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革袋に詰め込んだ老翁の大蛇と鱗の小人の血をベルニージュやグラタードに調べてもらったところ、シュビナの呪いを受けた者は鱗の小人の血で解呪できる、と意見が一致した。老翁の大蛇、シュビナ、鱗の小人、そしてまた老翁の大蛇と巡るように解呪できるということだ。逆回りはできない。
いったいそれに何の意味があるのか、と呑気に首をひねる魔法使いたちをよそにユカリは呪いを受けた者を解呪して回る。町は血の濃い臭いに澱んでいる。
一通り解呪したところで全快したベルニージュがやってきた。
「どうしたの? エイカ。話があるって?」
「私の名前を呼べるところへ行きましょう」
二人は焚書官の誰もいないところを探して路地裏に入った。
「魔導書が見つかりました。いえ、一瞬気配を感じて消えたんですけど、どうやらサクリフさんに宿ったようです」
「一瞬の気配、か。どういう力?」
「おそらくですが、敵意や悪意の伴った攻撃が起きない奇跡です」
「つまりセビシャスの奇跡の逆? あっちはいうなれば敵意や悪意の伴わない事故が起きない奇跡だよね」
「ええ、そうなりますね。セビシャスさんの奇跡とは逆に、サクリフさんの周囲では偶然や運命、人智の及ばない死だけが許されるようです」
「それって、つまり二つ揃えば不老不死になるということだけど?」とベルニージュは信じがたそうな思いを隠さずに疑う。
ユカリは神妙な顔で頷く。「そういうことになります。そういうことだと思います」
「いわゆる呪いは? セビシャスが彷徨ったり、パーシャが籠ったりに対応する憑依の基準は?」
「それはまだよく分からないです。サクリフさんが鱗の小人を倒そうとした時なんですけど、何がきっかけになったのか」
「まあいいんじゃない? サクリフなら話せば協力してくれるよ。ああ、でもその場合は焚書官たちと別れた後か。だけどそうするとグラタードから魔導書を奪うのが難しくなるね、持っているかもまだ分からないけど。どうしたものか。どちらかを優先するならサクリフの魔導書を推すけど」
その時、子供たちが笑いながら路地を駆けて行った。
ユカリも嬉しくなって言う。「何はともあれ、私たち、古代の魔女が作った生贄の仕組みを崩壊させたんですよね」
「そうだね」ベルニージュもユカリの視線を追って微笑みを浮かべる。「皆出て行こうと思えば出て行けるし、ここで怪物に怯えず暮らすこともできる」
二人で怪我人の呪いを受けた人々を休ませていた大通りに戻ると、サクリフが半分呆れて半分怒っていた。
「エイカ! どこに行ってたんだよ! 老翁の大蛇の血、残りを持っているのは君だけだって聞いたんだ。困るじゃないか」
「何が困るっていうんです? 結局この血で解呪できるのは……ああ、そういうことですか。鱗の小人を斬った時に血を浴びていたんですね?」
「ああそうだよ。見てくれよ、もう太腿まで硬化してる。このまま石像になるのはごめんだからね」
「そんな馬鹿な」とベルニージュが呟く。「他に比べて早すぎる。ユカリ、老翁の大蛇の血を早く!」
その深刻な声音におののき、ユカリは革袋の口を開き、周りに飛び散らないように慎重にサクリフの曝け出した足に注ぐ。
「待て、いや止めなくていい。何でだ? おかしい! 呪いが解けない!」サクリフの悲痛な叫びが通りに響き、周囲の人々が遠ざかる。「むしろ早まってる! 一旦止めてくれ! 何だ!? 変わらないぞ!? ああ、腰まで!」
ユカリの注ぐ血は何の効果ももたらさなかった。ユカリは助けを求めるようにベルニージュを見るが、ベルニージュもまた混乱に飲み込まれている。
「いったい、何事だ!」グラタードもやってくる。そしてサクリフの惨状を一瞥して慄く。「何だこれは!? どうした? なぜ解呪しない? 何が起こっているんだ!?」
「止まらないんだ! 硬化が止まらない! 助けて! エイカ! ベルニージュ! グラタード!」
サクリフは叫び、立ち上がろうとし、しかし横倒しになる。そして苦しみに呻く叫びは消え、ついには全身が硬化した。絶望を示す苦悶の表情が刻まれ、縋るように伸ばした手は何をつかむこともない。
答えを求める者がするように静まり返る通りで、ベルニージュが掠れた声で呟く。「これが、これこそが魔女の呪いだった?」
「でも、誰かの呪いで死ぬはずがないです」ユカリは否定する。「サクリフには、サクリフには。サクリフの中には」
誰かの意思では死ねない奇跡の魔導書が宿っている。それは古代の魔女の用意した仕組みだとて変わらないはずだ。しかし命があってもこれでは、このままではとても生きているとは言えない。
「それは敵意も悪意も無い場合の話でしょう?」とベルニージュが囁く。「兎が獅子とじゃれ合えば、その気がなくても殺される」
グラタードが嘆く。「そもそもなぜサクリフだけなのだ? サクリフの身にだけ降りかかったこととは何だ?」
ユカリは一つ一つ、サクリフの受難をたどっていく。「サクリフさんは老翁の大蛇の血に呪われて、シュビナの血で解呪し、そして鱗の小人に再び呪われました。つまり、そうか、サクリフさんは、サクリフさんだけが三体の怪物全ての血を浴びてしまったんだ」
ユカリは膝から崩れ落ちそうになるが、ベルニージュが支える。
「エイカ! 離れて!」
ベルニージュがユカリの肩を掴んで引く。
顔を上げたユカリの目の前でサクリフの石になった体が震えている。まるで石の中で何かが暴れているかのように震え、そして破壊的な音と共に、背中に亀裂が入り、膨張するように割れた。亀裂から覗くのは毒々しい彩の禍々しい模様だ。それが狭い石の体から這い出ようと身をよじる。
誰もが身動き取れず、その光景をじっと見ていた。サクリフが石になり、ある種の昆虫が蛹から成体へと変じるように、新たな体を持って出てきた。その光景を理解できても、その意味までは分からず、次の一手を見出せない。
石となった古い体を脱ぎ捨てて再誕したサクリフの体は倍の大きさに膨らんでいる。人のような肢体を維持しながらも、濡れた産毛のように全身が煌めいている。毒々しいばかりに極彩色の外套が風もなく翻るように翅を広げると、怒りと嘲りを抽象化したような眼玉模様が人々を睨みつけた。人間ならば両耳のある辺りから毛に覆われた触覚が生え、変貌前と変わらない白髪を押しのけて天に伸びている。全身を覆う白い体毛はまるで絹の衣装のように翻る。
サクリフは蛾の怪物になってしまったのだった。
とうとう人々の困惑が恐怖に塗り替わり、悲鳴と叫喚が渦巻くように鳴動する。我先にと押しのけて、怪物が何もしない内から人によって人が打ち倒される。
サクリフは困惑しているようだったが、それは自身の変貌にではなく、人々の恐怖と怒りの眼差しに対してだった。何が起こっているのか分からない、という戸惑いの色が人間と変わらない眼窩に納められた青紫の複眼に映っている。
口ぎたなく罵る声や子供の泣き声がこだまする。
突然、サクリフが歩き出したかと思うと獣のように飛び掛かり、逃げ惑う集団の上に圧し掛かった。たったそれだけのことで、翅が起こした風に周囲の人々までが吹き飛ばされる。見た目以上の重さと力があるらしい。サクリフは亀のように丸くなり、地面にうずくまる。その翅の下敷きになった者たちは逃れようと手足をばたつかせているが、重すぎて逃げ出せないらしい。
とうとうグラタードと何名かの焚書官が抜刀し、サクリフに斬りかかる。しかし、ある者は剣を取り落し、ある者は地面の小さな凹みに躓いて転ぶ。
怪物になってなお魔導書の力は健在だった。誰もサクリフを攻撃できず、サクリフもまた誰をも攻撃できない、はずだ。にもかかわらず、サクリフの体当たりに吹き飛ばされて血を流す者がおり、今もまだ翅の下敷きになって苦しむ者がいる。
ベルニージュは呪文を唱えようとするが舌を噛む。ようやく唱え切り、炎の巨人が現れたと思えば、魔女の牢獄の天井にある僅かな亀裂から突然雨が降り出して、消え去った。
人間の意思に基づく全ての攻撃が存在しえなくなっている。
無傷のサクリフはゆっくりと立ち上がる。そこにいたのは小さな子供だった。逃げる人々に押し倒され、踏みつけられていたのをサクリフは庇ったということらしい、それより多くの犠牲を出して。つまり、獅子とじゃれ合って殺されるように、この怪物が誰かを助けようと動いたために周りに犠牲が出ているということだ。
「最悪の組み合わせだね」とベルニージュが悔しさを滲ませて呟いた。
否定できないが、ユカリはまだ希望を感じた。子供を助けようとしたサクリフがあの怪物の中に息づいているのは確かだ。
鱗粉で雨を弾くサクリフの背中にユカリは呼びかける。
「サクリフ! とにかくその場を動かないで!」
怪物の強靭な力のために、ちょっとした動きで周りに被害が出かねない。
まさに今、ユカリの言葉に反応して振り返ったサクリフの翅がぶつかって石造りの建物を瓦解させ、人々の上に降りかかっていた。
しかしサクリフはユカリが分からないのか、興味ない様子で雨に濡れた空を見上げると、吠えた。その分厚い雲に敵が隠れているとでもいうように、両の拳を振り上げ、長く力強く吠えた。
そして大きく翅を広げ、羽ばたき、それだけで多くの人々を吹き飛ばして怪我をさせながら、暗い空に舞い上がる。強靭な怪物の体、身を挺する英雄の精神、魔導書の奇跡を伴ったサクリフは、魔女の牢獄の天板の亀裂から曇天の向こうへ飛び去った。