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FORSAKEN最奥――『生贄の儀式の間』。
茨は天井まで絡みつき、紫色のナス科の花が石畳の隙間から狂ったように咲き誇る。濃霧は重く淀み、この場所だけ時間さえ腐り落ちているようだった。
その石柱の陰で、ツータイムは息を潜めていた。
胸元では、ゴーストファイア・ダガーが小さく震えている。
握る手には汗が滲み、鼓動だけが耳の奥でやけに大きく響いていた。
(いる……)
霧の向こう。
あの赤い影が。
そして、その傍には――
「……アズール」
掠れた声が漏れる。
視界に映った姿に、胸が締めつけられた。
灰色のウィザードハット。
漆黒へ染まった肌。
黒い髪。
背中では幾本もの触手が、生き物のようにゆっくりと揺れている。
もう、人間だった頃の面影はほとんど残っていない。
それでも。
帽子だけは。
あの日、花畑で笑っていた植物学者の頃と同じだった。
その帽子だけが、残酷なくらいに昔を思い出させる。
玉座には、ザ・スペクターが静かに腰掛けていた。
真紅のシルクハット。
黒い外套。
薄く組まれた脚。
その姿は王というより、舞台を楽しむ観客だった。
彼の膝元へ、アズールは自然な動作で身体を預けている。
それは命令された姿勢ではない。
何度も繰り返した結果、身体が覚えてしまった居場所だった。
スペクターの細い指が、何気なくアズールの黒髪を梳く。
その仕草だけで、アズールは嬉しそうに目を細めた。
「……そこにいるね」
不意に。
アズールがゆっくりと顔を上げた。
灰色の帽子の影から、霧の奥を見つめる。
まるで視線ではなく、背中の触手で空気そのものを感じ取っているかのようだった。
「隠れるのは下手だね、ツータイム。」
名前を呼ばれた。
それだけで、ツータイムの心臓は大きく跳ねた。
まだ覚えていてくれた。
まだ。
そう思った次の瞬間。
アズールはふっと笑った。
「隠れて見ているだけなんて、本当に惨め。」
その笑みは、昔の優しいものではない。
獲物を見つけた肉食獣の笑みだった。
「アズール……。」
震える声。
「帰ろう……。」
「君は……そんな場所にいる人じゃない……。」
「僕が悪かった。」
「全部、僕が悪かった。」
「だから……。」
「お願いだから。」
「その人から離れて。」
涙が零れる。
喉が締め付けられる。
ようやく会えた恋人は、自分の知らない誰かになってしまっていた。
アズールの視線はスペクターへ戻る。
「スペクター様。」
#bl注意
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甘えるように身体を寄せる。
黒い腕がゆっくりとスペクターの首へ回される。
「……お願いがあります。」
「聞こう。」
「口づけを。」
アズールは微笑んだ。
「彼に、見せてあげたいんです。」
スペクターは返事を急がなかった。
ただ、赤い帽子の影からツータイムを見つめる。
その視線は冷たい。
相手を敵として見る目ではない。
舞台の最後列に座る、一人の観客を見るような距離感だった。
「そうか。」
静かな一言。
長い指先がアズールの頬へ触れる。
顎を持ち上げる。
アズールは幸福そうに目を閉じた。
そして。
スペクターは、ごく自然にその唇を重ねた。
短く。
静かに。
しかし、その一瞬だけで十分だった。
ツータイムの世界が音を立てて崩れるには。
「……っ」
息が止まる。
指から力が抜ける。
ゴーストファイア・ダガーが石畳へ転がり、乾いた音を立てた。
「やめ……」
声にならない。
喉が閉じる。
「あ……アズール……」
アズールはゆっくりと振り返った。
頬にはまだ熱が残っている。
その熱を確かめるように、自分の唇へ指先を添え、小さく笑った。
「ああ。」
嬉しそうだった。
心の底から。
「見ていた?」
その一言だけで、ツータイムの胸は抉られる。
「お前が私にくれたものは、裏切りだった。」
アズールは一歩近付く。
「でも、この方がくださるものは違う。」
また一歩。
「安心。」
さらに一歩。
「救済。」
最後の一歩で、ツータイムの目の前まで来る。
灰色の帽子が影を落とした。
「そして。」
アズールは柔らかく微笑む。
「本物の愛。」
「違う……!」
ツータイムは叫んだ。
「違う、そんなものじゃない! あの男は君を利用してるだけだ!」
「利用?」
アズールは首を傾げる。
「ふふ。」
笑う。
「なら聞くけど。」
その瞳が細くなる。
「私を刺したのは誰?」
「……。」
「私を花畑に捨てたのは?」
「……。」
「泣きながらでも、この胸を貫いたのは?」
言葉が出ない。
出せるはずもない。
全部。
自分がやった。
アズールは満足そうに頷いた。
「ねえ、ツータイム。」
静かな声だった。
だからこそ残酷だった。
「お前は私を失った。」
「……。」
「でも。」
アズールはもう一度スペクターを振り返る。
その姿を見るだけで、自然と頬が緩む。
「あのお方は、私を拾ってくださった。」
その笑顔は狂気に染まりながらも、どこか幸せそうだった。
それが、ツータイムには何より苦しかった。
「あのお方は、私の全部。」
「私の世界。」
「私の神様。」
「だから。」
アズールは再びツータイムを見る。
もう怒ってすらいない。
憐れむことさえない。
ただ、終わったものを見る目だった。
「お前の入る場所は、もうどこにもない。」
ツータイムは膝から崩れ落ちた。
何か言おうとしても、声にならない。
手だけが震えながら伸びる。
その指先が届くより早く。
バキンッ――!
黒い触手が横薙ぎに走った。
身体が宙を舞い、大理石の床へ叩きつけられる。
息が詰まる。
肺から空気が押し出され、視界が白く弾けた。
アズールは動かない。
ただスペクターの胸元へ戻り、その外套へ静かに頬を寄せる。
まるでそこが世界で一番安心できる場所であるかのように。
「近付かないで。」
その声だけが、静かな儀式の間に響いた。
「お前の『愛』は、私にはもう呪いでしかない。」
霧がゆっくりと流れていく。
床に倒れたツータイム。
玉座に寄り添うアズール。
その二人を見下ろしながら、スペクターは口元だけをわずかに緩めた。
憎しみよりも。
復讐よりも。
人の心を壊すものがある。
それは、「もう必要とされていない」という、救いようのない現実。
その静かな絶望こそが、この夜、彼にとって最も美しい収穫だった。