麗」
悠真が小さく言う。
蒼は隣に立った。
「お前、クラゲ好きすぎだろ」
「だって見てると時間忘れる」
「それはわかるかも」
しばらく二人とも黙る。
水槽の光が、悠真の横顔を淡く照らしていた。
その瞬間。
蒼はふと思った。
この時間がずっと続けばいいのに、と。
人がいない世界。
未来があるのかもわからない毎日。
それなのに今だけは、不思議なくらい穏やかだった。
帰り道。
夕焼けが街をオレンジ色に染めていた。
自転車を押しながら歩く。
風が暖かい。
「春って匂い違うよな」
悠真が言う。
「わかる」
「なんか……昔を思い出す匂いする」
蒼は少し黙った。
昔。
その言葉を最近あまり使わなくなっていた。
学校。
家族。
友達。
コンビニの店員。
うるさい教室。
全部、ちゃんと覚えているはずなのに。
記憶に薄い膜がかかったみたいに遠い。
「なあ蒼」
「ん?」
「お前、母親の声覚えてる?」
突然の質問だった。
蒼は足を止める。
思い出そうとする。
でも、顔は浮かぶのに。
声だけが曖昧だった。
「……ちょっとしか」
悠真は「そっか」とだけ言った。
信号が青になる。
誰も渡らない横断歩道を、二人はゆっくり歩いた。
夜。
二人は屋上にいた。
春の風が吹いている。
街は静かで、遠くまで見えた。
「なあ」
悠真がフェンスにもたれる。
「もしさ」
「うん」
「このまま歳取ったらどうなるんだろ」
蒼は空を見る。
星が少しだけ見えていた。
「おっさんになる」
「嫌すぎる」
「お前絶対だるそうなおっさんになる」
「蒼は真面目そう」
「それ褒めてる?」
「微妙」
二人で笑う。
でも笑ったあと、少しだけ沈黙が落ちた。
“未来”という言葉が、今の世界では妙に現実感がなかった。
来月。
来年。
十年後。
本当に存在するんだろうか。
そんなことを考える夜が、時々あった。
悠真は空を見たまま呟く。
「……でもまあ」
「?」
「お前いるなら、そこまで悪くないかも」
風が吹く。
フェンスがかすかに鳴る。
蒼は少し笑って、
「それ、この前も言ってた」
と言った。
「マジ?」
「マジ」
「じゃあ結構本音なんだな」
悠真は照れくさそうに笑った。
街の灯りは今日も消えない。
まるで世界が、「まだ終わってない」と言っているみたいだった。
そして二人の毎日も、ゆっくり続いていく。
静かに。
穏やかに。
少しだけ、儚く。