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【帰り道】
せっかくの機会だからこの後も一緒に行こうと誘われはしたが、帰りたかった私は断った。
「もう今夜はかなり酔ってるので、これで帰ります……」
「全然酔った顔していないよ。本当はまだ飲めるんじゃないの?」
酔っぱらった先輩たちからそんな風にからかわれたが、私は笑いながら否定した。
「そんなことないです、ただ顔に出ないだけなんです」
それは本当だ。もうだいぶ酔っているという自覚があった。人前で醜態をさらすわけにはいかないと、平気なふりをしているだけなのだ。
「どうぞ皆さんで楽しんで下さい」
私は頭を下げた。
「それじゃあ、またの機会にね」
そう言って先輩や同期たちは、信号が青に変わったばかりの横断歩道に向かって歩いて行った。
宍戸が心配そうに私の顔を覗き込む。
「送っていこうか?」
私は首を横に振った。
「大丈夫よ。タクシーで帰るから。それよりもほら、みんな待ってるみたいだよ?」
「おーい、宍戸!」
大声で名前を呼ばれて、宍戸は肩をすくめた。
「俺も帰りたいんだけど」
「気持ちは分かる。でも営業なら、特に先輩たちの誘いは断らない方が後々いいんじゃないの?」
宍戸はうんざりしたように顔をしかめた。
「まったく、今どき体育系の乗りはやめてほしいよ。……それじゃ、気をつけて帰れよ。なんかあったらすぐ電話しろよ」
「はいはい。お疲れ様」
再び宍戸を呼ぶ声が聞こえた。
彼は気がかりそうな顔で私を見たが、諦めたように先輩たちの方へと走って行った。
「宍戸っていい人」
私はふふっと笑いながら、同期の後ろ姿を見送った。
「さ、帰ろう」
一人つぶやき、タクシー乗り場がある大通りに向かって歩き出した時だった。背後から私の名を呼ぶ声が追いかけてきた。
「岡野さん、待って!」
私はびくりとして立ち止まり、ゆっくりと振り向いた。
「補佐?」
私は目を見開いた。
「ごめん、びっくりさせたよね。えぇと、岡野さん、で合ってるよね」
「はい。ええと、お疲れ様です」
私はどぎまぎしながら言葉を返した。目の前にいるのは、私から見れば雲の上のような人物だ。緊張してしまい、酔いが一気に醒めそうだった。
「お疲れ様。ところで、タクシーを拾おうとしてるのかな?」
「はい」
「じゃあ、そこまで一緒に行かないか。俺もタクシー拾うつもりなんだ」
「三次会には参加されないんですか?」
補佐は苦笑を浮かべた。
「今夜はもう勘弁だよ。いつも以上に飲まされた。うちの連中は、飲み会っていうと容赦ないからね。――さ、行こうか」
「はい……」
補佐の少し後ろを歩きながら、私はそっと彼の様子を伺った。
いつも以上に飲まされたと言っていたわりに、その横顔は凛として、足取りにも乱れた様子はない。
補佐に付き従うように黙々と歩いていると、彼はわずかに振り向き私に訊ねた。
「岡野さんと宍戸は同期入社なんだね」
「はい」
「二人って、ほんと、仲がいいんだね」
「仲がいいと言いますか、あれは…」
たぶん、一次会の時の様子を見て言っているのだろうと思った。私は小さくため息をついた。
「私が一方的にからかわれていただけなんです」
彼はくすっと笑った。
「そういうのを、仲がいいっていうんじゃないの?じゃれ合ってるようにしか見えなかった。俺、同期っていうのがいないから、羨ましいよ」
「えっ!」
私は思わず大声を上げてしまう。
「羨ましいだなんて、どうしたらそうなるんですか?補佐、本当はかなり酔っていらっしゃいますよね?」
「あはは。分かる?」
補佐は機嫌良さそうに笑った。
意外な顔を見たと思った。最初に感じた厳しい取っつきにくさのようなものがないことに、私は驚いていた。
こっちの方が絶対好きかも――。
そんな感想が頭の中に唐突に浮かんだ。途端に私はうろたえ、それから自分に言い聞かせる。
単なる人としてという意味であって、特別な意味は何もないんだから――。
たどり着いたタクシー乗り場に待機していたのは1台だけだった。
どうやら利用者がピークの時間帯だったらしい。タクシーを待つ人は他にはいなかったが、これを逃したら次はいつ乗れるか分からない。
どうしようかと考えたが、ここはやっぱり補佐に譲るべきだと思った。
しかし、先手を打つように彼は言う。
「岡野さんが先に乗って」
「そういうわけには……。補佐がお先にお乗りください」
「君が何を思ったのか想像がつくけど、こんな遅い時間に女性を一人残して、男の俺が先に帰るなんてことは、あり得ないからね」
「でもここはやはり、役付きである補佐から……」
そんなやり取りをしていたら、私たちがいる方へ向かって歩いてくる男女の姿が目に入った。タクシーだ、と言っているのが聞こえてくる。
補佐もその二人に気がついた。私の背に軽く手を当て、早口で言った。
「間を取って、一緒に乗って行くっていうのはどう?ちなみに俺のマンションは鳥居が丘。岡野さんはどの辺り?」
「え、あの……」
まだためらっている私に補佐は苦笑した。
「今日会ったばかりの男と一緒に乗るのに、抵抗があるのは分かるんだけど。早くしないと乗り損ねる」
そういうわけではなく恐れ多いんです――。
うっかり口にしそうになった本音を飲み込んで、私は補佐に頭を下げた。
「では、ご一緒させてください」
「もちろん」
補佐はほっとしたように笑った。
「先に降りるのは岡野さんだから、俺は奥の方に乗るよ」
補佐はそう言って先にタクシーに乗り込み、ドライバーに行き先を伝える。
「失礼します」
私は緊張しながら、彼の隣に腰を下ろした。
補佐はシートに背中を預けると、腕を組んで目を閉じた。
それを邪魔しないように私は口を閉ざし、窓の外へと目を向けた。
車のエンジン音と車内に流れるラジオの音が、静けさを一層際立たせる。深夜独特のとろりとした空気と車の振動がとても心地よくて、お酒の酔いも手伝って眠気に襲われそうになった。
車が交差点を左折した時だった。
補佐の腕が私の肩に偶然触れた。
そこから伝わってきた彼の体温に、私はどきりとした。胸の奥できゅっと小さな音が鳴ったような気がした。その感覚は過去にも経験したことがあったと思うが、うまく思い出せない。
その正体を気にしているうちに、私のアパートが見えてきた。
降りる準備をしようと体を起こした時、突然右肩に重みを感じた。困惑しながらゆっくりと首を回す。
すぐそこに山中補佐の顔があった。目を閉じて私の肩にもたれかかっていた。
柔らかな髪に頬を撫でられて、胸の内がざわめいた。