テラーノベル
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会場から、悲鳴にも似た絶望的な静寂が広がる。
突き飛ばして離れたときには、バルトンの下卑た笑い声が耳の奥までこびりついていた。
「ははっ、王太子殿下も、こんなに愛らしい妻を放置されるとは。宝の持ち腐れですな」
私は、唇に残るおぞましい感触と
あまりの屈辱に全身がガタガタと震え、その場に膝から崩れ落ちた。
涙が溢れそうになり、視界がぐにゃりと滲む。
そのとき、会場の空気が一変した。
誰一人として、呼吸をすることすら許されないような、絶対的な死の気配。
イグニス様の方を向くことすら恐ろしい。
彼の瞳からは一切の光が消え
底の見えない闇のような殺気が、物理的な圧迫感となって会場全体を薙ぎ払っていた。
バルトンは「やってやった」と言わんばかりに高々に笑いながら後ずさっていく。
王太子の愛が冷めたと思い込み
慢心していた男の顔が、ようやく事の重大さに気づいて引き攣り始めた。
私は放心状態だった。
けれど、イグニスは震える私を見つめると、地を這うような低い声で私の名前を呼んだ。
「……アデレード」
感情の抜け落ちた、けれど極限まで抑えられた声。
彼は私を壊れ物のように、且つ有無を言わさない圧倒的な力強さでお姫様抱っこで抱き上げた。
「……少し、気分が優れるまで馬車で休憩しよう」
私は彼の首に必死にしがみつき、胸元に顔を埋めた。
彼から放たれる、すべてを焼き尽くしそうな殺気はまだ収まっていない。
抱き上げる腕は、男爵への怒りか
微かに震えている。
(……イグニスが、こんなに怒ってるところ見たことない。あの男に…それとも、隙を見せた私にも、怒っているの……っ?)
そんな不安が胸を締め付ける中、私たちは凍りついた夜会会場を後にした。
◆◇◆◇
馬車のドアが閉まり
閉鎖された空間になった途端、堪えていたものが堰を切ったように溢れ出した。
「うぅ……っ! ひぐっ……、う、うぅ……っ」
止まらない嗚咽と涙が頬を濡らす。
イグニス様は一瞬驚いたように私を見つめたけれど、すぐにその逞しい腕で、私を壊れ物を包み込むように抱きしめた。
彼の胸の中は、いつだって世界で一番安心できるはずなのに、今は余計に涙が込み上げてくる。
唇に残る不快な感触
そして何より、彼を怒らせてしまったという申し訳なさ。
「ご…ごめん…なさい……っ…イグニス……っ…」
声が震えてうまく言葉にならない。
「……っ、アデレード」
「あなたが……怒ってる…のがわかるから……っ…本当に、ごめ……」
そこまで言ったところで、イグニスの大きな手が震える私の両頬をそっと包み込んだ。
俯こうとする私の顔を優しく持ち上げ、その真剣な紫水晶のような瞳が真っ直ぐに私を射抜く。
「なんで君が謝るんだ……」
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紫陽花