三つ巴とはいえ、それぞれの感情と思惑には勾配があり、必ずしも均衡は生まれない。
ユカリの心は沸き立ち、目の前の聖女アルメノンの持つ魔導書を奪うという思惑には過ぎた熱を発している。
シャリューレの内の冷たい感情もまた、同じ魔導書所有者であってもレモニカの友人とレモニカの姉では熱量に差がある。
二人の視線は聖女アルメノンとその加護官たちへと向かう。
初めに動き出したのは剣を持つ三人の内の誰でもなく、三十人の加護官たちだった。聖女の指示もなく抜刀し、その全てがよく訓練された連携を成し、目にも止まらぬ速さでユカリへと躍りかかる。ユカリがそれに気づくより先に大地の剣が加護官の剣を防いだ。リンガ・ミルの時と同様に主を守る力も備えており、さらには敵に斬りかかる攻勢の意思も示している。
加護官の剣は重く、速いが、シャリューレほどではない。さらに三つの剣を弾き返し、ようやくユカリは魔法少女の杖を持ち上げ、空気を噴射して飛び上がる。杖を消し、再び足元に呼び出して乗る。
「すごい芸当だね。大道芸人みたいだ」とアルメノンが拍手して言い、加護官たちを叱る。「ほら、剣は届かないし、届いても効かないよ。君たちも見上げてないで追い打ちかけろ」
魔法少女に変身し、加護官たちの放つ魔術や呪いを避けながら旋回する。その獲物を狙う鷹のような紫の眼差しはアルメノンの持つ溟海の剣に注がれている。
「怖い顔」とグリュエーに言われ、ユカリは少しだけ冷静さを取り戻す。
「モディーハンナは?」
「グリュエーには気づいたみたいだけど逃げない。身を隠しただけ。やっぱり海の方に吹き飛ばす?」
「そうだね」と言ってユカリは首を横に振る。「いや、やっぱりやめよう。他に気づかれるとまずい。身を隠したならひとまず良しとして、魔導書が一か所に集まらないように立ち回ろう」
シャリューレが動き出したとユカリが気づいた時には、既にアルメノンと鍔ぜり合っていた。シャリューレの激しく獰猛な天空の剣をアルメノンの溟海の剣は防ぎきっている。しかし瞬く間もなくアルメノンは倒れ込み、辛うじて溟海の剣をつかんでいるという格好だ。
結局のところ三つの剣を握って得られる剣技は元の技量に上乗せしている形なのだろう、とユカリは推測する。シャリューレもまた魔導書を、天空の剣を使っている以上、誰であってもその圧倒的な力の差に組み敷かれざるをえない。
「いいからお前らはユカリちゃんを何とかしろよ!」とアルメノンが怒鳴る。
聖女のもとに戻ろうとした何人かの加護官が慌てふためく。今までは何よりも優先して聖女を守ってきたのだろう。相反する命令に狼狽えている加護官たちの隙を突いてユカリは元の姿に戻り、急降下し、杖の先から大量の水を噴射する。察したシャリューレは飛び退く。凍らせてしまえば自分の頭上に氷塊を降らせることになるからだ。水はアルメノンだけに降り注ぐ。
唯一短剣である大地の剣をしっかりと握りしめて構え、ユカリはずぶ濡れのアルメノン目掛けて落下する。溟海の剣の技量に防がれるかもしれないが、防がれるだけだ。この魔導書が防ぐのは技であり、力や重さはどうにもならない。
それを察したのかどうかは定かでは長いが、アルメノンは「任せた!」と言って溟海の剣を投げる。
天空の剣は宙に弧を描き、受け取ったのは加護官ではなく、シャリューレだった。
アルメノン以外、誰にもその理由が分からない。シャリューレ自身も困惑している。
落下するユカリは混乱する頭の手綱を握って、再び杖を踏みつけて態勢を立て直し、追って来た加護官たちから逃れる。
「どういうこと!?」と誰にでもなくユカリは言った。
「あの人が二本持ったらもうどうしようもないんじゃない?」とグリュエーが囁く。
ユカリもその通りだと思った。しかし魔導書を譲った理由が分からない。魔法少女憎しでシャリューレの方がましだと考えた、なんてことがあるわけがない。
「さあ、渇望に潜む豊饒! 私のシャリューレ!」加護官の手を借りて立ち上がったアルメノンは濡れた髪をかき上げて、愛しい子に対してするように命じる。「その名の主の命ずるままに。ユカリから魔導書を奪い取ってくれ」
シャリューレは解せない目つきでアルメノンを見、ユカリを見上げる。そして、しかし天空の剣を振り上げた。剣の魔力の命に従って強烈な風が吹き下ろし、力尽くでユカリの体を真っ逆さまに地上へ落とす。
杖で空気を噴射して抗い、さらにはグリュエーに支えられて、なおユカリの体は地面に叩きつけられた。強烈な痛みに呻きを漏らしつつも、すぐに体勢を立て直そうとするが、それより先に、ぐいとユカリを持ち上げたのはユカリの右手が握る大地の剣だ。
ユカリの背後から振り下ろされたシャリューレの一撃を、大地の剣は主を守るべく受け止めた。しかしユカリは前腕をシャリューレに踏みつけられる。それでも大地の剣は手首の動く範囲でユカリを凶刃から守り、シャリューレの足に斬りかかろうとする。
ユカリは痛みに歯を食いしばり、無我夢中で左手に握った杖を振りあげるが、軽々と弾き飛ばされる。レモニカの悲鳴が聞こえた。グリュエーがシャリューレを吹き飛ばそうと激しい唸りをあげているが、天空の剣の魔力には敵わないようだ。
ユカリは何とか踏みつけられた右手を引き抜こうとする。その時、それが折れる音がした。踏みつけられた前腕の骨が砕けて折れた。声にならない悲鳴が喉の奥から迸る。それでも大地の剣を離さない自分の手が、まるで自分の手ではないように感じられた。何か別の生き物が右腕の先で暴れている、かのようだ。
ユカリは意識とは無関係な反射で再び左手につかんだ杖でシャリューレの足を打とうとするが、やはり天空の剣と溟海の剣の二振りに容易く弾かれた。
しかし噛み締めたような小さな悲鳴を漏らしてシャリューレが飛び退く。ユカリの前腕を踏み砕いたシャリューレの左足から血が流れていた。前腕が踏み砕かれたために手首以上の可動域を得た大地の剣に切り裂かれたのだった。
ユカリは朦朧とした意識を辛うじて叩き起こし、自分のものではないかのような痛む体を立ち上がらせ、グリュエーに背中を押されてヘルヌスに捕まっているレモニカのもとへ走る。それ以上の速さで追い縋るシャリューレの体を突風が押し倒す。グリュエー、魔法少女の第五魔法、そしてモディーハンナが林から仰いだ『神助の秘扇』の力が合わさって、天空の剣の風を凌駕したのだった。
左手に持ち替えた大地の剣はヘルヌスの剣をあっさり叩き落とし、レモニカ蛙を解放する。ユカリは焚書官姿に変じたレモニカとともに林へ飛び込み、モディーハンナと合流した。追ってくる加護官を尻目にグリュエーに持ち上げてもらい、沖に待つ船へと急ぐ。
グリュエーを帆に受けた船は錨を引き上げながら動き出し、全速力以上の速さで海を逃走する。しかしそれが間違いだった。今追いかけてきている相手は海そのものを携えているようなものだ。
静まり返っていた海が途端に荒れ狂い、大波が押し寄せる。
「グリュエー。大丈夫?」ユカリは大きく広がった帆を見上げて言う。
「うん。任せて」とグリュエーは答え、帆柱を軋ませ、大波をかわしてみせた。
「大丈夫なわけがあるものですか!」とレモニカが怒鳴る。「モディーハンナ! 扇を!」
ユカリは腕を折られたことを思い出して、見下ろすと青黒く腫れあがった肉塊が右腕にぶら下がっていた。未だに大地の剣を握りしめている。もはや腫れと麻痺で離すこともできないようだ。途端に強烈な痛みが存在することに気づき、ユカリは呻き声を上げて倒れ掛かり、レモニカに支えられた。
モディーハンナが扇を振るとユカリの右前腕は見る見るうちに縮んでいき、元の色に戻り、その活力を取り戻した。
ユカリは不思議そうに己の右腕を持ち上げる。痛みまで消え去った。全てが質の悪い冗談だったかのようだ。本当に痛かったのかさえ既に虚ろになっている。痛んだ記憶と痛みは違うのだと分かる。先ほどまでの騒ぎが内容を思い出せない悪夢のようで、ユカリは何か間違ったことをした気にさえなった。こんな風に怪我が治っても良いのだろうか。良いに決まっているが、それくらい実感のない出来事だった。
さっきまで上気していたレモニカが、今度は鉄仮面の下から涙を流してユカリにすがり、「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい」と何度も謝る。
深く考える余裕もなくて「何でレモニカが謝るの?」とユカリは尋ねるが、大風のせいかレモニカの耳には届かないようで、ただただ謝罪を繰り返していた。
ユカリはレモニカの背中を撫でつつ海の様子を眺める。荒れ狂ってはいるが、ただそれだけだ。船を狙って大波を差し向けたのは最初の一回だけだった。溟海の剣にせよ、天空の剣にせよ、相手の位置を把握するような力はないので、ただ大雑把に嵐を起こすことしかできないのだろう。それもシャリューレたちが船に乗って追って来るまでの話ではあるが。
「嵐を抜けた後、すぐにまた陸へ戻りましょう。大地の剣がこちらにあるだけまだましです」
ユカリの提案はモディーハンナの指示となり、グリュエーに支えられた船は波濤を蹴って突き進む。
ユカリはシャリューレの顔が、その表情がずっと頭の中にこびりついていた。ユカリを痛めつけながら、しかしその心の内で苦しみもがいていることがありありと読み取れたからだ。
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