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吐息が白く染まる夜。そっと包み込んだ君の手は、かすかに震えている。
「もうすぐだね。」
自分の手が震えていることを僕に隠すかのように、君が唐突に口を開く。
「そうだね。ここまで長かったよね。ほんとに。」
そう言って君の手を強く握り締める。
1歩…2歩…3歩…
ゆっくりながらも、君は決してペースを緩めずに足を運んでいく。それに比べて僕は、足が鉛のように重い。足が思うように動かない。これほど歩くことに苦痛を感じたのは初めてだ。
足取りの重い僕に気づいたんだろうか。鼻をすすりながら君が話し出す。僕にはわかる。君が恥ずかしがっている時の仕草だ。
「私ね、ずっと楽しみにしてたんだよ。今日のこと。」
「え?どうしてだい?」
咄嗟に聞き返してしまう僕の悪い癖。
「ひっどい。ずっと見たかった景色を久しぶりに見れるんだよ?また来ようねって言って何年経ったと思ってんのよ…」
次は左手でピアスを触る仕草。また君の機嫌を損ねてしまったようだ。
本当はわかっている。君が今日をどれだけ楽しみにしていたのか。どんな思いでここまでやって来たのか。
わかっているからこそである。これから起こることを思うと、その重圧が重くのしかかってくる。覚悟はできているはずだった。土壇場になって怖気付くとは情けない。
『大丈夫。いつだって君とならどんなことでも乗り越えてこれたじゃないか―――。』
そう自分に言い聞かせて奮い立たせる。
「それにしても、本当にいいのかい?よりにもよってここでだなんて…」
「よりにもよって…って何よ。私はここがよかったの。」
また君を怒らせてしまった。長い間連れ添っているはずなのに、いつになっても学習できないままだ。
「だってね、私が人生でいっちばん好きな場所なんだよ。」
「へぇ〜、そうなんだ。」
また適当な相槌をしてしまう。
呆れたように溜め息をつきながら君は続ける。
「私ね、思い出の場所ってここしか残ってないんだ。」
「え?どういうこと?」
「私の思い出の場所はね、おばあちゃんちと、おばあちゃんとよく行った遊園地だったの。でも、もう随分と前になくなっちゃった。」
「あれ、君ってそんなにおばあちゃんっ子だったっけ?」
咄嗟に疑問がこぼれた。そういえば、君の家族の話ってちゃんと聞いたことなかったな。
「今日だけ、私の話聞いてもらってもいい?」
君が不安そうに僕の方を見つめる。
「もちろんだよ。聞かせて。君のはなし。」
嬉しそうに微笑む君。
久しぶりだな。君が笑う姿を見るのは―――。
それから君にいろんなことを聞いた。幼い頃に両親が離婚して親から虐待を受けていたこと。小学校にもまともに通えずに、養護施設でも馴染めずにいじめられていたこと。どこにいっても、君は打ち解けることができなかった。話すことが苦手だった。周りの人間は、そんな君に後ろ指を指す。殻に閉じ篭って、周りに背を向ける。君にはそうすることしかできなかった。ずっとひとりぽっちだった。
そんなときに里親となってくれたのが、さっき話してたおばあちゃんだった。小学3年生の冬、君はひとりじゃなくなった。何を言っても、頷いてくれた。何を愚痴っても、叱ってくれた。何を怒っても、一緒に怒ってくれた。何回泣いても、優しく頭を撫でてくれた。いつしかおばあちゃんは、君にとって、家族でも友達でも計れないほどの、特別な存在になっていた。
おばあちゃんは、君が高校生の頃に天国へと旅立った。高校生になってからも、君には友達と言える存在ができることはなかった。いくつになっても、この世の中の人間は変わらない。いつだって君のことを嫌うやつらが束になって君のことをいじめてくる。唯一の理解者であり、心の支えとなっていた大切な人の死によって、君はまたひとりぽっちになってしまった。
君はその頃から自暴自棄になった。自分をお金で売るようになった。人から求められているときだけ、愛されていると錯覚する。いつしか、愛情とは何なのかがわからなくなっていく。自分を見失っていく。どす黒い底の見えない沼へと、ずぶずぶと体が蝕まれていく。どれだけ人から求められても、君はひとりぽっちのままだった。
僕と出会うまで、君は本当の愛情を知らないままだった―――。
鼻をすすりながら君はそっと背を向けた。
これは恥ずかしがっているんじゃない。泣いているんだ。それくらい僕にだってわかる。
「そうだったんだ。ごめんね。辛いこと思い出させちゃって。」
「ううん、辛くなんかないよ。この思い出がなかったらきっと今の私はいないし、ぜんぶ大切な記憶だから。大事に心の中にしまってあるの。」
君は本当に強い。
僕だったらとっくに耐えられなくなっている。
今まで、本当によくがんばったんだね。
すごいよ。君は。
そう言ってやりたいのに、言葉が出ない。
君の言葉に応える代わりに、ぎゅっと胸に強く君を抱き寄せた。
眼に溢れる泪を僕の袖で拭って、君が話を続ける。
「覚えてる?ここで君が私に言ったこと。」
クスッと笑いながら僕に問いかける。
「もちろんだよ。僕の恋人になってください。でしょ?」
「違うよ。その前。ほんとに頼りなかったんだから。」
「あれ?なんだったっけ?忘れちゃったなあ。」
本当は覚えているのに、忘れてしまったふりをした。
「もう。またそうやってとぼける。そういうところが、君の可愛いところだよね。やっぱり君は出会った時から何も変わらないね。」
出会った頃?君と出会った頃って、どんなだったっけ?
僕と出会ったのはおばあちゃんが死んでから数年経った後だった。
初めて会ったとき、明らかに人慣れしていない僕を見て『可愛い』って思ったらしい。
僕も同じだった。
僕は出会った瞬間から君に一目惚れをしていた。今まで出会ったどの女性よりも君は美しかった。
僕らはマッチングアプリで出会った。
マッチングアプリというものは、お互いの好きな人の傾向や趣味とかを入力して、条件に合った人が自動的に表示される。
時代の進歩とはすごいものだ。
そうやって出てきた相手が、間違いであるはずがなかった。メッセージを何度かやり取りし、一週間もしないうちに僕らは直接会うことになった。
その日は、僕がデートプランを考えた。
ラーメン屋さんに行って、カラオケに行って、都会の人間の群れに紛れて街を歩いた。
正直、デートなんて人生で初めてだ。
どこにいけばいいのかなんていうものは、僕にはまるでわからない。
その代わりに、どこに行っても、僕は君へ迷うことなく想いを伝えることにした。
『可愛い。』
何回その言葉を口にしただろうか。
不器用な僕には、そのくらいしかできなかった。
好きな人を目の前にして言葉が出なくなるのは、昔から変わらないままだ。
歩き疲れたと君が愚痴をこぼしたとき、あとひとつだけ行きたいところがあると伝えて君の手を引いた。
僕がずっとあたためていた場所。
都会のど真ん中。
雑居ビルの階段を上がって辿り着いたのは、真っ暗な屋上。
周りの高いビルに遮断されて、都会のネオンは一切ここには届かない。
スマホの灯りがなければ、自分の足元さえ見えないほどだ。
気になることは、隣のビルの換気扇から出てくる焼き鳥の臭いと、室外機の音くらいだろうか。
普通の女の子なら、こんな場所怖くて逃げ出してしまいそうだ。
「わぁ!すごい!星がいっぱい見える!」
君が子犬のようにはしゃぎ出す。その姿を見て、僕は君にどんどん惹かれていく。
「もうちょっとだけ待ったら、もっと綺麗な景色を見れるよ。」
咄嗟に出た嘘。
口から出たでまかせだ。
本当は、心の準備ができていないだけだった。
慣れない初めてのデート。
僕からすれば、人生で初めてのデートだ。
マッチングアプリでやり取りをしている瞬間から、君に告白をする場所をずっと探して、やっとの思いで見つけたこの屋上。
ここまで辿り着いたのに、肝心な所で勇気が出ない。
「少し横になって、2人で空を見ようよ。」
そう言いながら、君の手をそっと握り締め、ゆっくりと地面に背をつける。
少しでも時間を稼がなくては。
僕に勇気が出るまでの間だけ。
焦りと鼓動で汗が止まらない。
僕の手は大丈夫だろうか。
湿ってはいないだろうかと、君の顔を見つめる。
君は夢中で空を眺め続けている。
そんなことを考えているうちに、刻々と時間は過ぎていく。
瞳が暗闇に慣れるのに、そう長くはかからなかった。
「見て。星がすごく綺麗だよ。」
さっきまでのはしゃぎようが嘘みたいに、君が落ち着いた声で呟いた。
そこには、さっきまでとは比べ物にならないくらいに、たくさんの星が眼前に広がっていた。
周囲のビルに遮られ、四角く切り取られたかのような空。
描かれた絵画のように綺麗だ。
「綺麗だね。」
君の方に目を向ける。
君の瞳はまだ空を向いたままだ。
時がようやく僕に味方をした。
君の手を強く握りしめ、そっと君に問いかける。
「君の、恋人にしてくれませんか。」
肝心な時にまで、頼りない。
なんて情けないんだ。
「ちゃんと、言って。」
鼻をすすりながら、君の瞳が僕を見つめる。
光のない君の瞳は、僕を更に引き込んでいく。
もう一度君の手を強く握り締め、僕は深く呼吸を整えて言い直した。
「僕の恋人になってください。」
君からの返事を待つ時間。
静寂が息を殺す。
どれだけ時間が流れたかはわからない。
きっと一瞬だったんだろう。
とてつもなく長く感じた静寂は、君の一言で終わりを告げた。
「私でよければ、お願いします。」
君からの返事に、思わず胸が高鳴る。
尻臀を地面に打ちつけて喜ぶ姿を見て、君がまた口を開く。
「君はほんとにかわいいね。」
かわいい。
その頃はその言葉を聞いてもあまりいい気がしなかった。
でも、それが君なりの愛情の表現方法なんだということはわかっていた。
また黙り込んで空を見つめる。
あまりの絶景に体が吸い込まれそうになる。
もうそろそろ帰ろうかと思ったそのとき、流れる星の群れが空を覆った。
「見て!流星群だよ!願い事しなきゃ!」
君がまた子犬みたいにはしゃぐ。そういうところがまた可愛い。
「ねえ!なに願ったの?」
君が丸く大きな目で僕の方を見つめながら聞いてくる。
「うーん、恥ずかしいから内緒。君は?」
「君が言わないんだったら、私も内緒かな!」
「えー。聞きたいなあ。君の願い事。」
「じゃあさ!2人で一緒に言わない?そしたらお互いの恥ずかしさも、ちょっとはマシになるんじゃないかな!」
あたかも名案を思いついたかのように誇らしげに言った。
2人で言ったところでお互いの願い事は聞こえるんだから、恥ずかしさなんて一緒に決まってるじゃないか。
とそんなことを言えるはずもない。
「それはいい案だね!そうしよう!」
「やった!じゃあさ。せーので一緒に言おうね!いくよ!」
『『せーの!!』』
流れる星に願いを込めた。
願い事なんて初めてだ。
人生に特に期待なんかしていない。
君がそばに居てくれたらそれでいい。
小さいけど、幸せなこと。
咄嗟に出た願い事だった。
『『いつか、また2人で星を見に来られますように―――。』』
これが、僕と君の物語のはじまり。その日から僕らはひとりぽっちじゃなくなった―――。