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(まるで羽虫が飛び交うようだ)
喜雨《ネクガトー》の目の前で鉤のように曲がった細い針と霧雨のような細い糸が飛び交っている。その針をつまむ女、癒す者の手の動きを辛うじて認識できるだけで、指ですら残像しか見えない。針や糸を視認できないのもむべなるかな、というものだ。
雌を求めて雲雀の鳴く、ある初春の昼頃、フォルビア行政区の歴史ある城塞都市の街はずれに居を構える医院でのことだ。広い診療室の年経る壁に並び立つ薬品棚の品々が香っている。元は古びた屋敷を改装したもののようで、広間が区分けされた病床となり、趣ある離れさえも隔離病棟として利用しているようだ。
医院にしては妙に装飾の凝った赤い窓枠から薄い灰色の陽光が差し込んでいる。診療室まで響く雲雀の耳障りな鳴き声に集中を乱されることもなく、医院の主であるところの女医トゥカリーサは仕事をこなしていた。
トゥカリーサはどちらが患者か分からない青白い膚で、花でも愛でるように傷を見つめて、今にも鼻歌でも歌い始めそうな微笑みを浮かべながら、その神業を披露している。トゥカリーサもネクガトーと同様に医療者らしい清潔な衣服を身に纏った小ざっぱりした風采だが、医療騎士たるネクガトーのような装備は整えていない。
(これほどの腕前ならば、あの崇拝に近い敬意も頷けるというものだ)
針と糸は宙を舞い踊る蛇のように、逞しい男の脇腹にあいた幾つかの惨たらしい傷跡を塞いでいく。別用で訪れたものの急患がやってきて、咄嗟に助手を申し出たネクガトーだったが実際には何の役にも立たなかった。患者の男は先ほどまで悲痛な呻き声をあげていたがトゥカリーサの魔法の手捌きにネクガトー同様目を奪われ、痛みを忘れているかのようだ。
(一廉の人物と聞いてはいたが。斯界の最高峰、霊院が誇る医聖の中にさえもこれほどの技術を会得しているものはそういないだろうな)
屋根を修理していて足を滑らせ、地面に置いていた農具の上に落ちた男の傷跡は瞬く間に消え失せた。縫合跡もまるで分からない。初めからそうであったかのようにつるりとした肌を患者の男は不思議そうに撫で、触れた指を不思議そうに見つめる。
「ありがとうございます! 先生! 俺ぁ死んじまうかと思ったんだが」
「大袈裟なことを」トゥカリーサは微笑みを絶やさず、少しばかり赤く濡れた指を布で拭う。「それにまだ治ったわけではない。治りやすい状態にしただけだ。安静にしたまえよ」
「ええ、ええ、分かってますとも。でもずっと楽になりましたよ。俺が血い流してるってのに、かかあの奴、さっさと先生の所に行って戻って屋根を修理しろってんだから嫌になりますぜ。だが、まあ、安静にしなくちゃなんねえんだから仕方ねえってなもんで」
日に焼けた男は白い歯を見せてにやりと笑う。
「ああ、心配するな。屋根の修理くらいなら大丈夫だろう」
「そんなあ、嘘だろ、先生?」
ぼやく男を玄関へ見送り、トゥカリーサは診察と治療の際にも座っていた椅子へと戻り、ネクガトーの方へ向き直る。
「それで? わたしにいったい何の用だ? 見たところ、健康そのもののようだが」
(ああ、そうだった。すっかり忘れていた)
神業に呆けていたネクガトーは改めてトゥカリーサと対峙し、冷徹な眼差しを向ける。
「今の技術ですっかり確信を持ちましたよ。トゥカリーサ先生。これほどの縫合手術は類を見ないものです。この街どころか、霊院、いやシグニカ全土を探しても指の数です。つまり、あなたが一連の変死事件の犯人でしょう?」
「違うが、それで、わたしをどうするつもりだ?」
トゥカリーサは広々とした診察室を見渡す。先刻からネクガトーの他にも五人の医療騎士が囲むように並び立っており、神業に魅了されていたが、ネクガトーの咳払いで気を取り直した。
(この女ほどの技術がぼくにもあったならなあ)
「まさか自身の医院に軟禁されることになろうとはね」トゥカリーサはぼやくが、その表情にはまだ余裕があった。血の気の薄い唇の端が僅かに持ち上がり、血走った目の端が僅かに垂れ下がっている。
アグマニカの霊院の医療騎士たちに促され、トゥカリーサは薬品庫として利用されていた窓のない一室の、普段は薬品の調合をしていた机を背後に座らされていた。ネクガトーもまた医院のどこからか持ってきた椅子に座り、改めてトゥカリーサと向かい合う。二人の医療騎士がその後ろに控え、残りの三人は医院を調査している、押し込みさながらに。
「当然の処置ですよ」ネクガトーは何でもないことのように告げる。「この町の人々を恐怖に陥れている連続変死事件の容疑者に対してであれば」
トゥカリーサは首をすくめる。
(言い逃れのしようがないことは分かっているはずだがな)
ネクガトーはトゥカリーサの骨のように白い膚を見つめ、部屋に満ちた種々の薬品の匂いを嗅ぎ、話を続ける。雲雀はもう止んでいた。
「既に八人が死んでいます。その数もさることながら、その異様な遺体――いや、異様ではない遺体と言った方が良いですかね――の報告を受けて我々も調査に加わったという訳です。最後に見つかった犠牲者に関してはぼくも検死に加わったんですよ。報告によるとまだ若い漁師、ですね。彼が朝、仲間の漁師に発見された時、それはそれは多量の内臓が浮かんだ血溜まりの中で、それこそ中身を全て広げたかのような有様で亡くなっていたそうで。しかし僕を含め、何人かで徹底的に検死したものの、不思議なことにその遺体には一切の傷跡が無かった。もちろん中身もきちんと揃っていました」
相槌でも打つように即座にトゥカリーサは口を開く。
「ああ、よく知っているとも。彼を含め、八人全員、私も検死したからな。報告書はご覧になったんだろうね。君の言う通り、遺体に一切の欠損なし。つまり一人殺される度にもう一人以上が殺されている、と考えるのが筋だろう。不思議などない、と結論を出すならば、だが」
ネクガトーは肯うかのように頷いて答える。
「ぼくも初めはあなたと同じ結論に飛びつきましたが、あなたの噂を聞きましてね。町ではとても尊敬されているご様子。あなたの腕前にいたく心酔している者もいました。町の皆さんからあなたの働きぶりもよくよく聞きましたよ。正直なところ、大袈裟に言っているのだろうと思いましたが。ですから是非お会いしたい、そしてより詳しい知見を、と思ったのです」
「何も変わらんよ。報告書に書いたこと以上に分かったことはない。死因不明。それだけだ」
(白々しい。何かできるとすればお前しかいないんだよ)
「先ほどの腕前を見て、ぼくは確信しましたよ。巧みな技術、適切な魔術、あるいはあなたならばらばらにした死体を元通りに戻せるのではないか、とね」
トゥカリーサはわざとらしく溜息をつく。
「買い被り、そして言いがかりだな。私に、そして誰にも、そんなことできやしない。それだけだ」
「まあ、聞いてください。既に殺人事件などどうでも……というと語弊がありますが、ぼくの責任のもと判断するに霊院としては別の案件へと発展しているのです」ネクガトーはしばらく反応を待つが、トゥカリーサはただじっと耳を傾けて話の続きを待っているだけだ。「あなたはその医療技術をどうやって会得したのか、それが知りたい。もちろん本来の仕事をこなさねば我らの沽券に関わりますので、何のために彼らを殺したのか、も知りたいですが。あなたの腕前と関係があるのですか? それとも、あまり褒められたことではありませんが、実践的な訓練、稽古、……まあ、つまり平たく言えば人体実験でしょうか?」
(たとえ技術があっても、倫理に悖ればまともな居場所は得られないが、神の如き技術ならば話は違うのかもな)
トゥカリーサは過労のせいか不穏な目つきでネクガトーを真っすぐに見つめる。
「わたしは一人の医療者として、より多くの人々を怪我や病の苦しみから救いたいだけだ」
「ぼくも、ぼくの部下も、霊院にて医療に従事する全ての者たちも同じ思いですよ」
(志だけでは一隊を任されるほどの地歩には至れないがな)
そこへ医院を調査していた部下の一人が戻ってきてネクガトーに耳打ちする。
「地下室を発見しました」
「案内してください」
ネクガトーは二人の部下を見張りに残して薬品庫を後にする。
漆を溶かし込んだような闇が地下室へと続く階段を満たしている。念のために魔法の灯火で照らしつつ、ネクガトーは勇を鼓し、妖しげな明かりを頼みに地下室へと降りて行く。後ろを三人の部下がついてくる。
波打つような魔法の灯火に照らされた地下室には、予見していたような凄惨な殺人現場も、血生臭さもない。ここにも多少薬品の匂いがあるが、紙と墨が勝る。
備え付けの燭台にも火を灯し、四人で一通り地下室を巡ると部下の一人がただ「隊長!」と鋭い声を発する。部下が走り行く先、最奥には手術台があり、そして一糸纏わぬ女が寝かされていた。つるりとした額にほっそりとした面差しで、ネクガトーの妖光に照らされた和毛を帯びた肌は蝋を塗ったかのように白い。均整の取れた肢体はただその場に据えられたかのように婀娜っぽさもなく力なく横たわっている。
部下が手早く脈を採り、呼吸を確かめる。どうやら眠っているだけのようだ。別の一人が外套を脱いで掛けてやり、眠る女を起こそうと揺り動かす。しかし反応は一切ない。とても頑なで穏やかな寝姿だ。
「緊急性は無さそうですね。あなたはその女性を看ていてください」と女を揺り動かす部下に指示する。「他はこの部屋を調査しましょう。こうして隠されているんです。きっと何かあるのでしょう」
二人の部下は並び立つ棚を当たる。ネクガトーは汚れ一つない手術台のそばの古びた机に広げられた書類に目を通す。主に診療録だ。何人かの手術について記録されている。
隠されていた割には真っ当で穏当な医療研究だ。様々な怪我や病を治療している。たった一人で行えるとは思えない大手術もあるが。
(あの女ならできるのだろうな。羨ましいことだ)
奇跡的な医療だが、非道な人体実験等が行われた様子もない。とはいえ医療騎士が町に来たことを知り、記録を抹消する時間はあったかもしれない。ネクガトーの目の前にあるのはトゥカリーサの存在を知らなければ唾棄しかねない超常的な医療の記録だ。まるで未知の土地の冒険日記でも読んでいるかのような好奇心を刺激され、次々に診療録を見ていく。
奇跡的だが奇跡は起きていないのだと理解させられる。あらゆる高等医療技術が、そしてネクガトーも知らない未知の医療技術が駆使され、しかもトゥカリーサ以外が読むことも想定していたかのような丁寧さで記録されており、傷病に対するトゥカリーサの勝利を納得させられた。常識的に考えれば誰もが諦めるような、首が切断された男や心臓が破裂した女、右半身を失った赤子やあらゆる疫病に塗れた老人がトゥカリーサの手によって生還している。
(怪我や病どころか、死さえも)
ネクガトーは思わず自嘲するように苦笑する。そしてふと静寂が地下室を満たしていることに気づき、顔をあげた。手術台に眠っていた女がいない。女を看病していたはずの医療騎士の姿もない。ネクガトー同様に資料を閲しているはずの部下たちも霞のように消えていた。
ネクガトーは魔法の灯火をかざしつつ手慣れた様子で抜刀する。
(あの女もトゥカリーサの仲間だったか)
どの陰から誰が飛び出してきても対応できるよう、丸太橋でも渡るように慎重に歩を進め、無事に地下を出る。すぐに目に入ったのは共に地下室に降りていた三人の部下たちが倒れている姿だ。周囲に脅威がないことを確かめつつ、容態を確認する。死んではいない。薬か呪いかはネクガトーにも分からなかったが、体が麻痺しているようだ。意識はあるようだが意思疎通は出来そうにない。
不意打ち待ち伏せを警戒しつつも、すぐにトゥカリーサが軟禁されているはずの薬品庫へと向かう。開け放したままの扉に気づくと歩を緩め、切っ先に神経を集中して慎重に覗き込む。最初に目に飛び込んできたのは倒れ伏したトゥカリーサだった。
二人の部下も同様に倒れ伏しており、麻痺しているだけだということを確認する。他には誰もいない。扉を閉め、トゥカリーサの元へ近づく。触れると氷のように冷たかった。脈拍や呼吸を確かめるまでもない。
(だとすれば、どういうことだ? あの女がやったのか?)
その瞬間、ネクガトーの手首がトゥカリーサの冷たい手につかまれ、瞬く間に全身を冷気が駆け巡った。部下たちがどのような魔術の犠牲になったのか察する。ネクガトーは力を失って膝をつく。手足の末端は凍り付いたようで蟻走感に苛まれる。
「その体は何です? それがおまえの成果ですか?」震える唇でネクガトーは何とか言葉を紡いた。「不死の研究の成果というわけですか?」
(それだけなら、ひた隠しにする必要などない。アグマニカの霊院含め、多かれ少なかれどこでも行われてきたことだ。その研究のために健康な人間を殺す屑はそうそういないが)
トゥカリーサはおもむろに身を起こし、ネクガトーの部下の方へと歩いていく。
「確かに怪我も病も老いさえも追い払ったわたしだが、死だけはどうにもできなかった。しかし別に死を治療しようとは思わん。死は救いだからな」
「死が、救い?」喘鳴のあわいに何とか言葉を吐き出す。
ネクガトーの体は部下たちに比べれば力を保っていた。膝をつきつつも体を支え、呂律は回らないが言葉は出てくる。
「そう、そして生こそが真の苦しみ、煩わしさなのだよ。わたしもきみたちと同様に多くの苦しみから救ってきたが、己の無力さばかり実感させられてきた」トゥカリーサは部下の一人の体をネクガトーの元へ引きずってくる。今の間に事切れたようだった。その顔をネクガトーの方に向ける。「だが、最後には、わたしが救えなかった者たちすら死によって救われる。見ろ。多くの死は、死への過程は痛ましく、苦しいものだろうが、今まさに苦しんでいる死者などいなかろう?」
「じゃあ、何です? おまえは、ただ殺したのですか?」
没義道な仕打ちにネクガトーは心中に怒りを募らせるがそれを表す方法は何もなかった。
トゥカリーサは心底おかしなことを聞いたかのように噴き出し、高笑いする。
「わたしは医療者だよ。死の価値と同様に生の価値もよく知っている。無闇に殺したりはしない。わたしの目的は生の苦しみ、煩わしさから解放することだ」
「死なせることなく、生の苦しみから救う?」
「そう。心臓が自動的に拍動するように、労することなく生きることができるようにする。何の苦しみも厭わしさもなく、肉体に営みを送らせるんだ。魂は堅固な揺り篭の中で心地よい生を送る。不死ならぬ不生だな」
(地下室の女か)
「じゃあ、あの女が成果というわけですか」
「何? ミヨルが、地下室の女がどうした?」
「さあ、いつの間にか消えましたよ」
「そうか!」トゥカリーサがその日一番の喜ばしい晴れやかな顔になる。「きっとそうだろう! 営みに、生活に、当たり前の人生に帰ったのだ! ようやくだ! とうとう道筋がついたのだ!」ネクガトーはとうとう仰け反るように倒れ、天井が視界に広がる。トゥカリーサがネクガトーを覗き込み、赤子を抱く母のように優し気に微笑む。「きみも今救ってやるからな」
(体が。目が霞んで)
五人の医療騎士とトゥカリーサが医院の戸口の前に並び立ち、トゥカリーサは重い音と共に扉を施錠する。
「それで? わたしの処遇はどうなるんだ?」
「結局魔術は道具ですからね」とネクガトーは呟く。「未知の医療魔術に関してはぼくの一存で判断できませんから。霊院で審議するんです」
「お手柔らかに頼むよ」
「ぼくに言われても困ります。さあ、行きますよ」
医療騎士たちはトゥカリーサを挟んで医院を出発する。殿を務めたネクガトーはふと立ち止まり、振り返ると感慨深そうに古色を帯びた医院を眺める。全体に色褪せ、所々が傷み、匍匐植物が這い登りつつあった。
( )
そして見えない何かを振り切るようにネクガトーは部下たちの後を追う。