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ふんわりとした、優しい香りを眠っている月子の鼻腔が捉えた。
慌てて起き上がるが、それは、台所から流れてくる出汁の香りだった。
二代目にまた先を越されたかと、ふと隣を見ると、お咲も居ない。
居間も、台所も、ついでに岩崎の部屋もどことなく騒がしい。正しくは、複数の人の気配がしている。
月子は、何事かとつい岩崎の部屋へ続く襖をそろりと開けた。
「ああ、月子様。おはようございます。まあ、何時ものごとく京介様の寝起きが悪いと言いますか。昨夜は、布団でお休みにならなかったようですねぇ……」
口を濁す、男爵家執事の吉田が、なぜかいる。
京介様と、岩崎へ呼びかけているが、当の岩崎は、鉛筆を握りしめたまま小机に突っ伏して眠っていた。
土壇場まで何か、演奏会の準備を夜通し行っていたのだろうか。
月子は、先に休んでいた自分を申し訳なく思いつつ、吉田の呼びかけを拒む岩崎に目をやった。
「先に、演奏会様のタキシードの準備をした方がよろしいかもしれませんね。ああ、お咲は居間で女中に着付けさせております」
朝の支度と、月子とお咲の支度係として女中を何人か連れて来ていると吉田は言った。
台所から、女中らしき女の笑い声に続き、田口屋さんったらと、二代目をちゃかす声がする。
その二代目も、劇場へ案内するとか、揃って行けばいいとかなんとかで、岩崎の家へ昨夜も泊まり込んでいた。
中村は、岩崎に借りた衣裳を持って下宿に帰ったのに、帰りたくないのかという岩崎の言われようにも、家よりここの方が劇場に近いとか、開き直るようなことを言い、岩崎を呆れさせたのだが……。
どうやら、女中達と台所にいるようだ。
月子の起き抜けの頭は少し混乱し、つい吉田を見た。
「ああ、男爵家にも、こちらの合鍵がございましてね。何もおかしなことはしておりません。ご安心を。私どもは、皆様のお支度の準備に参ったのです。まあ、着飾らないといけないわけですから」
吉田なりの冗談なのか、妙に軽い口振りに、月子は、どう答えれば良いのか迷い頷くしかなかった。
そんな、突然の来客、もとい、助っ人の来訪に月子は、おろおろしつつ、なすがまま、演奏会へ向かうための支度を居間でお咲と共に女中達へ任せるのだった。
途中、おにぎりが、台所から運ばれて来て、月子達は簡単な朝餉を摂った。
お咲は、本番ということが分かっているのだろうか、少し緊張ぎみに、それでも、おにぎり太郎の唄を作り出して唄っていた。
「はいはい、お咲、おにぎり、にぎにぎは、もういいから、お化粧しますよ!」
舞台に立つのだからと、お咲は持ち込まれている鏡台の前に座らされ、軽く白粉をはたかれて、紅をさしてもらっている。
はい、と、仕上がりの合図に、お咲は、無言のまま、鏡台を覗きこみ、自分の姿を凝視していた。
「月子様もこちらへ」
次は化粧だと白粉を紅を持った女中が待機している。
月子も言われるままに、化粧され 、身支度は完璧に整った。
「ご準備はできましたでしょうか?」
閉じられていた障子の向こう、廊下から吉田が問いかけてくる。
女中が返事をし、障子が開けられた。
廊下には、タキシードとかいう、黒い色の洋装姿の岩崎がいた。
いつも着ているものより細身のそれは、岩崎の長身を更に際立たせている。
「用意できたようだな」
何かぶっきらぼうな口振りなのだが、月子は、そんなことより、岩崎の立ち姿に見惚れてしまった。
威風堂々。何より、上品さが漂よっている。
一方、岩崎は、化粧を施しよそ行きの着物に身を包む月子のことなど目もくれす、ではなく、そっぽをむいて、
「準備できたのだな」
などと、言っている。
「えー!京さん!その言いぐさはなんだよぉ!月子ちゃん、めちゃくちゃ綺麗じゃないかっ!誉めてやりなよぉ!なぁ!月子ちゃん!」
二代目が、しゃしゃり出て、あれこれ言っているが、月子は、真っ赤になって俯いてしまう。
岩崎が、そっぽを向いているからだ。
きっと……それは、支度を気に入ってくれたのだろう。そう感じた月子の胸は、うるさいほどに、トクトクと鳴った。