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113 ◇つつましやかな幸せ
一方、哲司は掛け値なしで雅代とその家族を心配していた。
雅代が結婚してくれなくても、自分との交流を拒否されない限りは
できる限り経済的な支援をしてやろうと決めていたのだ。
それで、まずは家を訪ねて、育代と雅代のいる前で米を差し入れしたりした。
庶民ではなかなか手の出ない、手軽に買えない、サケ、マグロ、イワシ、サンマなどの缶詰も持参して。
- この時代、缶詰などは一部の雑貨店や百貨店などで扱われる【特別な食品】だった-
◇ ◇ ◇ ◇
〇雅代の実家/大川家 玄関口
雅代が酷く恐縮してこれからはそんなにしてもらわなくていいからと断ると、哲司は言う。
「昔ね、おばさんが俺にさつま芋のふかしたのを振舞ってくれたことが何度かあるんだ。あの日のことは忘れないよ。
おいしかったなぁ~、雅代ちゃん家で食べたお芋さん。
やさしさやぬくもりがあの時のお芋さんには沁み込んでたからね。
そんなふうに可愛がってくれた人に年がいってお礼したっていいじゃないか。
雅代ちゃんがいらないって言ったって、おばさんにあげるんだから気にしなくていいんだよ」
「哲司さん、ありがとう」
こうやって、損得勘定なしの哲司のやさしさに触れるたびに雅代の気持ちはグルグル乱高下して落ち着かなくなるのだった。
そしていつの間にか、哲司を頼りたくなる自分に気付き自己嫌悪に陥るのだった。
◇ ◇ ◇ ◇
〇雅代の実家/大川家 玄関口 夕刻
或る日、缶詰を持って行った日のこと。
哲司は玄関先から裁縫道具やら生地やらが見えたので、育代と雅代に
『すごいですねぇ』と話し掛ける。
「わぁ~、袋物や生地がたくさん、すごいですね~」
「そうでしょ、たくさん生地を買い込んだものだから部屋が賑やかになっちゃって。雅代も工場は辞めちゃって家にいるでしょ?
それでふたりで手仕事を始めたのよ。
いくらにもならないけど何もしないでいるのももったいないものね」
そんなふうに育代から、いくらにもならないけど手仕事として針仕事をしているのだと聞き及ぶ。
聞いていて、哲司は閃いた。
「雅代ちゃん、仕事の邪魔にならない範囲で鳩子に縫物教えてやってもらえないだろうか」
と哲司は頼んでみた。
「先生になれるほどの腕前じゃないけど、手慰みに縫うくらいのものなら
私も鳩子ちゃんに教えてあげられるから、ぜひっ、どうぞ」
ギブアンドテイク……。
娘に裁縫を教えてもらえれば一日中部屋に引きこもっている娘のためになるし、好きで上達すれば本格的に習える先生につけさせてもいいと哲司は考えた。
周囲の女性を見ていて、これからは女性も手に職をつけたほうがいいと感じていたからだ。
そして、娘に教えてもらうお礼としてなら雅代たちも食料のサポートを受け取りやすいだろうと考えた―――ということもあった。
哲司はこのまま雅代の両親共々、彼女とご近所づきあいを末永く続けられたら無理に結婚などできなくてもいいと思うようになっていた。
つつましやかな幸せ、それがあるなら自分はそれほど不幸とも思わず生きていけそうな気がした。
――――― シナリオ風 ―――――
今回は少し、↑とは別バージョン……
◇哲司の訪問
〇 雅代の実家/大林家の玄関 (翌週・昼下がり)
玄関をノックする音。
雅代が玄関に向かい、その後から育代も付いて行く。
哲司「ごめんください。少しばかりですが……これ、米と缶詰を」
育代(驚いて出てくる)
「まぁ、哲司くん……こんなに! 申し訳ないよ、悪いわねぇ」
雅代「哲司くん、こんなにしてもらうわけにはいかないわ」
哲司(穏やかに微笑んで)
「昔ね、おばさんが俺に、ふかしたさつま芋を出してくれたことが
あるんです。あれが、すごくおいしかった。
あの日のぬくもり、今も忘れられないんですよ。
だから、これはそのお礼です。
雅代ちゃんが“いらない”って言っても、おばさんにあげるんだから、
気にしないでください」
雅代(目を潤ませながら)
「……哲司さん、ありがとう」
(N)
「損得勘定なしの優しさに触れるたび、
雅代の心はかき乱され、また落ち着かなくなった。
そして、自分が彼を頼りたくなるたび――
自己嫌悪が胸を刺した。」
玄関先から茶の間(続きの和室に亘り)の様子がちらりと見える。
裁縫道具や反物が並んでいる。
哲司(感心して)「わぁ、袋物や生地がたくさん……すごいですね」
育代
「ふふっ。たくさん買い込んだから、部屋が賑やかでね。
雅代も工場を辞めて家にいるから、ふたりで手仕事を始めたのよ。
いくらにもならないけど、何もしないよりはってね」
哲司(少し考えて)
「それなら――
雅代ちゃん、うちの鳩子に縫い物を教えてやって?
仕事の邪魔にならない範囲で」
雅代(微笑んで)
「先生になれるほどじゃないけど……
手慰みに縫うくらいのことなら、教えられます。
ぜひ、どうぞ」
(N)
「哲司の心に、少しの光が射した。
娘が手を動かす時間が増えれば、それが娘の心にも良い。
そして、“お礼”という形でなら、雅代たちも気兼ねなく助けられる――」
◇哲司の胸の内
夕方。
帰り道。
鈴虫の声。
(N)
「哲司は思った。
無理に結婚できなくてもいい。
この家と、雅代と、その家族と。
ご近所として、穏やかに関われるなら――
それが、自分の“つつましやかな幸福”でも構わないと」
風が吹き抜け、遠くで風鈴の音。
静かに、夏の夜は暮れていった。