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ざわめきと期待が、真新しい校舎を満たしている。
今日から始まる、三年間。
僕、藤堂七瀬は、人いきれのする昇降口で自分のクラスが書かれた掲示板を遠巻きに眺めていた。
七瀬(できることなら、目立たず、騒がず、平穏に…)
中学の時と同じように、教室の隅で本でも読んで過ごせれば、それでいい。
そう思いながら、ゆっくりと人波をかき分けた。
「1年4組 七瀬」
自分の名前を見つけて、小さく息をつく。
その視線を少し上にずらした時、ある名前が目に飛び込んできた。
「桜井 一樹(さくらい かずき)」
(桜井…一樹くん…)
どこかで聞いたことがあるような、ないような。
首を傾げたが、すぐに人混みに押し出され、考えるのをやめた。
クラスメイトになる誰かの名前。それだけだ。
ぎこちない足取りで、1年4組の教室へ向かう。
扉を開けると、すでにほとんどの席が埋まっていた。
僕の席は、窓際の後ろから二番目。
七瀬(よかった、特等席だ)
ここなら誰にも邪魔されず、静かに過ごせるだろう。
荷物を置き、椅子に腰を下ろすと、自然と教室全体を見渡す形になった。
その中心に、彼がいた。
友人A「まじかよ!お前も4組!?やったぜ!」
友人B「うわ、桜井と一緒とか最悪だわー、うるさそうで」
一樹「ひでぇ!まぁよろしくな!」
数人の男女に囲まれ、屈託なく笑う男子生徒。
明るい茶色の髪はワックスで軽く遊ばせてある。
制服も少し着崩しているのに、不思議とだらしなくは見えない。
太陽、という言葉がこれほど似合う人間を、僕は他に知らない。
彼が笑うと、周りの空気まで明るく色づくようだ。
七瀬(あれが、桜井一樹くんか…)
住む世界が違う。
光が強ければ強いほど、影は濃くなる。
僕は間違いなく影の側の人間で、彼のような光の側にいる人間とは、決して交わることはないのだろう。
それでいい、と自分に言い聞かせた。
ぼんやりと彼を眺めていると、不意に、その太陽がくるりとこちらを向いた。
ばちり、と音がしそうなほど、まっすぐに目が合う。
七瀬(うわっ…!)
心臓が、どくん、と大きく跳ねた。
まずい、見すぎた。
慌てて視線を逸らそうとした、その時。
一樹「あれ…もしかして」
友人たちに「わり、ちょっと」と断りを入れると、彼は迷いのない足取りで僕の席までやってきた。
周りの生徒たちの視線が、僕という異物に突き刺さる。
七瀬(やめてくれ…こっちに来ないで…!)
僕の心の叫びは、もちろん彼には届かない。
一樹「なあ、お前、藤堂七瀬…だよな?」
七瀬「え…あ、はい…」
緊張で声が裏返る。
彼は僕の答えを聞くと、「やっぱり!」と花が咲くように笑った。
眩しい。
あまりの眩しさに、目を細めてしまう。
一樹「俺!桜井一樹!覚えてるか?ほら、ひまわり保育園!一緒だったじゃん!」
七瀬「…え?」
ひまわり保育園。
その言葉に、記憶の蓋がゆっくりと開いていく。
砂場。泥だらけになって、大きな声で笑う男の子。
そうだ、いた。
いつもみんなの中心にいて、太陽みたいに笑う子。
それが、一樹くんだったのか。
七瀬「あ…、さ、桜井くん…」
一樹「呼び捨てでいーって!一樹な、一樹!」
七瀬「い、一樹…くん」
ぐい、と距離を詰められ、大きな手が僕の肩を親しげに叩く。
びくりと体が震えた。
近い。
陽の匂いがする。
こんなに近くで、彼みたいな人間と話したのはいつぶりだろう。
一樹「覚えててくれたんだな、嬉しいわー!俺、七瀬のことすぐわかったぜ。全然変わんねぇのな!」
七瀬「そ、そうかな…」
一樹「おう!なんか、雰囲気?昔から静かな感じだったもんな。また同じクラスとか、奇遇じゃん?よろしくな、七瀬!」
にっと見せられた白い歯が、やけに目に焼き付いた。
周りの生徒たちが
「桜井、知り合い?」と声をかけると、彼は「おう!昔からのダチ!」と少しも悪びれずに答える。
(友達だなんて、そんな関係じゃなかったはずなのに…)
でも、彼の言葉に、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じていた。
HRが始まり、担任の自己紹介が終わると、次は生徒たちの番になった。
僕の番は心臓が口から飛び出しそうだった。
七瀬「ふ、藤堂七瀬です。よろしくお願いします…」
蚊の鳴くような声で言い終え、そそくさと席に戻る。
誰の記憶にも残らない、完璧な陰キャの自己紹介だ。
そして、一樹くんの番が来た。
彼は堂々と教壇の前に立つと、クラス中を見渡して、あの太陽のような笑顔を見せた。
一樹「桜井一樹です!中学は西中で、バスケ部でした!趣味はカラオケとゲーム!好きなタイプは、優しくて、ちょっと放っておけない感じの子かな!まぁ、ここにいる女子全員、守備範囲なんで!これから三年間、みんなで最高のクラスにしようぜ!よろしく!」
完璧な自己紹介だった。
ユーモアを交えながら、自分の情報を的確に伝え、クラスの一体感まで生み出している。
女子生徒たちはきゃあきゃあと色めき立ち、男子生徒たちも「お前、やるなー!」と囃し立てる。
教室の空気を、彼はたった数分で完全に掌握してしまった。
七瀬(すごいな…)
純粋な感嘆だった。僕には到底できないことだ。
羨ましい、とか、妬ましい、とか、
そういう感情ではなかった。
ただ、遠い星を見上げるような、そんな感覚。
その日を境に、僕の視線は自然と一樹くんを追うようになった。
休み時間、彼が友人と話している内容に、無意識に耳を澄ませていた。
友人A「昨日、駅前のラーメン屋行ったんだけどさ、あそこの味噌、マジで神」
一樹「あー、わかるわ。俺も味噌一択」
七瀬(…一樹くんは、味噌ラーメンが好きなんだ)
友人B「今度の休み、カラオケ行かね?最近の曲、全然歌えねーわ」
一樹「行こーぜ!俺も練習しねぇと」
七瀬(カラオケが好きなんだな…)
友人C「てか、次の数学の小テスト、範囲どこまでだっけ?やべー、ノー勉だわ」
一樹「まじ?俺もだわ。終わった…」
七瀬(数学は、少し苦手なのかな)
知らなかった彼の情報が、パズルのピースみたいに少しずつ集まっていく。
そのたびに、胸の内に奇妙な満足感が広がった。
クラスの誰も知らない、僕だけが知っている一樹くんの一面。
そんな優越感が、僕の心をくすぐった。
この感情は、なんだろう。
憧れ? 尊敬? それとも_
放課後。
ほとんどの生徒が部活動の見学に向かう中、僕は帰り支度をしていた。
一樹くんも、バスケ部の見学に行くと友達に話していたのが聞こえた。
七瀬(強いんだろうな…見てみたいな、少しだけ)
そんな欲求が、むくりと頭をもたげる。
七瀬(ダメだ、僕なんかが。場違いだ)
そう理性がブレーキをかける。
でも、足は勝手に体育館の方へと向かっていた。
体育館の入り口の扉が、少しだけ開いている。
そこから中を覗くと、すでに何人かの新入生が練習に参加していた。
その中でも、一樹くんの動きは群を抜いていた。
しなやかなドリブル、正確なパス。
そして、空中で描かれる美しい放物線。
ボールがネットを揺らすたびに、体育館に歓声が響く。
七瀬(すごい…かっこいい…)
心臓が、どくどくと高鳴るのがわかった。
光の中で躍動する彼を見ていると、自分の存在がどんどん希薄になっていくような気がした。
でも、それでよかった。
僕は影でいい。
この光を、ただ見ていられるのなら。
どれくらいそうしていただろうか。
練習が一段落し、彼がこちらに背を向けたタイミングで、僕はそっとその場を離れた。
これ以上は、ダメだ。
校門を出て、家路につく。
今日の出来事を反芻しながら、とぼとぼと歩いていた。
七瀬(ああ、これはもう、ダメかもしれない)
認めたくなかった感情が、輪郭をはっきりとさせていく。
_僕、一樹くんのことが好きなんだ
そう自覚した瞬間、世界が色を変えた。
さっきまでと同じ帰り道が、なんだかきらきらして見える。
諦めが早いのが僕の長所であり、短所だ。
七瀬(どうせ叶うはずのない恋だ)
だったら、この気持ちは誰にも知られず、僕だけの胸にしまっておこう。
遠くから、彼の幸せを願うだけでいい。
そんなことを考えていた時、ふと、前方に彼の姿を見つけた。
友達と別れ、一人でイヤホンをしながら歩いている。
七瀬(同じ、方向…?)
心臓が、また大きく跳ねた。
七瀬(もっと見ていたい。彼の背中を、もう少しだけ…)
気づけば僕は、彼との距離を保ちながら、後をつけるように歩いていた。
電信柱の影に隠れ、曲がり角で息を潜める。
七瀬(僕、何やってるんだろう…ストーカーみたいだ)
罪悪感が胸を刺す。
でも、それ以上に、彼の存在を近くに感じられる高揚感が勝っていた。
彼がコンビニに寄れば、僕も少し離れた場所で待つ。
彼が自動販売機でジュースを買えば、その銘柄を目に焼き付ける。
七瀬(スポーツドリンク…やっぱり、運動後だからかな)
一つ、また一つと、彼の情報が増えていく。
僕だけが知っている、彼の秘密。
やがて、彼はとある住宅街の一軒家に入っていった。
表札には「桜井」と書かれている。
七瀬(ここが、一樹くんの家…)
満足感と、ほんの少しの虚しさを胸に、僕は自分の家に帰った。
自室のベッドに倒れ込み、天井を見上げる。
一樹くんの声、笑顔、匂い、動き。
そのすべてが、僕の心を掴んで離さない。
これから毎日、彼に会える。
それだけで、明日からの高校生活が、灰色から薔薇色に変わった気がした。
七瀬(この恋は、僕だけの秘密)
誰にも気づかれず、静かに、大切に育てていこう。
そう、固く、心に誓った。
同じ頃、桜井一樹は自室のベッドに寝転がり、ヘッドフォンを耳につけていた。
机の上のモニターには、鍵のかかったSNSのアカウントが表示されている。
『nanase_f』。
最新の投稿は『今日から高校生。いいことあるといいな』。
一樹「(…いいこと、あっただろ?七瀬)」
口角を上げると、ヘッドフォンから流れてくる音に意識を集中させた。
――サッ…サッ…(服が擦れる音)
――はぁ…(ため息)
――…一樹くん…
微かな、しかし明瞭な音声。
それは、七瀬の部屋に仕掛けた盗聴器から拾った、愛しい彼の声だった。
一樹「(…呼び捨てでいいって言ったのに)」
ヘッドフォンを外し、机の引き出しを開ける。
中には、『ひまわり保育園』の卒園アルバム。
仏頂面で写る七瀬の隣で、満面の笑みを浮かべる自分がいる。
指で、写真の中の七瀬の顔をそっと撫でた。
一樹「(やっと、捕まえた)」
十年以上、ずっと。ずっとお前だけを見てきた。
中学が離れた時は、気が狂いそうだった。
毎日お前の家の周りをうろついて、お前のSNSを監視して、お前が使った自販機のボタンを触って。
そうやって、なんとか耐えてきた。
同じ高校になるように、死ぬ気で勉強した。
同じクラスになるように、使える手は全部使った。
偶然なんかじゃない。
すべて、俺が仕組んだ必然だ。
一樹「(今日、つけてきてたな。可愛いことしやがって)」
帰り道、背中に感じていた視線。
電柱の陰に隠れる、不器用なストーカー。
全部、とっくに気づいていた。
嬉しくて、おかしくなりそうだった。
お前も、俺を求めてる。
一樹「(でも、それだけじゃ足りねぇよ、七瀬)」
部屋の壁には、コルクボードに留められた無数の写真が貼られている。
保育園の頃の七瀬。
小学生の頃の七瀬。
中学生の頃の七瀬。
そして、今日の朝、家を出るところを撮った、
高校の制服姿の七瀬。
狂気的な光を宿した瞳で、一樹は笑う。
一樹「(お前が俺を好きになるより、ずっと、ずーっと前から、俺はお前が好きなんだよ)」
さあ、始めようか。
俺とお前の、三年間を。
太陽の仮面の下に隠された、底なしの執着と独占欲。
七瀬が抱いた淡い恋心は、すでに、その深く暗い愛情に絡め取られていることに、まだ気づく由もなかった。