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🌹はなみせ🍏
レコーディングも終盤、スタジオの空気が最高潮に達しようとしていたその時。
らんちゃんが、申し訳なさそうに、でも意を決したような顔で僕に近寄ってきた。
「新幹線の時間があるので……そろそろ帰らせていただきます」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がギュッとなった。
わかっていたことだけど、あまりにも早すぎる。さっきまで僕の椅子に座って、あんなに真っ直ぐな瞳で僕らを見てくれていたらんちゃんが、もう行ってしまう。
「……そっか。修学旅行中だったね」
口では冷静に答えたけれど、心の中では「まだ行かないで」という子供じみた感情が暴れていた。少しでも長く、あと数分でもいいから彼女と同じ空気を吸っていたい。
「送ってくよ」
気づけば、そう口にしていた。スタッフが驚いた顔をし、若井と涼ちゃんが「えっ!?」と声を上げたけれど、今の僕には関係ない。
「後は任せた」とだけ言い残し、僕は彼女を促して外へ出た。
夕暮れの上野公園。
石川に帰ってしまう彼女と歩く数分間は、レコーディングの何倍も緊張した。
「また歌詞、書いてね」「進路のこと、ちゃんと応援してるから」
何を話しても、別れの時間が近づいている事実に胸が痛む。
集合場所の手前。彼女が立ち止まった。
「ここで大丈夫です。ありがとうございました」
深々と頭を下げる彼女。その背中を見送ろうとしたけれど、どうしても、このまま「ただの偶然出会ったアーティストとファン」で終わらせたくなかった。
「待って、らんちゃん!」
無意識に駆け寄って、彼女の手を取っていた。
ポケットから取り出したメモ用紙に、さっきスタジオを出る直前、殴り書きした自分の電話番号。
「はい、これ。僕の連絡先」
彼女の掌に、それを押し付けるように握らせた。
「……え?」と目を見開くらんちゃん。
「帰ったら、連絡して。今日のことでも、進路の相談でも……なんでもいいから」
自分で自分が信じられない。初対面の中学生に私用の連絡先を渡すなんて、プロ失格かもしれない。スキャンダルだなんだと騒がれるリスクだってある。
でも、そんなの関係なかった。
彼女の持つ繊細さと、僕らを支えたいと言ってくれたあの強い眼差し。そして、僕自身の直感が告げていた。
この子を、ここで離しちゃいけない。
「じゃあね。気をつけて帰るんだよ」
走り去る彼女の背中を見つめながら、僕は熱くなった右手のひらを握りしめた。
次に会う時は、彼女はどんな顔をして僕の前に現れるだろう。
未来のスタッフとしてか、それとも――。
夕闇に消えていく制服の影を追いかけながら、僕は心の中で、彼女から届くはずの最初の通知を、もう待ちわびていた。
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