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「橋野先輩の視点」
あの日、朝練に顔を出したうりの顔を見て、俺はすぐに異変に気づいた。いつもは練習中に声を出す明るい奴なのに、その日はどこか顔色が悪く、心なしか動きも鈍い。何度か目が合ったけれど、すぐに逸らされた。何かあったのか、声をかけようかと思った矢先、うりは「ちょっとトイレ」と呟いて、足早に体育館を後にした。
少しして戻ってきたうりは、さっきよりさらに顔が青ざめていた。それでも、俺たちの間では「うり、また仮病か?」なんて冗談交じりの声が上がる。あいつが昔から過敏性腸症候群だってことは知っていたし、度々腹痛を訴えていたのも事実だ。でも、俺は何か、いつもの様子とは違うものを感じていた。
午後の授業も、うりは精彩を欠いていた。休み時間になるたびに席を立ち、トイレに駆け込む姿を何度か目にした。そのたびに、俺の胸には言いようのない不安が募った。あいつはいつも、無理をしてでも明るく振る舞おうとするから、余計に心配になる。
更衣室でのうずくまり
そして、部活の時間になった。アップを終え、各自練習に取り掛かる中、うりの動きは明らかに悪くなっていた。顔は真っ白で、脂汗が浮いているのが遠目からでもわかる。俺はすぐにでも駆け寄って声をかけたかったけれど、あいつのプライドを知っていたから、なかなか踏み出せずにいた。
しばらくして、うりが更衣室の方へ消えていくのが見えた。普段はしない行動に、俺は胸騒ぎがして、後を追った。更衣室のドアを開けると、一番奥のロッカーの陰で、うりが体を丸めてうずくまっているのが見えた。
「うぅ……」
呻き声が聞こえる。相当痛いのだろう。普段のうりからは想像もできないほど弱々しい姿に、俺の心臓は締め付けられるようだった。
「うり?」
声をかけると、うりがゆっくりと顔を上げた。その顔は苦痛に歪んでいて、見るに堪えなかった。
「どうした? 顔色悪いぞ」
俺の問いかけに、うりは震える声で「なんでもないです……ちょっと、疲れただけなんで……」と答えた。だが、その声はか細く、明らかに嘘だとわかる。それに、あいつは無意識のうちに自分の腹をさすっていた。
「お腹、痛いんだろ」
俺はもう、問い詰めるような口調になっていたかもしれない。隠しきれない痛みに、うりはただ俯くことしかできなかった。俺は迷わず、うりの体を抱き上げた。いわゆる「お姫様抱っこ」というやつだ。驚いたようなうりの顔が見えたが、今はそんなことを気にしている場合じゃない。
「えっ……先輩!?」
「いいから。保健室行くぞ」
俺はうりを抱きかかえたまま、更衣室を出た。その体は驚くほど軽くて、その軽さが、どれだけあいつが苦しんでいたかを物語っているようだった。
保健室での出来事、そして決断
保健室のドアを開けると、数人の先生たちが談笑していた。俺がうりを抱いているのを見ると、すぐに彼らの視線が俺たちに集まる。
「あら、うりくんじゃない。またお腹痛いの? 最近多いわね、仮病?」
「まったく、部活中に迷惑かけんじゃないよ」
向けられる言葉は、まるで俺が抱いているうりの苦しみを嘲笑うかのようだった。うりが小さく身震いするのがわかる。こいつは、こんな心ない言葉を何度も聞かされてきたんだろう。胃がムカムカするとでも言いたげに、うりの顔がさらに青ざめていく。
俺はうりをベッドにそっと下ろすと、先生たちを睨みつけた。
「仮病じゃないです。朝からずっと調子が悪かったんです」
俺の低い声が保健室に響いたが、体育教師の田中が前に出てきて、うりの腹に手を伸ばし、グイッと力を込めて押さえつけた。
「ん? どこが痛いんだ? ここか?」
その瞬間、うりの体が大きく震えた。
「うっ……! げほっ……!」
うりはたまらず、盛大に吐いてしまった。胃液だけでなく、なんだかドロドロとしたものまで吐き出している。保健室中に酸っぱい匂いが広がり、先生たちは顔を顰めた。
「うわっ、汚ねえな!」
「田中先生、触らないでください!」
田中が慌てて手を引っ込めるのを横目に、俺は怒りで体が震えた。
「あなた、一体何してるんですか!? 患者にそんな乱暴なことして!」
俺はもう、敬語を使うのも忘れ、田中を怒鳴りつけていた。普段は穏やかだと言われる俺の声は、まるで氷のように冷たかったはずだ。先生たちがたじろぐのを尻目に、俺は再びうりを抱きかかえた。
「ここにいても埒が明かない。別の場所に連れて行きます」
そう言い残し、俺はうりを抱いたまま保健室を後にした。向かう先は、誰も使っていないはずの第二校舎だった。この学校で一番静かで、邪魔が入らない場所。うりを落ち着かせられるのは、そこしかないと思った。
第二校舎、そして夜
第二校舎は、古くて人気がない。埃っぽい教室に入り、俺はうりをゆっくりと机に座らせた。うりの背中を優しく撫でながら、俺は後悔の念に囚われていた。
「ごめんな。もっと早く気づいてやればよかった」
うりは首を横に振るだけだった。俺は近くにあった毛布をうりの肩に掛け、額の汗をそっと拭った。俺の指先が触れるたびに、うりの体が小さく震えるのがわかる。無理させていたのは、俺たちみんなだ。
「無理しなくていい。ここにいれば、誰も来ないから」
俺はうりの隣に座り、ただ背中をさすり続けた。うりの手は、俺の制服の裾をぎゅっと掴んでいた。その小さな手が、どれほどの不安を抱えているのか、痛いほど伝わってきた。
夜になり、俺はうりに「俺はここで見張ってるから、ゆっくり休め」と告げた。うりは疲労困憊だったのだろう、すぐに静かな寝息を立て始めた。俺はただ、うりが少しでも安らかに眠れるようにと願った。
しかし、深夜、俺は微かな物音で目を覚ました。うりの姿が、簡易的な寝床から消えている。嫌な予感がして、俺はすぐに後を追った。第二校舎の廊下を辿り、外のトイレから、嫌な音が聞こえてくる。
「うっ……! げほっ……!」
個室の中で、うりが盛大に嘔吐しているのがわかった。昼間よりも苦しそうな声に、俺は迷わずドアを開けた。便器の前で膝をつき、体を震わせながら吐き続けるうりの背中に、俺はそっと手を伸ばした。
「うり……」
俺が背中をさすると、うりは苦しげに顔を歪ませながら、謝罪の言葉を繰り返した。
「ごめんなさい……ごめんなさい……っ、うぇっ、ごめんなさ……い……」
その言葉は、俺の胸を締め付けた。こんなに苦しいのに、なぜ謝るんだ。
「ごめんなさい……っ、ひゅっ……ごめん、なさい……っ、はぁ、はぁ……」
謝罪の言葉とともに、うりの呼吸が速くなる。過呼吸だ。俺はすぐにうりの体を抱きしめ、背中を大きくさすった。
「うり、落ち着け。ゆっくり息を吐け」
俺の胸に顔をうずめるうりの震えが、俺にも伝わってくる。俺のTシャツが、うりの吐いたもので汚れていくのがわかったけれど、そんなことはどうでもよかった。ただ、こいつが楽になってくれれば、それだけでよかった。
俺の腕の中で、うりの呼吸が少しずつ落ち着いていく。過呼吸の苦しさから解放されたのか、うりは俺の胸に顔をうずめたまま、小さく震えていた。俺はただ、うりの髪を優しく撫で続けた。
「先輩……ごめんなさい……汚しちゃって……」
掠れた声が、俺の胸元から聞こえてくる。
「気にするな。それより、お前が大丈夫なのが一番だから」
俺は、うりの背中をポンポンと優しく叩いた。その瞬間、うりが俺のTシャツをぎゅっと掴む力が強くなったのを感じた。そして、俺の胸にうずめていた顔を、ゆっくりと上げた。
その瞳は、涙で濡れていたけれど、そこには今まで見たことのない、強い光が宿っていた。真っ直ぐに俺を見つめるうりの視線に、俺の心臓はドクンと音を立てた。
あの日、保健室で俺はあいつを抱き上げた。その時、うりの体が驚くほど軽かったことが、俺の心に強く残っていた。常に痛みに耐え、周囲の視線に怯え、それでも懸命に日常を送ろうとするうりの姿を見ていたから、俺はなんとかしてやりたかった。守ってやりたいと、そう強く思っていた。
そして今、俺の目の前にいるうりの瞳に映る、俺の顔。その瞳が、まるで俺に何かを訴えかけているように感じた。その瞬間、俺の胸に、今まで感じたことのない温かい感情が芽生えるのを感じた。それは、ただの心配や庇護欲とは違う、もっと深い、特別な感情だった。
俺は、ゆっくりとうりの頭を撫でた。この小さな体の中に、こんなにも大きな苦しみと、そして純粋な心が宿っている。俺は、この先もずっと、こいつのそばにいてやりたいと、強く思った。
「うりの視点」
不意打ちのキス
橋野先輩の腕の中で、俺は震える体を落ち着かせた。呼吸はまだ少し荒いけれど、先輩の温かい手が背中を優しくさすってくれるおかげで、ようやく意識がはっきりとしてきた。先輩のTシャツの胸元には、俺が吐いたものがべっとりと付いている。それなのに、先輩は嫌な顔一つせず、ただ俺を抱きしめ続けてくれている。
「先輩……ごめんなさい……汚しちゃって……」
俺の声は掠れていた。申し訳なさと情けなさで、また涙が溢れてくる。
「気にするな。それより、お前が大丈夫なのが一番だから」
先輩は、俺の背中をポンポンと優しく叩いてくれた。その温かい手に、俺の心は完全に落ちた。
俺の気持ちは、もう限界だった。この人が好きだ。この人に、俺の全部を受け止めてほしい。
ぐっと勇気を振り絞り、俺は先輩の胸から顔を上げた。先輩の顔が、すぐ目の前にある。俺のボロボロの顔を、先輩は心配そうに見つめ返していた。
「せん、ぱい……あの……」
言葉が喉に詰まって、うまく出てこない。でも、今言わなきゃ、きっと後悔する。
「俺……先輩のことが……」
そこまで言いかけた時、先輩の顔が、ゆっくりと俺に近づいてきた。俺は息を呑んだ。心臓が、ドクドクと大きく鳴り響く。
唇に、柔らかい感触。
先輩の唇が、俺の唇に触れた。一瞬だけ、触れるだけのキス。短いけれど、俺の心臓を鷲掴みにするような、優しいキスだった。
溢れ出す想い
キスが終わると、先輩は少しだけ顔を離し、俺の目を見つめた。その瞳には、戸惑いと、そして優しさが混じっていた。俺はもう、何も隠せないと思った。
「俺、先輩のことが、好きです……っ!」
震える声で、ようやく伝えられた。口にしてしまえば、止まらなかった。今まで抑え込んできた感情が、堰を切ったように溢れ出す。
「ずっと、先輩のこと見てました……優しくて、かっこよくて……いつも俺のこと、心配してくれて……」
言葉を選ばずに、思ったままを伝えた。保健室でのこと、第二校舎でずっとそばにいてくれたこと、夜中のトイレで背中をさすってくれたこと。全部、全部、先輩の優しさに触れて、俺の心は先輩でいっぱいになっていた。
「過敏性腸症候群のことも、誰にも言えなくて、ずっと一人で我慢してました。でも、先輩だけは、俺のこと信じてくれて……本当に、嬉しかったんです……」
涙でぐしゃぐしゃになった顔で、俺は先輩を見上げた。こんな情けない姿で告白なんて、普通ならしない。でも、もう俺は、先輩の前では全部さらけ出してしまっていた。
先輩は何も言わず、ただ、俺の言葉をじっと聞いていた。そして、俺が話し終えると、ゆっくりと俺の頬に手を伸ばした。先輩の温かい指先が、俺の頬を優しく撫でる。
「うり……」
先輩の声は、さっきよりもずっと優しかった。その声を聞いた途端、俺の胸は希望と不安でいっぱいになった。先輩は、俺の気持ちをどう受け止めてくれるんだろう。
この瞬間、俺の人生で一番、心臓が大きく鳴っていた。