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#ワンナイトラブ
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大きな一面鏡は私一人だけを贅沢に映す。
両手の人差し指で口角を強引にぐいっと上げて、不自然な笑顔を作る私と目が合うと、どうしても苦笑いだけが零れる。
笑わないにしても、表情だけでも穏やかになれば少しは力が抜けるのだろうけれど。
着慣れたスーツとアンダーリムのメガネが悪いのか。
そもそも会社という場所が悪いのか。
幾ら笑顔を作り出そうと思っても、6年の蓄積は中々にしぶとい。
はぁ、と、誰も聞くことの無いため息を落とすと、下手な笑顔に気を取られていたからか、ヒールの音がすぐ近くで鳴っているのに気づくのが遅れた。
「わっ!穂波さん?なにしてるんですか?」
更に現れたのは橘さんという最悪が重なった。
不覚だ。会社のトイレで変顔していたなんて噂が広がりそうだ。
だから私は、すぐに表情を元に戻してみせる。
「口内炎です。失礼しました」
「口内炎ですかぁ、トマト染みますよねぇー!」
素直なのか考え無しか、私に興味がないだけなのか。すぐに納得してくれたのでほっと胸を撫で下ろすのもつかの間、
「穂波さん、今夜空いてますか?」
彼女の口は意外な一言を聞かせた。
今夜?え、私に言ってるの?
思わず挙動不審に周りを見渡しても、私一人しかその場には居ないので「今夜?」と問いただす。
「合コン行きません?女子がひとり足りないんですよ」
「合コン……!?」
え、私が?誘う人、間違えてない?
瞬きも忘れる刹那、時間さえも止まっていると満面の笑みの彼女は呑気に続ける。
「今日のメンバー、IT関係にドクターに弁護士さん、ハイスペ揃いですし、場所は会員制のレストランですよ〜。私、凄くないですか!?」
私を合コンに誘う方が凄いですよ。
合コンには行ってみたい。だけど、橘さんと一緒に行けば会社と同じキャラで通さなければ。
それって、どうなの?
もし、上手くいっても、また旺くんの時と同じで、一時も気が休まらなくて、気を張ってばかりの付き合いになるんじゃない?
「それに、みんなイケメンで30歳以上で有料物件ですよ〜!」
なのに心が釣られる情報だけが多すぎて頭がパニックになる。
どうしよう、常葉くん!どうすればいいかな!?
『死ぬ程興味ありません』
心の奥で助けを求めても、心底呆れ返った言葉が脳裏を過るだけ。
だけど、そのお陰で散らばりかけた意識が纏まるので、小さく息を吸い込んで口を開いた。
「い…………」
◆
「……あれ、早いですね、今日」
リビングに繋がる扉を開けると、すぐに常葉くんは出迎えた。
「はい。……諸事情で」
彼はカウンターキッチンに座り、夕食中のご様子だ。
カトラリーと食器が重なる金属音と共に「ふーん」とだけ聞こえた相槌を受け流していると、その瞳がこちらを見上げる。
「……パスタ、食べます?」
「え、た、食べますっ!」
餌を貰う飼い犬の様に飛び付くと、常葉くんは持っていたフォークをこちらに差し出した。
てっきり新しい物が用意されるのだと思った私とは裏腹に、常葉くんは「あーん」と命令じみた言葉を発するので一瞬で頬に熱が通う。
そ、そそそっち!?
いやいや落ち着け依愛。冷静になれ。
心の奥で念じては落ちた髪の毛を耳にかけて、素直にそれを口に含み、緩みかけの口元を隠すようにすぐに手で隠した。
恥ずかしい……けど、美味しい。
「美味しいです……常葉くん、料理できるんですね」
「簡単なのしか出来ませんよ」
本当に、ハイスペックだなぁ……。
隣のスツールにストンと腰掛けて、肩にかけていたバッグを膝に乗せた。
常葉くんはこちら側の髪を耳にかけているから、美術品みたいに綺麗な横顔がよく見える。
毎日見てても見飽きないって、なんて贅沢な造りなんだろう。
「……今度、部長クラスの企画に携わるって話聞きましたよ」
ただ水を飲む、それだけの動作をぼんやりと見つめて小耳に挟んだ話をすれば、ふいに彼の目線が宙を泳ぐ。
「まぁ………………そうですね」
なんだろうか、今の間は。
幾ばくか疑念を抱いていると、常葉くんは頬杖を付いてこちらに手を伸ばした。
顎を持ち上げられると、その親指が一度、私の唇を軽い力で押える。
その一瞬の出来事で心臓はうるさく鳴る。なんて簡単な作りなのだろう。視線はもう俯いたままで見上げることは出来ない。
「珍しく色、付いてますね」
自分の親指の腹を確認した彼は私を解放したので、膝に置いたバッグを両手で抱きしめる。
「実は今日、合コンに誘われて」
「……可愛くしたのに持ち帰られなかったから、不貞腐れてるんですか」
リップ塗っただけで気合いが入ったと思われるのか。私はそんなに痛い女なのか。
「違います!行かなかったんです!」
一段とバッグを胸元に引き寄せて見上げると、目線の先にいる常葉くんはふっと喉を鳴らした。
「行けばよかったのに」
「……行って、上手くいってもまたすぐにダメになりそうなので。……やめました」
ふぅん、と、やっぱり常葉くんはあまり興味も無さそうに相槌を打つ。
行ったら今頃アドレス帳に新しい名前が刻まれていたのだろうか。
いや、でも|橘さん《職場の人》の前で素の自分を出せる自信が全く湧かないので、行っても意味が無かっただろう。