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side luka
彼の声は震えていた。
それを聞いているだけで、胸の奥がぎゅっと痛くなる。
泣きそうに笑う顔。
あんなに強かったはずの人が、いま目の前でこんなにも弱くなっている。
もう「嫌い」なんて言葉は吐けなかった。
本当は、ずっと嫌いになんてなれなかった。
好きだからこそ、嫌わなきゃいけなかっただけ。
自分を守るために、何度も嘘を塗り重ねてきただけだった。
「……っごめん」
彼がこちらを見る。
縋るような目。
その弱さも隠さない瞳が、苦しくて、愛おしくて、息が詰まる。
「……いいよ。謝らないで」
言葉にした瞬間、張り詰めていた何かがふっとほどけた。
赦しというより、自分の気持ちをようやく認められた気がした。
沈黙が落ちる。
でもそれはもう、逃げ出したくなるような重さじゃなかった。
凍っていた氷が静かに水へと溶けていくような、柔らかな静けさ。
彼が唇を震わせて言う。
「……るかちゃん。おれんち、きて?」
鼓動が跳ねる。
ほんの一瞬だけ迷ったけど、もう決まっていた。
この人を拒むことなんて、もうできない。
「……わかった」
小さく頷いたその瞬間、彼の肩から力が抜けるのが伝わった。
安堵が車内に満ちて、涙の匂いとともにぬるい空気が流れ込む。
助手席の窓の外、東京の街並みが流れていく。
ビルの明かりも、信号の光も、今夜は胸に刺さるだけで、なにもきらめいて見えなかった。
彼はほとんど言葉を発さず、ただ前を見てハンドルを握っていた。
車内にはカーステレオもついていない。
響くのは、タイヤがアスファルトを擦る音と、心臓の鼓動ばかり。
首都高に入ると、街の灯りが遠ざかっていく。
トンネルを抜けるたびに光が瞬き、彼の横顔を映し出す。
泣きそうな目で笑った、あの表情が胸に焼きついたまま離れなかった。
どれくらい走ったのだろう。
時間の感覚すら曖昧になった頃、車は静かな住宅街へと入っていった。
ゆっくりとスロープを下る。
地下駐車場。
蛍光灯の白い光が冷たく広がり、エンジン音がコンクリートの壁に低く響いた。
車が止まる。
彼がハンドルから手を離した瞬間、張り詰めていた空気がふっとほどける。
私はシートベルトを外す手を震わせながら、深く息を吐いた。
彼がエンジンを切り、無言のまま運転席のドアを開ける。
冷たい地下の空気が流れ込む。
回り込んで助手席のドアが開いた。
顔をあげると、彼が立っていた。
街灯に照らされたときとは違う、地下の白い蛍光灯の下で、どこか儚げに見える。
「……」
言葉はなく、ただ差し出された手。
一瞬だけ迷った。
でも次の瞬間、私はその手に自分の手を重ねていた。
指先が触れる。
そっと、絡め取られる。
温かさが伝わった瞬間、胸の奥がじんわりと熱くなった。
繋いだまま、彼は黙って歩き出す。
私はただ、その背に引かれるように歩幅を合わせた。
エレベーターの扉が閉まった瞬間、彼の腕に強く抱き寄せられた。
狭い空間に響く心臓の音。胸が苦しいほど近くて、彼の体温がそのまま流れ込んでくる。
「……るかちゃん……」
低い声が耳元を震わせる。
抗おうとしたけれど、もう拒めなかった。肩口に顔を埋められ、腕の力に身を委ねてしまう。
それでも――。
「……だめ。誰かに見られるかもしれないから……」
震える声で言うと、彼の呼吸がわずかに乱れた。
ほんの少しだけ腕の力が緩む。
けれど決して離れることはなく、彼はただ唇を噛み、黙って私を抱きしめ続けた。
チン、と乾いた音を立ててエレベーターが止まる。
名残惜しそうに腕がほどかれ、彼は黙って先に降りた。
振り返った彼が、そっと手を差し出す。
ためらいながらも、その手を取って一歩を踏み出した。
廊下を歩き、彼の部屋の前で立ち止まる。
ポケットから鍵を取り出す仕草は、どこかぎこちなくて――それでも必死に落ち着こうとしているのが伝わる。
カチャリ。
鍵が回る音がやけに大きく響いた。
「……入って」
掠れた声でそう言いながら、彼はドアを押し開けた。
「お邪魔します…」
靴を脱ぎ、彼の後へつづく。
思った以上に整えられた室内。
シンプルな家具に、余計なもののない空間。
あの荒々しい彼からは想像もつかないほど、きちんとした生活の気配が漂っていた。
「女は、家にあげないから」
振り返りざま、掠れるような声でそう告げる。
自分に向けたのか、それとも言い訳なのか――答えは分からない。
「……すわって」
リビングのソファを手で示す。
促されるまま腰を下ろし、コートを脱ぐ。
カバンをそっとソファの脇に置き、その上にコートを重ねた。
静かな部屋に、布の擦れる音だけが響く。
玄関の方から足音がして、彼が戻ってきた。
無言でテーブルにペットボトルの水を置く。
その仕草ひとつすら、なぜか胸をざわつかせる。
黒いブルゾンを乱暴に脱ぎ捨てるのかと思ったら、きちんとソファの背に掛けて腰を下ろした。
すぐ隣。肩と肩が触れそうなほど近い距離。
胸の鼓動が早まる。
この部屋の静けさのせいか、それとも彼が近すぎるせいか。
ラベルの水滴が冷たく指に触れる。
喉は渇いているはずなのに、キャップを回すことすら忘れてしまっていた。
「……ありがとう」
やっと声に出すと、彼は少しだけ笑ったように見えた。
沈黙が部屋を刺す。
テレビもついていないリビングは、時計の針の音さえ響きそうなくらい静かだった。
「……ごめん」
ぽつりと落ちた声に、思わず彼を見る。
前を向いたままの横顔は影に沈んでいて、表情がわからない。
「おれ、るかちゃんの気持ち……踏み躙った」
言葉を吐き出すと同時に、彼はゆっくりと俯いた。
膝に両手を置き、深く前へ倒れ込むように顔を伏せる。
その肩が小さく震えているのを見て、胸の奥がぎゅっと締めつけられた。
今まで見てきたどんな姿よりも――いま目の前にいる彼が、いちばん弱くて、壊れそうに見えた。
そっと、彼の肩へ手を伸ばした。
ためらいはあったけれど、放っておけなかった。
触れた瞬間――びくりと小さく肩が揺れる。
そのまま静かに、彼の体を自分の方へ引き寄せた。
顔を伏せたままの彼は、子どものように力なくもたれかかってくる。
荒々しい言葉や仕草しか知らなかったはずなのに、こんなにも弱い背中を抱きしめる日が来るなんて。
胸元に伝わる震えに、思わず腕に力を込めた。
「……もう、いいよ」
自分でも驚くほど優しい声が、唇から零れ落ちていた。
私の言葉で、彼が変わってしまったのなら。
私が壊したのなら――受け止めなければならない。
あの夜まで、彼はただの憧れだった。
遠くで歌う存在で、ただの「好き」だった。
けれど今、腕の中にいるのは弱さをさらけ出したひとりの人間。
傷ついて、それでも必死に生きている彼。
守りたい。
私が守ってあげたい。
そう思った瞬間、胸の奥で確かに何かが変わった。
憧れでも好意でもない。
もっと深く、抗えない感情に――。
気づけば、私は彼の頬に手を添えていた。
濡れた瞳を正面から見つめ、そのまま唇を重ねる。
ほんの一瞬。
触れるだけの、短いキス。
けれど、確かに伝わった気がした。
私の心が、ただの「好き」を超えてしまったことが。
side mtk
彼女に抱きしめられて、泣くことしかできなかった。
プライドも矜持も、全部捨ててしまっていた。
そっと頬に触れる手の温もりが、胸の奥まで沁みていく。
そして――ほんの一瞬、触れるだけのキス。
優しさが壊れた心の隙間に静かにしみ込む。
ーーーああ、もう敵わねぇ。
涙に濡れた視界の中、思わず彼女を抱きしめ返す。
「……お願い、いなくならないで」
声が勝手に震える。
「もう、空っぽなんだ。おれ……」
自分でも何を言いたいのかも分からない。
ただ――彼女でしか埋まらない。そう気づいてしまった。
「……うん。いなくならない」
その返事が胸に染みて、
堰を切ったように息が乱れた。
目と目が絡む。
澄んだ瞳が、少し潤んでいる。
彼女の涙にもう耐えきれなくなって、
頬を両手で挟み、ゆっくり唇を重ねる。
最初は触れるだけ。
けれど、一度触れてしまえば離れられない。
確かめるように、何度も唇を重ねた。
「……っ、るかちゃん……」
唇を離したあと、掠れる声で。
「おれ……るかちゃんのこと、ぶっ壊そうとしたのに……」
胸がきしむ。
「……おれで、いいの?」
沈黙。
けれど、澄んだ瞳からこぼれた涙がすべてを答えていた。
胸の奥が焼けるように熱くなり、
もう堪えきれず唇を重ねる。
触れるだけでは止まらない。
深く、強く、何度も。
「……るかっ」
抱きしめる腕に力がこもる。
彼女が逃げる気配はない。
ただ、その体温を預けてくれる。
その温もりに、理性が焼き切れる。
「……欲しい。
もう……るかじゃなきゃ、駄目なんだ」
矜持も誇りも全部かなぐり捨てて、ただひとりの女を求める男として――
ソファへと彼女を押し倒した。