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放課後の図書室は夕陽を飲みこんだオレンジ色に沈んでいた。
ページをめくる音と、窓の外で鳴くカラスの声だけが、静けさを縫う。
「やあ。今日も居残りかい?」
低く澄んだ声が背後から落ちてくる。
振り返ると、蒼井先輩が眼鏡の奥で柔らかく笑っていた。
黒髪の間からこぼれるその微笑みは、図書室の空気よりも少し冷たく、けれど不思議に安心する。
「るりを見かけなかったか?」
先輩が何気なく口にした名前に、胸が跳ねる。
ゆるふわの髪と、ほんのり甘い花の香り。
——夜になると、あの声が子守唄に変わる少女。
「……」
先輩の視線が一瞬だけ鋭くなる。
その奥に、僕の知らない秘密が揺れていた。
夜の図書室は、昼間とは別の顔をしていた。
蛍光灯の白い光が、机の上の本を冷たく照らし、外の窓には月が滲んでいる。
「……君、白羽るりと仲がいいんだって?」
静かに椅子を引く音。
蒼井先輩が僕の向かいに腰を下ろした。
その瞳はいつもよりずっと真剣で、ページの影がそのまま落ちているようだった。
「彼女と夜に話すときは、気をつけた方がいい」
小さく笑う口元。冗談めかしているのに、声だけが妙に低い。
「どういう意味ですか?」夜の図書室は、昼間とは別の顔をしていた。
蛍光灯の白い光が、机の上の本を冷たく照らし、外の窓には月が滲んでいる。
「……君、白羽るりと仲がいいんだって?」
静かに椅子を引く音。
蒼井先輩が僕の向かいに腰を下ろした。
その瞳はいつもよりずっと真剣で、ページの影がそのまま落ちているようだった。
「彼女と夜に話すときは、気をつけた方がいい」
小さく笑う口元。冗談めかしているのに、声だけが妙に低い。
「どういう意味ですか?」
「……眠れなくなる、いや——眠らされる、って言った方が正しいかな」
眼鏡の奥で光が揺れる。
初め
「でも、君なら平気かもしれない」
囁くように言い残すと、先輩は本を閉じて立ち上がった。
「彼女の歌声を、最後まで聞けたら——の話だけどね」
先輩の背中が扉の向こうに消えたあとも、
図書室には静かなざわめきが残っていた。
放課後の帰り道、ふと見上げた校舎の屋上に、淡いピンク色が揺れていた。
白羽るり——。
ゆるふわの髪が夜風にほどけ、月明かりの中で小さな光をまとう。
「……君も、眠れないの?」
階段を登りきった僕を、るりが驚いたように見つめる。
その声だけで、胸が温かく溶けていくようだった。
「先輩に……いや、蒼井先輩に言われたんだ。
君の声には気をつけろって」
るりは一瞬きょとんとし、それからふわりと笑った。
「じゃあ、聞いてみる? 本当かどうか」
その笑顔が、危険だと分かっていても目を離せない。
夜風に混じって、るりの唇から小さなメロディーがこぼれ落ちた。
—
瞼が重くなる。
心臓が速く打つ。
「
「……君、強いね」
るりが小さくつぶやく。
その瞳が、月よりも近くにある気がした。
“ほとんど
その瞬間、彼女の声が少しだけ高く跳ね、
世界がゆ耐えきれない眠気の中、やっとの思いで絞り出した言葉。
告白には届かない。
でも“好き”が滲んだ一言に、るりの頬がほんのり桜色に染まった。
「……危ない人だね」
るりが小さく笑い、また歌い出す。
甘い旋律が耳を満たし、僕の意識は再び夢へと沈んでいった
校舎を包む紙飾りと屋台の匂い。
人のざわめきが心地よい午後、僕はクラスの出し物である小さなステージ裏にいた。
ステージ中央には、マイクの前に立つ白羽るり。
「だ、だめだって……私、歌ったら……!」
るりが青ざめた顔で首を振る。
ゆるふわの髪が揺れ、パステルカラーのワンピースが小さく震えた。
「でも、君の歌がメインなんだ」
クラスメイトが焦った声をあげる。
観客席にはすでに人だかりができていた。
そのとき、蒼井先輩がひょいと顔を出した。
「やあ、楽しそうだね」
眼鏡の奥がキラリと光る。
「もし眠る人が出たら——俺が責任を持って回収するさ」
「回収って何ですか!?」
僕が叫ぶ間にも、司会が開演を告げる。
るりがステージに立つ。
スポットライトが淡く光り、
彼女が震える唇を開いた瞬間——
会場に柔らかなメロディーが広がった。
ひと呼吸。
観客席から「……すやぁ」と小さな寝息が。
「は、早い!!」
クラスメイトが慌てて客席を揺さぶる。
僕は必死に眠気と戦いながら、
スポットライトに浮かぶるりの横顔を見つめていた。
——眠らされる恐怖よりも、
その歌声をもっと聞きたい。
そんな想いだけが、意識を必死につなぎ止めていた。
世界がやわらかな霞に包まれていく。
るりの歌声が夜風に溶け、僕の意識をゆっくり引きずり込む。
まぶたが重い。
けれど——このまま眠ったら、きっと後悔する。
「……」
自分の声が自分のものじゃないみたいに震えた。
るりが歌を止め、驚いた顔でこちらを見つめる。
「……君の声、
俺、もっと聞いてたい」朝の教室は、いつもより眩しかった。
窓際の席でノートを広げると、ゆるふわの髪が視界をかすめる。
白羽るりが、昨日と同じ柔らかな笑顔を浮かべていた——
はずなのに、どこか落ち着かない。
「お、おはよう」
声をかけると、るりはペンを握りしめたまま
「お、おはよ……っ」と妙に高い声を返してきた。
——あれ、昨日までのるりじゃない。
「寝不足?」
僕が何気なく聞くと、
「え? えっと、そ、そうかも。夜、ちょっと……」
と言いながら、耳まで赤くなる。
ノートの端に小さく“ねむらせた”と書いて消す彼女の仕草が、
昨日の屋上での出来事を鮮やかに呼び覚ます。
「昨日、屋上で歌ってたの……内緒だよ?」
るりは小声で囁き、いたずらっぽく笑った。
その笑顔は、夜の子守唄よりも心臓に効く。
「……君の声、また聞きたい」
思わずこぼれた言葉に、
るりは顔を真っ赤にしてノートで隠した。
「し、知らないっ!」
その一言だけ残して、彼女はプリントを抱えて
小走りで教室を出ていった。
残された僕は、昨日よりもさらに眠れない朝を迎えていた。
夕方の校舎は、祭りの喧騒が嘘みたいに静かだった。
片付けを終えた教室に、カーテン越しの茜色が広がる。
「……お疲れさま」
扉を開けると、窓際に座るるりがこちらを振り向いた。
ステージ衣装のまま、頬に少しだけ赤みを残している。
「今日、眠った人……いっぱいだったね」
るりは照れ笑いを浮かべる。
「でもね、誰も嫌そうじゃなかった。
みんな、なんだか幸せそうに寝顔してた」
その瞳が、夕陽を映してきらりと揺れた。
「私……」
小さく息を吸う。
「誰かを幸せにできる歌を、歌いたい。
ただ眠らせるだけじゃなくて、
聴いた人が心まで温かくなるような……
そんな歌にしたいの」
僕は胸が熱くなった。
昨日まで“呪い”と呼ばれていたものが、
今は彼女の夢の始まりみたいに聞こえる。
「いいと思う」
言葉が自然にこぼれた。
「るりの歌なら、きっと誰でも幸せになれるよ。
——俺みたいに」
言った瞬間、るりの耳が真っ赤に染まった。
「も、もう……そういうこと言わないで……」
小さな声で呟きながら、
彼女はそっと僕の隣に座った。
けれど教室の中だけは、
ふわりとあたたかな静寂に包まれていた。
窓の外が藍色に染まり始めたころ、
静かな教室の扉が、コン、コン、と軽くノックされた。
「ほう……なるほど。文化祭の余韻を二人占め、か」
蒼井先輩が片手に後片付け用の雑巾をぶら下げて立っていた。
眼鏡の奥が夕暮れの光を反射し、
にやりと笑うその顔は、からかう気満々だ。
「せ、先輩! 違っ……」
思わず声を上げた僕をよそに、
るりは慌てて立ち上がり、両手を振った。
「おやおや、否定が早いね」
先輩はゆっくり教室に入り、机に肘をつく。
「でも——いい歌だったよ、白羽。
あの歌でみんな幸せそうに寝てた。
君が自分の歌を信じてる顔、ちゃんと見えた」
るりの頬がぽっと赤くなる。
先輩はその様子を見て、さらに口元を緩めた。
「それに」
視線を僕へ移し、片眉を上げる。
「最後まで起きてた君。
彼女の一番近くで聴いてたんだ。
——責任、取らないとな」
「せ、責任って何の——!」
僕が慌てて反論する前に、
先輩は軽く手を振り、背を向けた。
「まあ、あとは君たち次第だ。
夜の歌が“呪い”か“奇跡”か決めるのは、
二人でどう使うかだからね」校舎を包む紙飾りと屋台の匂い。
人のざわめきが心地よい午後、僕はクラスの出し物である小さなステージ裏にいた。
ステージ中央には、マイクの前に立つ白羽るり。
「だ、だめだって……私、歌ったら……!」
るりが青ざめた顔で首を振る。
ゆるふわの髪が揺れ、パステルカラーのワンピースが小さく震えた。
「でも、君の歌がメインなんだ」
クラスメイトが焦った声をあげる。
観客席にはすでに人だかりができていた。
そのとき、蒼井先輩がひょいと顔を出した。
「やあ、楽しそうだね」
眼鏡の奥がキラリと光る。
「もし眠る人が出たら——俺が責任を持って回収するさ」
「回収って何ですか!?」
僕が叫ぶ間にも、司会が開演を告げる。
るりがステージに立つ。
スポットライトが淡く光り、
彼女が震える唇を開いた瞬間——
会場に柔らかなメロディーが広がった。
ひと呼吸。
観客席から「……すやぁ」と小さな寝息が。
「は、早い!!」
クラスメイトが慌てて客席を揺さぶる。
僕は必死に眠気と戦いながら、
スポットライトに浮かぶるりの横顔を見つめていた。
——眠らされる恐怖よりも、
その歌声をもっと聞きたい。
そんな想いだけが、意識を必死につなぎ止めていた。
そう言って蒼井先輩は、
廊下の夕闇に溶けるように去っていった。
教室には、るりと僕だけが残る。
胸の奥に、先輩のからかいと温かな後押しが、
まだ小さく響いていた。
夜の校庭は、文化祭の片付けが終わった後の静けさに包まれていた。
芝生の上に落ちた月明かりが、白い道を描いている。
「るり、ここにいたんだ」
僕が声をかけると、ベンチに座っていたるりが振り返った。
淡い髪が夜風に揺れ、月に照らされて銀色に光る。
「なんとなく、もう少しだけ今日を感じたくて」
るりは小さく笑った。
「みんなが眠ってる間、私だけ起きてる夜が好きなんだ」
その笑顔に、胸がきゅっと締めつけられる。
あの歌声に眠らされながらも、
僕だけが最後まで目を開けていた理由。
それは、ただ——彼女が好きだから。
「るり」
名前を呼ぶと、るりが首をかしげた。
その瞳に映る自分の顔が、やけに近い。
「俺、もう眠ってる場合じゃない」
深呼吸ひとつ。
心臓の鼓動が耳に響く。
「君の歌が好きだ。
……そして、君が好きだ」
夜風が止まり、世界が一瞬だけ静まる。
るりの目が大きく見開かれ、
次の瞬間、頬がふわりと桜色に染まった。月明かりが芝生を銀色に染める。
僕の告白を受けたるりは、
驚いたように目を瞬かせたまま、
しばらく何も言わなかった。
夜風が二人の間をすり抜け、
木々の葉が小さく鳴る。
世界が音を失ったように静まり返る中、
僕はただ、るりの唇の動きを待った。
やがて——
彼女は小さく息を吸い、
ゆるふわの髪を揺らしながら
ほんのりと微笑んだ。
「……私も……」
その言葉は、子守唄みたいに柔らかく、
僕の心にそっと降りてきた。
続きの言葉を待つ前に、
るりが視線を下げ、
頬を染めて指先をぎゅっと握る。
「私も——あなたと一緒に歌いたい。
これからも、もっと……」
その小さな声が、夜の空気に溶けていく。
僕の胸に広がる温もりは、
あの“呪い”よりもずっと甘くて、
静かな奇跡のようだった。
僕たちは何も言わず、
ただ同じ空を見上げた。
遠くで星が瞬き、
明日へと続く夜が、ゆっくりと優しく包んでいった。
白いバージンロードを、
るりがゆっくりと歩いてくる。
教会のステンドグラス越しに差し込む光が
彼女のゆるふわの髪を淡く照らし、
花びらのような純白のドレスがきらめいた。
「……すごく、綺麗だ」
思わず漏れた僕の声に、
るりが小さく笑う。
その笑顔はあの日、
文化祭のステージで歌ったときと
少しも変わらない。
牧師の問いかけが響く。
「あなたは、この人を愛し、
喜びの時も悲しみの時も、
その歌声と共に歩みますか」
「はい」
言葉を返した瞬間、
あの夜に初めて聴いた子守唄のような温もりが
胸の奥に蘇った。
呪いだと思っていた声が、
僕にとってはただの奇跡だったと
改めて気づかされる。
るりが指輪を差し出しながら、
そっと囁いた。
「これからも、私の歌を
隣で聴いていてくれる?」
「もちろん。
何度眠らされても、君の声が好きだ」
会場から小さな笑いが起きる。
るりが頬を赤らめ、
それでも幸せそうに微笑んだ。
誓いのキスを交わした瞬間、
鐘の音と共に、
教会の外に集まった人々の歓声が広がる。
——あの日、月明かりの下で
「……そんな顔で言われたら、
私、歌えなくなっちゃうよ」
照れた声と、微かな笑み。
るりがそっと僕の隣に座る。
その肩が触れた瞬間、
夜の空気がゆっくりと温もりに変わっていった
祝福の拍手が鳴りやまない披露宴会場。
マイクを手に、蒼井蓮先輩がゆったりと立ち上がった。
いつものクールな眼鏡姿に、
今日は白いチーフが差し色のタキシード。
その口元に浮かぶ笑みが、会場を一気に和ませた。
「ええと、新郎新婦とは高校時代からの付き合いでして。
まあ、僕が一番最初に“呪い”の現場を見た証人と言っていいでしょう」
会場から小さな笑い声が起きる。
るりが恥ずかしそうに肩をすくめ、
新郎は苦笑いを浮かべた。
「彼女の歌声は——当時、夜になると人を眠らせるほどの力があった。
僕も何度かステージ裏で危うく夢の世界へ旅立ちかけましたが、
その歌声を止めたいと思ったことは一度もありませんでした。
なぜなら、その声には“優しさ”があったからです」
蓮先輩は一度、二人に視線を向ける。
その目が、どこか懐かしさを帯びて光った。
「そして今日——
あの呪いは、奇跡に変わった。
新郎が、彼女の歌を誰よりも近くで聴き、
目を開け続けたからこそ、
彼女は“誰かを幸せにする歌”を選べたんです」
会場が静まり返る。
蓮先輩は軽く咳払いをして、
いつもの軽やかな調子を取り戻した。
「まあ、長く語ってしまいましたが……
結論としては——」
マイクを少し掲げ、にやりと笑う。
「二人とも、これからも世界を眠らせながら、
幸せを目覚めさせてください。
そして新郎、何度眠らされても
必ず隣で目を開けていてあげてね」
会場中が拍手と笑いに包まれる。
るりが頬を赤らめながらも、
新郎の手をそっと握った。
蓮先輩は軽く頭を下げ、
最後に柔らかな声で締めくくった。
「君たちの物語は、まだ始まったばかりです。
これからも、歌と笑顔で——
どうか幸せを紡いでいってください」
再び大きな拍手が湧き上がる中、
るりが小さく「ありがとう、先輩」と呟く。
その声は、鐘の音よりも甘く
夜空に響く子守唄のようだった。
休日の朝。
カーテン越しに差し込む陽射しが、
柔らかくリビングを包んでいた。
「おーい、パパ〜!」
小さな足音が廊下を駆け抜ける。
リビングのドアが勢いよく開き、
まだ寝癖の残る髪を揺らした女の子が
僕の胸に飛び込んできた。
「おはよう、ひまり」
僕は笑って抱き上げる。
その背中から、かすかに甘いミルクの香り。
「ママの歌、聴きたいー!」
ひまりが両手をぱたぱたさせると、
キッチンからエプロン姿のるりが顔を出した。
ゆるふわの髪を後ろでまとめ、
頬に小麦粉をつけたまま微笑む。
「まだ朝ごはんも食べてないのに?」
「いいの、ママの歌で起きたいの!」
るりは少し照れながら、
ひまりを抱き寄せて小さな声で歌い始めた。
柔らかいメロディーが部屋に広がる。
高校のころ“呪い”と呼ばれたその声は、
今では家族を包む優しい朝の合図だ。
「……んん、眠くなってきた」
ひまりが僕の肩で小さくあくびをする。
「ほら、また“眠らせちゃう歌”」
僕が笑うと、るりも肩をすくめた。
「だって、幸せになる歌だから」
その言葉に、僕の胸がじんわりと温かくなる。
——あの日、月明かりの下で交わした約束。
“誰かを幸せにできる歌を歌いたい”
その夢は、いまこの家の中で
確かに生きている。
僕はるりとひまりを抱き寄せ、
小さく囁いた。
「これからもずっと、
君の歌と、この小さな奇跡を守っていくよ」
るりが僕に微笑み返す。
ひまりの寝息が、朝の光に溶けていった。
午後のリビングに、玄関ベルが軽やかに鳴った。
ドアを開けると、懐かしい眼鏡の奥がきらりと光る。
「やあ、名付け親の登場だ。
ひまり嬢、今日も可愛く成長してるかな?」
蒼井蓮先輩が紙袋を片手に立っていた。
スーツのポケットには、相変わらず気取ったハンカチ。
その余裕の笑みに、僕も思わず苦笑する。
「せんぱい! またカッコつけてる」
ひまりがぱたぱたと駆け寄ると、
先輩はしゃがみこんで視線を合わせた。
「おお、もうこんなに大きくなったか。
——さて、名付け親としてはそろそろ
“第二の名前”を授けてもいい頃かな?」
「だいにのなまえ?」
ひまりが首をかしげる。
「そう。眠っていても心だけは起きている、
そんな女の子の名前だ。……例えば、
“ひまり・ドリームキーパー”とかどうだい?」
「ながいー!」
ひまりが大笑いすると、
キッチンからるりが顔を出した。
「先輩、また変な名前つけて」
るりは呆れたように笑う。
「でも、ありがとう。
ひまり、先輩にお礼言わなきゃ」
「うん! ありがとー、ドリームキーパー!」
ひまりが小さな手を伸ばすと、
蓮先輩はそっと握り返した。
その指先がほんのり温かい。
「君たちの家に来ると、
高校時代のあの夜を思い出すよ」
先輩は僕ら夫婦を見回し、
いつもの茶化すような笑みを浮かべた。
「“呪いの歌声”を守る騎士と、
奇跡の歌姫。
……相変わらず、いいチームじゃないか」
「もう、先輩ったら」
るりが頬を染め、僕もつい笑ってしまう。
ひまりが無邪気に「ママの歌きくー!」と言い出し、
るりが小さく子守唄を口ずさむ。
その瞬間、ひまりの瞼がふわりと重くなる。
「やれやれ、名付け親としては、
この“魔法”にだけは勝てそうにないな」
蓮先輩がそっとひまりの頭を撫でながら、
優しい声でそう呟いた。
その朝、家の中は不思議なほど静かだった。
窓から差し込む光だけが、昨日と同じように柔らかい。
テーブルの上には、るりが昨夜書きかけていた楽譜が置かれている。
小さな文字で残された一行。
「だいすきな人たちへ——これからも歌が届きますように」
風がカーテンを揺らすたび、
その紙がかすかに鳴り、
耳の奥であの子守唄がよみがえる。
——もう、この家には彼女の声はない。
けれど、心の奥で確かに息づいている。
春の風が校庭を渡り、
桜の花びらが舞う中、
一人の少女が小さなステージに立っていた。
「それでは、ひまりちゃんによる歌をどうぞ!」
司会の声に、観客の子どもたちがわっと拍手する。
少女は深呼吸をひとつして、
マイクを握りしめ、目を閉じた。
——やさしいメロディーが、広がっていく。
それは、母・るりがよく歌っていた
子守唄の旋律。
でもそこには、新しい息づかいがあった。
幼いながらも、自分の想いを込めた
“ひまりだけの歌”。
ステージ袖で見守る僕は、
胸の奥が熱くなるのを感じていた。
るりの声を、笑顔を、
誰よりも近くで知る自分だけがわかる。
——その歌の奥に、母の面影が確かに生きていることを。
歌い終えたひまりが
少し照れくさそうに客席を見渡した。
そして見つけた僕に向かって、
小さく手を振る。
「パパ、ママの歌、ちゃんと届いたかな?」
その言葉に、思わず笑みがこぼれる。
風がまた、花びらを運んだ。
どこかで聴こえる気がする。
あの日の子守唄——
るりの歌声が、ひまりの声と重なって。
——歌は、次の世代へ。
呪いと呼ばれた奇跡は、
これからも人の心をそっと包んでいく。
「呪いと呼ばれた声は、愛する人に届いたとき、奇跡と呼ばれる。」