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鈴子の世界は音を立てて崩れて行った、この悼むべき犯罪の糸を引いていたのが寄りによって・・・十数年も一番自分の近くで一緒に事業を起こしていた腹心、増田剛だったとは・・・
―あの男は・・・最後まで先代の全てを自分のものにしたかったのね・・・―
「どうして増田が犯人だとわかったんです?」
「網目のちょっとしたほつれをほどいただけですよ、危うく見逃す所でしたけどね」
「増田剛の経歴を調べた所、彼は前科がありますね、この会社の経費横領の」
「ハイ・・・でもそれは先代が許して彼を手元に置いて改心させたんです」
大谷警部が小さく微笑んで言った
「人と言うものは同じ過ちを繰り返すものですからね・・・」
私もね・・・
鈴子は病室で寝ている浩二を見つめながら思った
・:.。.・:.。.
あの事件から二週間後
須磨の病院のベッドで浩二は身支度を整えていた、窓から差し込む朝陽が、神戸の海を金色に染めている・・・
腹の傷は縫合され、頰の傷は薄い絆創膏で覆われていた、痛みは残るがやっと退院できるので彼の心は軽い
ドアが静かに開き・・・鈴子が入ってきた、彼女の目は腫れていたが微笑みが優しい
「浩二・・・退院おめでとう」
「うん、ありがとう」
二人は暫く見つめ合った
「荷物・・・これだけ?」
「うん」
「私のリムジンで家まで送るわ」
浩二は優しく笑った
「僕はお抱え運転手に送り迎えしてもらう生活は無理だよ・・・ただの一般市民は電車があるさ」
二人はまた笑って暫くお互いを見つめ合った、やがて浩二が先に口を開いた
「鈴子・・・君を疑って申し訳なかった・・・」
鈴子が首を振った
「私も・・・傲慢だったわ・・・あなたを自分のものにしようとして・・・増田の・・・悪行にも気づけなくて」
大谷警部の、後日調査で全てが明らかになった、増田は定正の会社の保有株を全て売却しており、彼は金に困っていた、さらに鈴子への歪んだ愛と、浩二への逆恨みの憎悪が事件の根源だったと告げた・・・
良平の思い込みはやはり鈴子の傲慢な人への態度がそう思わせたのだろう、鈴子は良平には何も思っていないと浩二に言った
そして海に落ちた増田の遺体はまだ見つかっていない
二人は話し合った結果、これからは良い友達として時々お茶でも飲もうと言う事になった、いくら愛しあっていても、浩二の政治に対する情熱はやはり鈴子には理解できないし、浩二は鈴子の支配的な愛は受け入れられない
病院の入り口で二人は向かい合った
「それじゃ」
「ええ・・・さようなら」
小さな手荷物を肩にかけて足取り軽く駅に向かう浩二の背中を鈴子はいつまでも見つめた
やがて頬を伝う涙を拭いて、バッグからコンパクトを取り出し、涙の跡を隠すようにパウダーを叩いた、そしてメイクを完璧に仕上げ、駐車場にむかった
そこには鈴子のお抱え運転手が一礼して彼女を迎えた
「本社までいってちょうだい」
「かしこまりました」
鈴子はまたやってくる男っ気抜きの毎日を思い浮かべた、浩二との幸せを知ってしまった今、仕事だけのあの日々のなんと空虚に映る事・・・
しかし、それでも彼女は歩む・・・自分の道を・・・リムジンの後部座席から神戸の街並みをいつまでも眺めた
三宮のビル群は朝の光に溶け、港のクレーンが忙しく動く・・・街は生きている、そしてここは彼女の帝国だ、リムジンは伊藤ホールディングス本社の駐車場に到着し、鈴子が後部座席から姿を現した
駐車場に並ぶ大勢の黒と紺色のスーツの男性社員が一斉に頭を下げた、整然とした挨拶の波が鈴子を包む
彼女のハイヒールがアスファルトを鳴らし、後ろから大勢の社員がついて来る、足音がリズムを刻み、鈴子の存在を強調する
秘書の榊原が横から小走りに近づいてメモを片手に報告する
「会長、三宮銀行の頭取りが融資の件についてご連絡をしたいそうです」
鈴子は歩みを止めず、鋭い視線を前へ向けたまま答える
「明日のランチをご一緒しましょう、条件はこちらで決めるわ、金利は0.2ポイント下げて、担保は九州の新工場でと告げてちょうだい」
「かしこまりました」
また別の社員が息を切らせて追いつき、資料を差し出す
「会長、九州の狭川正肉会社を買収出来ました」
鈴子は資料を一瞥して即座に指示を飛ばす、声は低く、しかし鋼のように強い
「新しい会社の名前とロゴをデザイナーに作らせなさい、うちが関わっているのはなるべく控えめにね、表向きは地元企業として再生させるの、株主総会は来月、利益率20%アップをコミットして」
「承知しました」
さらに別の幹部がタブレットを見せながら並走する
「会長、海外展開の件でシンガポール側から追加提案が――」
「却下です、向こうの条件は甘すぎるわ、こちらのシェアを30%に引き上げて再交渉してください」
社員達の足取りが速くなり、鈴子のペースに合わせる、彼女の背中はまっすぐ、視線は未来を射抜く
涙の跡はもうない、代わりに女性起業家の炎が燃えていた、そしてエレベーターは最上階、鈴子の会長オフィスのロビーが開いた
ガラス張りの空間に、快晴の太陽が洪水のように降り注ぐ
「おはようございます、会長」
受付嬢が深く頭を下げて明るい声で挨拶する、鈴子は軽く頷き、歩みを進めながら答える
「おはよう、予定通り第二回会議室で今から会議です、資料は揃ってるわね?」
背筋を伸ばして会議室の上座へ座る鈴子・・・
重厚なテーブルに座る幹部達が一斉に姿勢を正す、鈴子は資料を広げ、鋭い目を光らせる
「それでは、今日の重要な議題から始めましょう」
彼女の声が部屋に響く、外では神戸の街が動き始め、彼女の帝国が再び回転す
先ほどの浩二の背中は遠い記憶のように思える・・・
鈴子は一人、頂に立つ
涙は力に変わり、愛は野心に溶け、そして心の中でつぶやいた
―これが、私の生きる世界―
・:.。.・:.。.
【エピローグ:30年後】
日本でも少数の富豪中の富豪が排他的に暮らす、兵庫県は芦屋の六麓荘町――
伊藤鈴子は八十歳の誕生パーティーに、伊藤ホールディングス関係者全ての人間に招待状を送った
二人の息子達は立派に成長し、それぞれ裕福な家庭から鈴子の息子にふさわしい令嬢を娶り、ますます伊藤一族は繁栄した
最近では聡明で定正の面影を持った孫に囲まれるのがもっぱら鈴子の楽しみではあったが、自分が経営から引退するにあたって、息子の嫁達が企画した誕生祭には心地よく承諾した
その夜は伊藤一族の他、祝いに駆け付けた大勢の招待客で、鈴子の美しい邸宅「葦翠館《しすいかん》」が溢れた
沢山の祝い客に囲まれて疲れた鈴子は、祝賀客に気付かれない様にそっと自室に引き下がった、大きくため息をつき、着物の帯をほどこうとした時、背後から孫の可愛らしい声がした
「おばあちゃま・・・お疲れになった?」
突然呼ばれて鈴子は振り向いた、いつの間にか家族全員が書斎に集まっていた、その時、小さな地震で部屋のシャンデリアが揺れた、窓の外で大地が低く唸り、突然の揺れが葦翠館の壮麗な自宅を震わせた
「キャァ!」
「母さん!」
「おばあちゃま! 大丈夫?」
咄嗟に二番目の息子の孫、久正が鈴子を抱き止めてくれた
―久正・・・私の孫達の中でも、この子が一番聡明だわ―
久正を見ると鈴子はいつでも定正と初めて会った時を思い出した、久正は十歳になろうとしていたが、この子は歳の割には早熟だった
ガラス窓がビリビリと鳴り、シャンデリアが微かに揺れる、鈴子はまるでその振動を子守唄のように受け止めていた
「大丈夫よ・・・おばあちゃまにとって、こんな地震の揺れは懐かしい子守歌の様なもの・・・」
「子守歌?」
久正が首をかしげて、キラキラした瞳で鈴子を見つめる、八十歳の鈴子は愛しい孫を抱きしめたまま・・・またゆっくり忘却の彼方へと意識を彷徨わせた
部屋がゆっくりと回り、亡霊達で埋まり始めた
懐かしい父・・・母があんなに美しく若く見える・・・兄も鈴子に微笑みかけている、そして百合も鈴子の前に姿を現した、その横には増田もいた・・・
そして、愛しい鈴子がなにより愛した男性達・・・
定正と浩二も微笑みかけて、鈴子に手を差し出している
しかし鈴子は小さく彼らに向かって首を振った
まだ自分はそちらへ行って仲間入りする準備は出来ていない
「でも・・・もうすぐよ・・・もうすぐそちらへいきますからね」
「おばあちゃま?」
鈴子は可愛らしい孫に向かって微笑んだ
「独り言よ・・・」
家族全員が見守る中、老婦人である鈴子は背すじをぴんと伸ばし
我が人生に悔いは無しとばかりに、誇りに満ちた微笑みを見せた
・:.。.・:.。.
【完】