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「えっ…と、なんのことなんですか?」
ノアの言いたいことも、お兄様がわたしのことで一番口にしていたことも、全く理解できないし、見当もつかない。
もう一度、わたしが注文した冷たい紅茶を凝視するが、普通の飲み物に見えてわからない。
「アグネス、その紅茶には砂糖でなくて、そこのシロップを入れるんだ」
「シロップ?」
そう言われて、もう一度テーブルの上を見ると、透明の液体が入った小さな瓶があった。
「シロップとはこのこと?」
わたしよりもなぜかノアが傷ついたような辛そうな表情をしながら頷き、わたしの冷たい紅茶をノアが手に取り砂糖を混ぜる。
わたしが入れた砂糖は底の方で溶けずに、ぐるぐると回っている。
「冷たい紅茶は砂糖が溶けにくいだろう。だからこのシロップを入れるんだ。これは水と砂糖を煮詰められて作られた甘い液体だ。人工の蜜なんだ。王都で流行っている冷たい紅茶のシロップのことをアグネスは知らなかった。王都に住む貴族なら、みんな知っている常識だ。でもアグネスは知らなかった。令嬢なら誰しもが知っていて当然で当たり前のことをアグネスは知らない」
ノアが静かに「知らない」をわたしを見ながら何度も繰り返し言う。
わたしが注文したプリンアラモードが運ばれてきて、ふたりでそのプリンアラモードが置かれる様子をじっと眺め、給仕の方が離れると、ノアはプリンアラモードに添えられていた緑がかった葡萄を手に取った。
「アグネス、これは何だと思う?」
「葡萄…よね?」
まるでそれ以外の答えがあるかのような質問に葡萄にしか見えないそれを葡萄と恐る恐る答える。
ノアがふっと笑った。
「正解。葡萄だよ。厳密にはヴィオニエ種だけど」
「もう!ノアの意地悪!!」
ノアがわたしを見ながら、今日1番の笑顔で笑った。
良かった。ノアが心の底から笑っているとわかる。
ノアはたまにわたしを見る時にふと辛そうな表情をすることがある。
「それで、どういうことなのでしょう?お兄様の願いとわたしがシロップというものを知らなかったことにどんなつながりがあるのですか?」
ノアが急に真面目な顔をした。
「それはつまり、レオンの願いはアグネスの幸せなんだよ」
真っ直ぐにわたしを見るノアは確信があるのか、自信たっぷりに言い切った。
「わたしの幸せ?」」
「そう。アグネスの幸せ。普通の貴族女性なら王都で大流行の「冷たい紅茶」のシロップのことやお作法なら当然知っている。しかしアグネスは、流行のカフェで友達や恋人とお茶やおしゃべりをしたりする機会を聖女修行という名目で奪われ、この6年間全く出来なかった。アグネスは自分の願いをいつもレオンに話していただろう。アグネスはずっとレオンになんて言ってた?」
お兄様は必ず、どんなに暑い時も寒い時も1ヶ月に1度の面会日には欠かさず来てくれていた。
普通の女の子のように家族の元で暮らし、学校に通って、恋をすること。そんな暮らしがしたいと願うわたしにお兄様はいつも、「いつかアグネスの願いを叶えてやる」とずっと励ましてくれていた。
「あ…わたし、お兄様に普通の女の子のように暮らしたいとずっと言っていて…そしたら、いつもお兄様がわたしのの願いを必ず叶えると慰めてくださって…」
「そうだよ。アグネス。俺もセレーネ嬢もレオンの願いはそれしか思いつかない。レオンがずっと口にしていたのはアグネスの幸せだ。今日みたいにカフェに来てお茶をしたり、仕立て屋で服を選んだり、アグネスが普通の女性として暮らすことをレオンは願っていたに違いないし、なんとか叶えようとしていた」
お兄様…
わたしは、お兄様の優しさに甘えてボヤくようにずっと言っていたけど、本当のところはとっくの昔に普通の女性としての暮らしは無理だと理解して勝手に諦めて、胸の奥底にその希望を閉じ込めていた。
でも、お兄様は諦めていなかった。あのいつもの言葉通りにわたしの願いを叶えようと…
胸の奥から熱いものがこみ上げてきて、それが瞳を熱くし、涙としてこぼれ落ちた。
「アグネス…」
「ごめんなさい。泣くつもりではなかったの。ただ、わたしがずっと前に諦めていたことをお兄様は叶えようと…叶わなくてもずっと願っていてくれた。お兄様は諦めていなかったと思うと…」
「レオンがいつもアグネスの幸せを願っていたことを、俺はレオンの傍にいて痛いほどわかっているつもりだ」
ノアまで泣きそうな表情をする。ノアの瞳の奥には、それだけでないような深い悲しみがあるように見える。
「だからな、アグネス。今日は聖女でなくて普通の女性として、恋人のように俺とデートをしてくれないか?レオンはアグネスが普通の女性のように過ごすことを体験することを…アグネスの幸せを願っていた。俺の願いもアグネスの幸せだよ。それを叶えさせてくれ」
「ノア?」
ノアはわたしの目の前で泣きそうな顔をしながら、その瞳はなぜかわたしを愛おしそうに見つめる。
なぜ?そんな目でわたしを見るの?