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就職をきっかけに、岡野みなみはこの春から念願の1人暮らしを始めた。
会社は自宅から車で通勤可能な距離にあったが、常々「一人暮らし」を経験してみたいと考えていた彼女は両親を説得し、今回その願いを実現したのだった。
会社は県下トップクラスの大手ゼネコン。新人のみなみの配属先は営業課。営業職たちのサポートをするのが主な仕事だった。
すでに入社前に研修を受けてはいたが、いきなり実地は難しいだろうということで、数か月間は先輩社員が指導役として新人一人一人につくことになっていた。みなみの指導役は「白川遼子」という名の先輩社員だった。
彼女とこれから対面するという時、みなみは相当身構えていた。なぜなら、これまでに、先輩社員にいじめられたという新入社員のエピソードを聞くことが多かったからだ。
指導役のその人がそういうタイプの人ではありませんようにと願いながら、みなみは課長に伴われて遼子の元へ挨拶に向かった。
すると、がちがちに緊張しているみなみの前に、彼女は穏やかな笑顔で手を差し出した。
「白川遼子です。これからよろしくね」
「は、初めまして。岡野みなみです。どうぞよろしくお願いいたします」
みなみはおずおずと彼女の手を握り返した。
「岡野さん、ね。下の名前、みなみさんっていうんだ。素敵ね」
ふふふと笑う遼子はとても可愛らしい人で、みなみの不安の一つはあっという間に消えることとなった。
みなみが遼子に打ち解けるまで、時間はかからなかった。
彼女が素敵な人だったことはもちろんだが、一人っ子のみなみは姉という存在にずっと憧れていた。そのせいもあっただろう。いつしかみなみは、彼女を「遼子さん」と下の名前で呼ぶようになっていた。
こうして、優しいけれど厳しい先輩の指導を受けながら、みなみは奮闘する毎日を送っていたが、四月も終わりに近づいた頃だった。延び延びになっていた、みなみたち新入社員の歓迎会が開かれることになった。
当日は、店の一間を借り切っての飲み会となった。
総勢およそ三十名といったところだろうか。部内のメンバーのほとんどが参加している。
歓迎会は、ほぼ予定通りに始まった。
料理も酒も程よく行き渡り、場が賑わい出した頃、すらりと背の高い男性が颯爽と姿を現した。
みなみには見覚えがなかった。彼の額には、やや長めの前髪が影を落としている。そのおかげで目元がはっきりとは見えない。しかし、その人がまとう空気感から、イケメンにカテゴライズされる人に違いないとみなみは勝手に決めつける。
絶対に世界が違う人だ――。
みなみの対面に座っていた同期の宍戸が、突然勢いよく立ち上がった。
「補佐、お疲れ様でした!」
「補佐」と呼ばれたその人は、宍戸の声に振り向いて軽く片手を上げた。
それをきっかけに、他の社員たちもその男性に声をかけ始める。
彼は一人一人に応えながら、部長が座る席へと近づいて行った。
すでに上機嫌な様子の部長が、彼の肩を軽くたたいているのが見えた。
みなみは隣に座る遼子に訊ねる。
「今来られたあの方、どなたですか?」
ほろ酔い加減でくつろいでいた遼子は、みなみの視線をたどった。目元を緩めて答える。
「山中補佐ね。正確には『部長補佐』。大きな案件を抱えていたから、この何か月か、ほとんど毎日外を飛び回っていたのよね。だから初めて会うっていう新入社員は、たぶん岡野さんだけじゃないと思うわ」
「ふぅん。お忙しい方なんですね」
「あの人に興味あるの?」
宍戸がみなみと遼子の会話に割り込んできた。にやにやしながら身を乗り出してくる。
「山中部長補佐、短くしてみんな補佐って呼んでるんだけど、社長からも一目置かれているらしいよ。以前関連会社にいたらしいんだけど、社長があの人の仕事ぶりにほれ込んで、自らヘッドハンティングしたって話もある。いずれは役員まで上り詰めるんじゃないか、なんて噂もあるみたいだよ。そんなだから、接待だとか、記念パーティーだとか、色々と引っ張り出されることも多いらしくてさ。見た目があんなだろ?その場にいる女性たちの目はあの人に釘付けだってさ。すごいよなぁ。仕事ができて、かっこよくて、女性にもモテて。まったく羨ましいよ」
みなみはグラスを両手で持ちながら相槌を打つ。
「へぇぇ……。すごい人なんだ。そういう人って、ほんとにいるんだね」
宍戸が意味ありげな目でみなみを見る。
「やっぱり岡野もあぁいう人がタイプ?」
「え?!」
飲みかけていたビールを危うく吹き出しそうになり、みなみは慌てて口元をハンカチで覆う。宍戸にあきれ顔を向けた。
「いきなり何?」
「だって、さっきからずっと、補佐のこと、目で追ってるからさ。もしかして好きなのかな、って思って」
「やめてよ」
みなみは即座に否定した。
「顔と名前を覚えようとしていただけです」
宍戸は唇を尖らせた。
「なによ」
「もしかして自覚ないの?てっきりそうなのかな、と思ったんだけどな。でも、山中補佐なら仕方ないよな。岡野ってそういう免疫が全然なさそうだし、あの人に堕ちるのなんかあっという間だろうな」
「ちょっと、まさかの絡み酒?もう酔っぱらってるの?」
みなみは苦笑しながら、空になっていた彼のグラスにウーロン茶を注いでやった。
宍戸はそのグラスに手を伸ばし、ぐいっと中身を飲み干す。
その時、笑いを含んだ声が頭上から降ってきた。
「今年の新人同士は仲がいいんだね」
みなみと宍戸は慌てて姿勢を正し、声を揃えて言った。
「お疲れ様です」
「ここ、お邪魔してもいいかな?」
「もちろんです!」
みなみは宍戸と目を合わせる。
『まさか、今の聞かれた……?』
『どうだろ……?』
聞かれていなかったとしても、話題にしていた本人が目の前にいるというのはどうも気まずい。みなみは目を伏せたまま、テーブルの上を急いで片付けた。
「ありがとう」
山中から礼の言葉をかけられて、みなみは顔を上げた。途端に息を飲む。
社長から一目置かれているすごい人だと宍戸から聞いた時は、どれほど厳しく冷やかな人なのかと思った。遠目で見た時にもそう思っていた。ところが彼の笑顔は反則級で、相手の警戒心を解いてしまうかのように柔らかい。
いや、実はこれこそが営業用の顔というものなのかもしれないと、みなみは密かに気を引き締める。
「補佐、お疲れ様でした。ビールでいいのかしら?」
ふんわりとした笑顔で、遼子が山中に声をかけた。手には新しいグラスとビールの瓶を持っている。いつの間にか注文してくれたいたらしい。
「ありがとうございます」
軽く頭を下げる山中に遼子はグラスを手渡し、ビールを注いだ。
「ところで、彼女は白川さん直属の新人さんですか?」
山中の問いかけに、遼子は笑って頷いた。
「えぇ。岡野さんといって、とっても頼りになるのよ」
遼子の誉め言葉に照れ臭さを感じながら、みなみは居住まいを正し、自己紹介するために山中に向き直る。
「岡野と申します。今は遼子さんにご迷惑ばかりかけていますが、頑張りますので、よろしくお願いいたします」
「こちらこそ、よろしくね」
「あ、ありがとうございます」
みなみは慌てて顔を伏せた。整った面に浮かんだ彼の笑顔が眩しすぎて、直視できない。
遼子の声が聞こえる。
「補佐、ビール、もう少しいかがです?」
「はい、それじゃあ頂きます」
ちらりと目を上げると、山中がグラスを差し出したところだったが、その横顔が小さく歪んだように見えた。どうかしたのだろうかと思ったところに、山中や遼子目当てで人が集まってきて、その場は一気に賑やかになった。おかげで、山中の表情の変化をじっくりと考える暇はなく、みなみもまた場の賑やかさに飲まれて、いつのまにかそのことを忘れていた。
歓迎会は一次会だけでは終わらなかった。
メンバーのほとんどが二次会へ流れる空気となったが、遼子はみんなに引き留められながらも、見事なくらい軽やかな笑顔でそれをかわして帰って行ってしまった。
みなみはというと、宍戸から半ば強引に二次会へと引っ張られていった。
今日は家に帰って早く足を延ばしたい気分だったが、これも会社人としてのお勤めの一環かと早々に諦めた。楽しそうな他の同期たちを横目に見ながら、みなみは大人しくちびちびとワインに口をつけていた。
「そろそろお開きにするか」
誰かの声をきっかけにして、ようやく皆それぞれに帰り支度を始める。ところが、さらに三次会へ行こうなどと言い出す強者たちが現れた。