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生まれながらのアレルギーだった。それも危険性が高い。触れただけで、匂いを嗅いだだけで支障が出る。食べたら死ぬことは病院の先生にも厳しく言われている。だけど小学生の頃、同級生はその言葉の重さもアレルギーの危険性も知らなかった。いじめられていた私は、チョコレートを投げられたりした。私は無口だったから余計にいじめはエスカレートした。シングルマザーの母親はとても心配そうにしていた。毎日病院へ行って、酷い時は通学路で気絶したりした。虐める側が殺害行為なら、抵抗しない私は自殺行為だろう。私は今も昔も感情がなかった。人より喜怒哀楽が少なかった。怒ったことがなかったし、その虐めで泣いて哀しんだこともなかった。中学生になっても虐めてきた人たちは相変わらずの調子で、別の小学校から来た人たちは異端の目で私を見つめた。まさに針のむしろ。どんなに学校が居心地の悪位環境でも、母親を心配させたくなくて無理矢理笑って家に帰った。母親はとても私を大切に育ててくれた。優しい人だ。私が中学2年生の頃から単身赴任に行ってからもこまめに連絡等をしてくれた。昔からたった一人で毎日頑張ってくれる人だ。だからこそ私も甘えたくなかった。学校帰り病院で治療をされる毎日。先生たちはお母さんに言いなさいと声をかけてくれたけれど、もう同級生の人たちには何の期待もしていなかった。やめてもらえるとも、謝ってもらえるとも思わなかった。
高校は知り合いのいないところを選んだ。小規模の中学校だったために、場所は多くあった。10駅分離れた学校に通うことに決めた。母親は学費はちゃんと払うから好きなところに行っていいと言ってくれた。何だったら学校の近くに引っ越しや方がいいと言って、新しい家に引っ越した。母親は顔が広かったために家を譲ってもらうことも容易だったのだ。そして母自身も連絡する度に家に帰るのを楽しみにしている、と言っていた。だけど知っていたのだ、私は。母親と私は血が繋がっていないことを聞いてしまっていた。だからこそそんな優しい人が亡くなった日は本当に悲しかった。高校1年生の時、初めて声を上げて泣いた。私のために必死に働いていた母親はとっくに限界を超えていた。私はそんなこと知りもしないで、連絡をひたすら待っていた。あまりの衝撃で私は自殺しようとした。だけど失敗に終わってしまった。
つまりは生きる意味がないんだ。生きて良い理由もない。だけど殺されて良いはずもない。一人で死ぬべき人間だ。母親は怒るだろうか。怒ったところを見たことはないけれど、でも怒ってほしいとさえ思う。どうしようもない穴が埋まらない。あの人だけでできていたのに、あの人の存在だけが救いだったのに。あの人が死んで良いはずがなかったのに。どうして。あの人がこの世からいなくなった日から私は下だけ向いて、死だけを思って生きてきた。精神科の先生は心配して話しかけてくれた。だけど私は何も言わなかった。誰が励ましても、背中を押しても。
これ以上大切な人を亡くしたくなかった。だから誰かと仲良くすることもやめた。それでも残酷で、由崎と出会って、私は初めて恋情を抱いた。どうすることもできない自分の感情。これ以上会ってはいけないのに会いたい。話すべきでないのに話したい。名前を忘れるべきなのに呼びたい。嫌われないといけないのに私を呼んでほしい。
「…由崎…」
今会いたい触れたい伝えたい。だけどどれも駄目で、どうしようもない。堕ちた涙が花に注がれる。熱で溶けて薄い花びらが虫に喰われる。この花で終わりにしようか。それだけが、私を救うただ一つの方法だ。