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「翼、今日の仕事終えたら俺のマンション来い」
低く落とされたその声は、命令にも似ていて。
いつものクールなテオとは、明らかにトーンが違っていた。
「えっ……え?」
聞き返す間もなく、テオの顔がすっと近づく。
次の瞬間、彼の唇が俺の耳元に触れるくらいの距離で囁いた。
『お前からΩの匂い、プンプンすんだよ。気付いてねぇだろ』
——ぞくりと、背中を冷たいものが這い上がる。
時間が止まったように動けなかった。
「は……? う、うそ……っ」
後天性オメガって、あの病院の診断……。
たしかに昨日、抑制剤はもらった。
でも、ちひろにあんな形で裏切られて
気がついたら飲むことすら忘れてて——
『とにかく抑制剤飲んどけアホが。そんで撮影終わったら直行な、話はそれからだ』
そう言いながら、テオは俺の手のひらに何かを握らせた。
それは、小さな銀色の鍵。
重みが、やけにリアルだった。
「……っ、ちょ、まっ、待って……」
けど、テオはそれ以上は何も言わずスタスタと廊下を歩き去っていった。
振り返りもしなかった。
俺はその場に立ち尽くしたまま、指の中で鍵を握りしめる。
じわじわと、鍵の冷たさが現実を実感させてくる。
俺はただ呆然と、テオが背を向けて去っていくのを見送ることしかできなかった。
撮影現場でも、テオの言葉が頭から離れなかった。
一応抑制剤はトイレで飲んできたが…
まさか、本当に俺からΩの匂いがするなんて。
周囲の誰も、そんなことを言わなかったのに。
いや、テオは気付いた。
俺の一番近くにいるアルファであるテオには
Ωである俺のフェロモンが分かるということなのだろうか。
テオなりに忠告してくれたのは理解していた。
それでも意識すればするほど、自分の体から変な匂いがするような気がして
撮影に集中できない。
それでもプロとして、どうにか仕事をこなした。
そして、撮影が終わると同時に俺は足早に現場を後にした。
テオの鍵が握りしめられた手のひらで汗ばむ。
向かう先は、今日一日の仕事を終えた後
直行するようにと指示されたテオの高級マンションだ。
コンクリート打ちっぱなしのエントランス。
静かすぎて、心臓の音がやけに響く。
「……ここ、で合ってるよな」
震える手でインターホンの番号を押そうとして
ふと、ポケットの中の鍵を思い出す。
ドアに鍵を差し込むと、静かに「カチャ」と音がした。
中に入った瞬間、フローラルともムスクとも言えない上質な香りが鼻腔をくすぐる。
「よう。遅かったな」
リビングの奥から声がして、テオがラフな部屋着姿で姿を見せる。
柔らかなニットに、スウェットパンツ。
完璧な容姿が、逆に現実味を失わせる。
「テオ、あの……」
恐る恐る歩み寄ろうとすると、テオが待ちかねたというように俺の腕をぐっと引いた。
そして鼻と鼻の先に、テオの整った顔が近づく。
「抑制剤はちゃんと飲んできたみたいだが、お前、うちの社長がオメガお断りの堅物なのは知ってるよな?」
俺の心臓はこれ以上ないくらい早鐘を打っていて、喉はカラカラに乾いていた。
それでも俺はなんとか小さく頷く。
「ち、違うんです。俺、入社したときは、いや、つい最近までは間違いなくβだったし…」
「じゃあなんでお前からオメガの匂いがすんだよ?」
「わ、分からないです…医務室の医者に後天性オメガかもしれないって言われて、昨日内科にも行ったら、後天性オメガだと診断されてしまって…」
「だったら普通抑制剤飲むだろ、Ωになったんならそれぐらいの危機管理能力はあると思うが?」
テオは俺を蔑むような目で見下してくる。
そんなの、俺だって思ったさ。
でも……
「俺、今までずっとβだったんです。だから急にΩになったって言われても実感湧かないし
「それに、同棲してた妻に不倫されて住むとこ無くしてネカフェで寝泊まりして出社してきたんです…もう、散々なんですよ」
情けないやら恥ずかしいやらで、自嘲気味に笑いながらテオの目を見返す。
すると彼は「はー」とため息をついてから言った。
「だったら翼、俺と番契約するか、このことを社長にバラされてクビになるか選べ」
「…なっ、いきなりなに言ってんですか?!
そんなの脅迫と一緒ですよ…!」
「だろうな?」
「大体、俺と番契約って…テオになんのメリットがあるんですか」
「あるさ。フリーのままだと人気は上がるが結婚とかスキャンダルとか面倒だし、丁度いい番が欲しかったんだよ」
「それにこれは本当の番契約じゃない、偽装だ」
「え?」
「お前も政略結婚とか偽装番ぐらい聞いたことあるだろ。俺はそれを提案してる」
「偽装番…?」
「家を失くしたってんなら、丁度いい。お前にはここで飯を作るだけでいい。衣食住は保証してやれる」
「その上、お互いの発情を満たすためとも言える。お前にとってもこんないい話ねえだろ」
「そ、それは……っ」
「それともなんだ?無防備にフェロモン振りまいて事務所内のアルファの餌食になりてぇか?最近じゃ、発情促進剤っつーのを飲み物に混ぜてレイプされるって事件もあったしなー?」
「な、なります!なればいいんでしょ…!!」
「ふっ、物分りがいいこった」
テオは悪戯っぽく笑うと、俺の顎を掬ってうなじに噛み付いた
「ん……っ!」
テオの歯が、俺に食い込む。
「ぅあ……っ」
その瞬間に全身に流れる電流のような感覚に、俺は思わず大きく背を逸らした。
全身の細胞が作り替えられていく感覚。
心地いいような、不快感があるような。
頭の中は何も考えられなくなった。
次第に体の奥が熱くなってきて、段々と呼吸が浅くなる。
「……んぁ、はぁ……ぁ……」
そんな俺をテオは何も言わずに上から見下ろしていた。
そしてしばらくしてから、俺のうなじをぺろりとひと舐めしてから口を離した。
「い、今のって……」
俺はいつの間にか床にへたり込んでいて、テオを見上げた。
「これで番契約は成立だ。」
そう言ってテオは自嘲気味に笑った後
その声があまりにも甘美で、俺は思わず小さく身震いした。
「あ……っ」
(なんだこれ……)
体が熱い。
頭がクラクラする。
「おい翼?」
テオの心配するような声が聞こえた気がしたが、それもすぐに聞こえなくなった。
そして俺はそのまま意識を手放してしまった。
「……ん、あれ……」
目を覚ますと、知らない天井だった。
いや、見覚えはあるけど自分の部屋ではない。
ここは確かテオの……そうだ、俺…テオと番契約交わして…
そんなことを思っていると部屋のドアが開き、テオが入ってきた。
「お、起きたか」
「えと、俺……」
「お前急にぶっ倒れるからびっくりしたわ」
そう言ってテオはベッドに腰掛けると俺の頭を撫でてきた。
その優しい手つきに思わずドキリとする。
「す、すみません……」
「気にすんな、その内慣れる。」
テオは俺の頭を軽くポンポンと叩いてから、立ち上がる。
「とりあえず、あと10分で会社行くからさっさと支度して降りてこい。車を用意してある」
テオはそのまま部屋を出ていった。
俺はゆっくりと起き上がり、ベッドから降りた。
部屋の中を見渡すと、そこは綺麗に整頓された寝室だった。
「あ、そっか……ここってテオの家か」
そう呟いてから俺は自分の着ている服を見た。
上のベストだけが脱がされていて、ベッド脇に置かれていた。
テオが気を遣って脱がしてくれたのか、分からないが。
俺はベッドから降り、ベストを着るとカバンを手に持って急いでテオの元へと向かった。
「お、きたな」
テオは車の中で待っていた。
俺に気づいてドアを開けて中に入れてくれる。
俺は助手席に座った。
テオは無言のままエンジンをかけて車を発進させた。
「あ、あの、テオ?確認なんですけど俺ってテオの代わりに家事掃除をすれば衣食住は保証してもらえるってことで、いいんですか…?」
「ああ、そうだ。別に掃除は適当でいいが、飯は平日は晩御飯のみ、休日は朝晩とちゃんと作れ。」
「わ、わかりました」
「あと、今日もちゃんと抑制剤飲めよ?こっちが迷惑すんだからな」
テオは俺の顔も見ずに淡々と指示をする。
迷惑をかけるな、というその言葉が少しだけ胸に刺さったけれど
この状況を与えてくれたテオに感謝しないわけにはいかない。
「はい…!ありがとうございます、もちろんです」
テオの反応は至ってシンプルだ。
「別に礼なんていらねえよ」
そんなとき、車が会社に着いたようで駐車場に入った。
そして車が止まると同時にドアが開き、テオに降りるよう促される。
「ほら、着いたぞ」
それだけ言ってさっさと降りてしまうテオの後を慌てて追った。
すると、テオはふと思い出したように
「そうだ。ねぇと思うが、念の為言っておく。」
俺が首を傾げると、テオは鋭い眼光を向けて言った。
「これは政略番に過ぎない。間違っても好きになったとか言ってくんなよ?」
「元々お前はただの仕事相手なんだからな、家にいるときにカメラ向けんのも禁止な」
「俺ノンケなんで、テオを好きになるとかありえないです!」
「お前な…」
「あっ、でも許可制とかにして貰えたりしませんか?俺、72時間テオを撮っても飽きない自信あるんですけど」
「アホかお前ぇは。ぜってぇ撮らせねぇわ」