今すぐ草の根をかき分けてでも結葉を探し出して連れ戻さねば、と思う一方で、このまま逃げ切って欲しいとも希ってしまう。
相反する二つの思いで、偉央の心はぐちゃぐちゃに乱れていた。
足枷をはめてしまったことで、結葉は両足首に大きな傷を負ってしまった。
それが、普通にしていればそこまで付くことはない傷だと言うのは、獣医師とは言え医学を学んだ偉央には分かっていて。
それなのに結葉を問い詰めることをしなかったのは、自分を傷付けてでも、彼女が偉央の元を離れたいと願っているのだと、薄々勘付いていたから。
だからこそ、今日、偉央は敢えて足枷を外してわざと結葉が逃げられる〝隙〟を作ったのだ。
結葉を自由にしてやりたいと思う自分と、彼女を手放したくないと執着する自分との攻防の中で、足枷を外しておきながらも、服を取り上げるという暴挙に出た偉央だ。
それで諦めて結葉が大人しくしていたなら、そのまま彼女を一生閉じ込めて飼い殺しにしてしまおう。
もしそういう困難を乗り越えて結葉が逃げてくれたなら、彼女の意思を尊重して追うことはすまい。
そう心に決めていた。
もぬけのカラになった部屋を見た時、結葉に逃げて欲しいと思っていた自分を押さえつけるようにして、嘘であってくれと泣き叫ぶ自分が強く出てしまって、気が付けば取り乱すように結葉の影を追い求めてしまっていた。
だけど――。
置き去りにされたバスタオルとキッズ携帯を見た時、偉央の中でやっと――。
答えが出せた気がしたのだ。
偉央はいつかこう言う日が来た時のために、と仕舞っておいたものをいつも持ち歩いているカバンから取り出した。
山波想に約束した通り、これを彼宛に送らねばならない。
この心が揺らがないうちに――。
***
「――それ、本当?」
想の言葉がにわかには信じられなくて、結葉は想をじっと見詰めた。
発した声が震えていたのは気のせいじゃない。
「ああ、お前の旦那から直接言われたから間違いねぇよ」
そんな結葉に小さく吐息を落とすと、想はスッと居住まいを正した。
そうして結葉を真っ正面から見据えると、「俺、お前のこと、御庄さんから頼まれたんだ」と明言してきて。
その言葉に、結葉は「え……?」と思わず想を見上げてしまう。
「お前、ほとんど何も持たずに出たはずだから……必要なものを揃えてやってくれって。金も出すからって……。すげぇ真剣に頼まれた」
そこで想は結葉からフイッと視線をそらせると、「金に関しては即行で断ったけど……多分引き下がってはくれないだろうなって思う」とこぼした。
「な……んで?」
結葉は言葉を発するたび、自分の声が震えているのが分かったけれど、どうしようもなくて。
小刻みに震える手をギュッと力を込めて押さえ込もうとする。
「近いうちにな、うちの会社の方にお前の旦那から……その……あ、あるものが届くことになってんだ。それと一緒に小切手送るって言ってた……から」
想が、自分の反応をうかがいながらひとつひとつ言葉を慎重に選んでいるのが分かった結葉だ。
偉央から送り付けられてくるものを拒否することは出来ないと言外に含ませた想に、小切手はともかく、〝あるもの〟は受け取り拒否してはいけないものなのかな?と結葉は思って。
「ねぇ想ちゃん。あるものって……何? 偉央さんから何が届く予定なの?」
結果、あるもの、と濁された部分が結葉には逆に凄く気になってしまった。
想が自分を気遣ってくれて、わざわざそこを伏せようとしてくれたのは重々承知している。
その上で。
それでもやっぱり自分のことだから。
結葉はそこをちゃんと聞かないといけない、と思ったのだ。
「……ん……け……」
ボソッとつぶやかれた言葉がうまく聞き取れなくて、結葉は想の手にそっと触れる。
「想ちゃん。私、大丈夫だから。……お願い。ハッキリ言って?」
***
想は、まるで先をうながすように自分の手に触れてくる結葉をじっと見つめると、己れの中にある躊躇いを吐き出すように小さく吐息を落とした。
そうして結葉の真剣さに応えるように「離婚届」と、今度こそちゃんと結葉に聞き取れるよう明瞭に告げる。
「離、婚……届……?」
想の言葉を、結葉が抑揚のあまり感じられない声音で復唱するのを見て、想は慌てて言い募らずにはいられなかった。
「あ、あのな。提出するもしないもお前に任せるって……御庄さんからはそう申し添えられてっから。その、お前が納得いくまでは出す必要ねぇと思う」
――最悪出さないという選択肢だってあるぞ?と思ったけれど、それは何となく言えなかった想だ。
実際、書面だけで数年間連れ添った伴侶との縁を切るなんて、きっと結葉には無理な話だろう、と想は思う。
「旦那とちゃんと話し合いたいって言うなら、それもありだと思うし。もし一人で行くのが怖いってんなら俺、いくらでも付き合うぞ……? あ……俺じゃ不安だってんなら家裁とか介して……弁護士とか調停委員とか……そういうちゃんとした人に間に入ってもらうんでもいいと思うし」
想は離婚はおろか、結婚したこともない。
だから何となくのふんわりした知識しかないけれど……世間一般的に離婚というのは婚姻を結ぶ以上に大変だと聞き及んでいるから。
結葉が今からそれに向けて歩んでいかないといけないというのなら、自分に出来る範囲で彼女をサポートしたいと思った想だ。
(話し合いの結果、もし結葉が旦那とよりを戻すことになったとしても……)
そうなって欲しくないと心の片隅で望む自分がいるのは確かだけれど、そこはグッと抑え込んで考えないことにした。
「あの、有難う、想ちゃん。……私、寝耳に水で……まだ色々飲み込めてないけど……ちゃんと考えてみるね」
結葉がニコッと笑った顔が、どう考えても自分を気遣ってくれているようにしか思えなくて、想は胸の奥がギュッと苦しくなる。
「俺の前では……取り繕わなくていいから」
言って、そっと結葉の頭を撫でてやったら、結葉が微かに身体を震わせて。
うつむいた結葉の手元に、ポトリと涙が落ちるのが見えた。
結葉は肩を小さく震わせて静かにポロポロと涙を落とし続ける。
想は、何も言わずにそんな結葉をそっと腕の中に抱き寄せた。
***
「ごめんね、想ちゃ。遅く……なっちゃった」
結葉は想の腕の中で静かに静かに泣き続けて……。
一時間経つか経たないかの頃、やっと泣くのをやめて、そうつぶやいた。
涙に泣き濡れた顔を隠すこともせず真っ直ぐ想を見上げると、
「一杯泣いたら少しスッキリした。――想ちゃん、黙って泣かせてくれて有難う。ずっと胸を貸してくれて有難う」
言って、今度こそ心の底からの笑顔を想に向けてくれる。
「こんな胸で良ければいつでも」
照れ隠し。
想はちょっとだけ結葉から視線をそらせるようにして、わざと軽口を叩いて見せる。
「うん」
結葉は想に短く一言そう返すと、
「お風呂っ! 今度こそちゃんと入ってくるね」
まるで気持ちを切り替えるみたいに明るい声音でそう言って立ち上がる。
「絶対私、いまお化粧崩れちゃってるよね。やーん。恥ずかし〜」
悪戯っぽく微笑んで見せる結葉が、想にはとても意地らしく思えた。
きっと結葉は風呂の中でまだもう少し泣くんだろうな。
そんなことを思いながら、
「ゆっくり温もって来い」
殊更〝ゆっくり〟のところに感情を込めた。
時間なんて気にしなくていいから。
気が済むまで泣けばいい。
明日から現実にしっかり向き合っていけるように。
結葉の涙で濡れたズボンをぼんやり眺めながら、想は〝風呂上がりにはしっかり水分補給させてやんねぇとな〟と思った。
***
「じゃ、電気消すぞ?」
結局結葉の風呂上がりを待って、そのあと想が入浴を済ませたら深夜を回っていて。
「ごめんね、想ちゃん。明日はお仕事なのに」
想がシーリングライトのスイッチに手を伸ばして声を掛けたら、結葉が布団の中に顔を半分隠して申し訳なさそうに謝ってきた。
「バーカ。俺はいつも結構夜更かしなんだよ。今日だっていつも通りだから気にすんな」
言って、今度こそ照明を落とそうとして、ふとあることに思い至った想だ。
「結葉、お前、真っ暗でも眠れるようになったか?」
子供の頃は電気を全部消すと怖がる結葉のために、彼女が泊まりに来た時だけは豆球をつけて薄明かりにしていたのを思い出した。
「えっとね。実は……今でも真っ暗闇で眠るのは苦手、なの。あっ、でもっ。結婚してからはずっと真っ暗な中で眠ってたし……絶対眠れないってわけではないから……その、だ、大丈夫……だよっ? 想ちゃんが暗い方が眠れるっていうなら私、そっちに合わせるよ?」
私のことは気にしないで?とソワソワした様子で続ける結葉に、想は「俺はどっちでも寝れっから気にすんな」と声をかける。
今の口ぶりだと、結葉は旦那に合わせて真っ暗な中で眠る努力をしていたということだろうか、と思いながら。
スイッチを複数回押して常夜灯の仄赤い光を残すと、薄明かりの中を移動して結葉のベッド横に敷いた自分の布団に潜り込んだ。
(やべぇ。無茶苦茶緊張してきたっ)
すぐ近くに結葉がいると思うと、目が冴えてなかなか眠れそうにない。
子供の頃は結構頻繁にお互いの家を行き来して、一緒に寝泊まりすることが多かった想と結葉だけど、いつもは妹の芹も一緒で。
しかも物心ついてからは何となくそういうことはしなくなっていたから。
静かにしているとお互いの吐息と壁掛け時計の秒針の音、それからキッチンの方から微かに聞こえる冷蔵庫のモーター音がやけに大きく聞こえてきて、こんなにこの部屋って色んな音してたんだな、と想は今更のように気付かされる。
コメント
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旦那さんも今のままではダメってわかっているけど、側にいて欲しい気持ちもある。 愛し方を間違えてしまったんだよね。 独占欲強いのは悲劇を生んでしまうね。