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就職をきっかけに、私はこの春から念願の1人暮らしを始めた。
会社は自宅からでもなんとか車で通勤できる距離にあった。けれど、常々「一人暮らし」を経験してみたいと思っていた私は両親を説得し、その願いを実現したのだった。
会社は県下トップクラスの大手ゼネコン。新人の私の配属先は営業課。営業職たちのサポートをするのが主な仕事だった。
すでに入社前に研修を受けてはいたが、いきなり実地は難しい。そのため数か月は、一人ひとりに先輩社員がついて指導してくれることになっていた。私の指導役は、白川遼子さんと言った。
彼女との対面の時、私はかなり身構えていた。これまで小耳に挟んだことのある『新入社員あるある』では、先輩にいじめられたというエピソードを聞くことが多かったからだ。
私を指導してくれるその先輩が、そういうタイプの人ではありませんように――。
私は課長に連れられて、どきどきしながら彼女の元へ挨拶に向かった。
すると案に相違して、彼女は穏やかな笑顔で手を差し出したのだ。
「白川遼子です。これからよろしくね」
「初めまして。岡野みなみです。どうぞよろしくお願いいたします」
私はおずおずと彼女の手を握り返した。
「岡野さん、ね。下の名前、みなみさんっていうんだ。素敵ね」
そう言ってふふふと笑う彼女は、とても可愛らしい人だった。
私の不安の一つは、あっという間に消えた。
私が彼女に打ち解けるまで、時間はかからなかった。彼女が素敵な人だったことはもちろんだけど、私が一人っ子で姉という存在に憧れていたせいもあっただろう。私は彼女のことを「遼子さん」と下の名前で呼ぶようになっていた。
優しいけれど厳しい先輩の指導を受けながら、私は奮闘する毎日を送っていた。
そんなある日の、四月も終わり近くなった頃だった。延び延びになっていた私たち新人の歓迎会が開かれることになった。
いい機会だと思ったのは、私だけではなかったと思う。なぜなら営業職は外出が多く、名前どころかまだ顔を見たことがない人もいたからだ。
当日は、店の一間を借り切っての飲み会となった。
総勢およそ三十名といったところだろうか。ざっと見渡してみたところ、部内のメンバーのほとんどが参加しているように見えた。
歓迎会は、ほぼ予定通りに始まった。
料理もお酒も程よく行き渡り、場が賑わい出した頃、すらりと背の高い男性が颯爽と姿を現した。
見覚えがなかった。やや長めの前髪が額に影を落としている。そのおかげで目元ははっきりと見えなかったが、その人のまとう空気感からなんとなく、イケメンにカテゴライズされる人に違いないと決めつける。
絶対に世界が違う人だ――。
そんなことを思っていると、私の対面に座っていた同期の宍戸が勢いよく立ち上がった。
「補佐、お疲れ様でした!」
その人は宍戸の声に振り向くと、軽く片手を上げた。
それがきっかけとなって、他の社員たちもその男性に声をかけ始めた。
彼は一人一人に応えながら、部長が座る席へと近づいて行く。
お酒が入って上機嫌な様子らしい部長が、彼の肩を軽くたたいているのが見えた。
私は隣に座る遼子さんに訊ねた。
「今来られたあの方、どなたですか?」
「え?」
ほろ酔い加減でくつろいでいた遼子さんは私の視線の先をたどり、目元を緩めた。
「山中補佐ね。正確には部長補佐。大きな案件を抱えていたから、この何か月かはほとんど毎日外を飛び回っていたのよね。だから初めて会うっていう新入社員は、たぶん岡野さんだけじゃないと思うわ」
「ふぅん。お忙しい方なんですね……」
「あの人に興味あるの?」
宍戸が私たちの会話に割り込んできた。にやにやしながら身を乗り出してくる。
「山中部長補佐、短くしてみんな補佐って呼んでるんだけど、社長からも一目置かれているらしいよ。以前関連会社にいたらしいんだけど、社長があの人の仕事ぶりにほれ込んで、自らヘッドハンティングしたって話もある。いずれは役員まで上り詰めるんじゃないか、なんて噂もあるみたいだよ。そんなだから、接待だとか、記念パーティーだとか、色々と引っ張り出されることも多いらしくてさ。見た目があんなだろ?その場にいる女性たちの目はあの人に釘付けだってさ。すごいよなぁ。仕事ができて、かっこよくて、女性にもモテて。まったく羨ましいよ」
私はグラスを両手で持ちながら相槌を打った。
「へぇぇ……。若く見えるけど、すごい人なんだ。そういう人って、ほんとにいるんだね」
宍戸が意味ありげな目で私を見た。
「やっぱり岡野もあぁいう人がタイプ?」
「え?!」
飲みかけていたビールを危うく吹き出しそうになった。私は慌てて口元をハンカチで覆うと、呆れ顔で宍戸を見る。
「いきなり何?」
「だって、さっきからずっと、補佐を目で追ってるからさ。もしかして好きなのかな、って思ったから」
「好きって……。やめてよ」
私は即座に否定した。
「顔と名前を覚えようとしていただけです」
宍戸は唇を尖らせた。
「なによ」
「もしかして自覚ないの?てっきりそうなのかな、と思ったんだけどな。でも、山中補佐なら仕方ないよな。岡野ってそういう免疫が全然なさそうだし、あの人に堕ちるのなんかあっという間だろうな」
「ちょっと、まさかの絡み酒?……宍戸、もう酔っぱらってるの?」
私は苦笑しながら、空になっていた彼のグラスにウーロン茶を注いだ。
宍戸はそのグラスに手を伸ばし、ぐいっと中身を飲み干す。
その時、笑いを含んだ声が頭上から降ってきた。
「今年の新人同士は仲がいいんだね」
私と宍戸は慌てて姿勢を正し、声を揃えて言った。
「お疲れ様です」
「ここ、お邪魔してもいいかな?」
「もちろんです!」
私たちは目を合わせた。
まさか、今の聞かれた……?
どうだろ……?
聞かれていなかったとしても、話題にしていた本人が目の前にいるのは気まずい。
私は目を伏せたまま、テーブルの上を急いで片付けた。
「ありがとう」
補佐からそう声をかけられて顔を上げた私だったが、一瞬息を飲んだ。
社長から一目置かれているすごい人――。
宍戸からそう聞いた時は、厳しい人なのかと思っていた。遠目で見た時にもそう思った。それなのに、その笑顔は反則級だ。その顔には、相手の警戒心を解いてしまうような柔らかい笑みが浮かんでいた。
いやいやいや。これこそが実は、営業用の顔というものなのかもしれない――。
その笑顔につられないように、と私は気を引き締めた。
「補佐、お疲れ様でした。ビールでいいのかしら?」
ふんわりとした笑顔で、遼子さんが補佐に声をかけた。手には新しいグラスとビールの瓶を持っている。注文してくれていたようだ。
「ありがとうございます」
軽く頭を下げる補佐に遼子さんはグラスを手渡し、ビールを注いだ。
私は二人の様子をぼんやりと眺めていたが、ふと思う。
絵になる二人だなぁ――。
「ところで、彼女は白川さん直属の新人さんですか?」
補佐の問いかけに、遼子さんは笑って頷いた。
「えぇ。岡野さんといって、とっても頼りになるのよ」
遼子さんの誉め言葉が照れ臭い。私は居住まいを正し、改めて自己紹介した。
「岡野と申します。今は遼子さんにご迷惑ばかりかけていますが、頑張りますので、よろしくお願いいたします」
「こちらこそ、よろしくね」
「あ、ありがとうございます」
私は慌ててぱっと頭を下げた。整ったその顔に浮かんだ笑顔がきれいすぎて、直視できなかった。
遼子さんの声が聞こえる。
「補佐、ビール、もう少しいかがです?」
「はい、それじゃあ頂きます」
補佐は遼子さんにグラスを差し出した。
その時何気なく補佐の横顔が目に入った。頬の辺りがほんのわずかに強張ったように思われて、気になった。
歓迎会は一次会だけでは終わらなかった。メンバーのほとんどが二次会へ流れることになった。
そんな中、遼子さんはみんなに引き留められながらも、見事なくらい軽やかな笑顔でそれをかわして帰って行ってしまった。
私はというと。
ただ席が近かったというだけで、宍戸から半ば強引に二次会へと引っ張られていった。
お酒は嫌いではないものの、今日は家に帰って早く足を延ばしたい気分だった。けれど、これも会社人としてのお勤めの一環かと諦める。楽しそうな他の同期たちを横目に見ながら、私は大人しく飲んでいた。
「そろそろお開きにするか」
誰かの声をきっかけにして、皆それぞれに帰り支度を始めた。ところが、さらに三次会へ行こうなどと言い出す強者たちが現れた。さすがにもうこれ以上は、と断る女子たちの方が圧倒的に少なかったのには驚いた。