明彦はスマートフォンを取り出し何やら打ち込み出した。
「麗、パスポートを渡してくれ」
「……明彦さん?」
何やら不穏な予感がして明彦を呼ぶが、その手は止まらない。
「早く」
せかされれば、麗はつい従ってしまう。
「はい」
麗は慌てて鞄からパスポートを取り出し、明彦に渡した。
引越し業者に渡すわけにはいかないため、持ち歩いていたのだ。
麗は、他人に見せないからいいやと思って適当に証明写真機で撮ったパスポート写真を思い出して後悔をした。
化粧くらいちゃんとすればよかった。折角、姉が使わなくなったメイク道具をくれていたのに、眉毛しか描いていない。
麗は姉や明彦と違い、普通の顔だ。
不細工ではないとは思いたいが、美形の姉や明彦と並ぶと霞むどころか、存在が見えなくなる。
姉は自分に似ていると褒めてくれるが、目元くらいしか似ているところはないと麗は思っていた。
「台北行きの飛行機はファーストクラスがないから、ビジネスになるがいいな?」
うん、勿論、よくない。
「待って、アキ兄ちゃん。私はお金ないし、LCCで行くからアキ兄ちゃんだけビジネス乗って」
LCCならば運賃もあまり高くないと聞いたことがあるので、麗でも出せるはずである。
「呼び方。それと、金のことは気にするな。よし、完了。時間がないから出るぞ」
「えっ、今? 嘘やろっ!」
まさか、今から行くつもりなのかと、麗は戦々恐々とするが、明彦は全く気にしてくれない。
なんでもスマートフォン一つで完結する時代に麗は完全に乗り遅れていた。
「でもでも、旅行の準備は??」
麗の服やらなんやらは、まだダンボールに入っているのだ。しかも、ちゃんとメモを貼ったりしなかったため、どれが服で下着かわからない。
「着替えなら空港か現地で買えばいいだろう?」
「そんなアホな!」
麗の悲鳴に似た突っ込みがリビングに響いた。
明彦の運転する黒の高級車で空港に降り立った麗は、まだ状況に着いていけていなかった。
「時間がない。チェックインするから着いてこい」
これまで飛行機に乗ったのは、費用を姉に出してもらい、高校の修学旅行として北海道へ行った先生に全てお任せの団体旅行のみで、明彦の言葉の意味がわからず、ただ後ろを追いかける。
お洒落な制服を着た綺麗なスタッフがカウンターの中にいる航空会社のブースに慣れた様子で明彦は入っていく。
エコノミー用の列に並んでいる人達を横目に、待つことなくビジネスクラス専用の通路を通るのだ。
明彦は慣れた様子で受付のお姉さんと話しているが、小市民の麗は、何だかズルしたようで居たたまれない気分になり、小さくなってしまう。
明彦から二人分のパスポートを預かったお姉さんに危険物を持っていないか確認されたが、勿論持っていない。
何てったって、麗の持ち物は今朝からずっと持っている仕事用の鞄のみだ。パスポートすら明彦に預けている。
ほとんど身一つと言ってもいい。
海外旅行に行くとは思えないほどの軽装である。
高校生の頃、家に姉の友人が持ち込んだレトロゲームの中で、勇者は最初のダンジョンに棍棒一本で行かなければならなかった。
多分、その勇者と今の麗は同じ気持ちだろう。
(これでは戦えない)
一方の明彦は、急に出張が入った時のために着替えなどを入れて常備しているシルバーのキャリーケースがあるようで、それをお姉さんに預け、何やら手続きをしている間、麗はチラチラとあたりを見渡した。
空港は麗にとって物珍しく、沢山の航空会社のブースがあり、それぞれに特色があるので、面白いのだ。
「麗、行くぞ」
「あっ、うん」
麗は手続きが終わったことに気づき、慌てて明彦を追いかけた。
「迷子になるなよ」
そう言って、明彦の手が、麗の手を握った。
驚いて明彦を見るが、明彦は数歩前を歩いていて顔が見えない。
頭を撫でてもらったことは何度もある。でも、手と手が触れ合ったことなんか、これまでなかった。
明彦の手は大きくて、固い。
麗の手がすっぽりと包まれていて指先だけが自由を保っている。
握り返すべきだろうかと麗は迷った。
その時、ちょうど前から家族連れが歩いて来た。
父親が幼い女の子と、母親が男の子とそれぞれ手を繋いでいて、微笑ましい様子だ。
(ああ、そうか、私、この子供達と同じ扱いなのね、そこまで幼くはないのに)
麗は納得して、指先を明彦の手につけた。
明彦の手の力が少し強くなった気がするが、そんなに迷いそうなのだろうか。
(うん、迷う。ぜんっぜん、わかんない。ここはどこ? 私は誰? いや、麗だけど……)
黙々と、それでいてキョロキョロの歩くと、直ぐに空港の奥にあるファーストレーンと書かれた場所についた。
明彦の手が離れていき、麗にパスポートとチケットを渡してくれる。
そこには、警備員が数人いて、ゲート式の金属探知機と荷物を調べる機械があった。
「アキにい、明彦さん、これって、セキュリティチェックってやつやんね? 悪いことをしてないか調べてもらうんやろ?」
海外の売人が、隠し持っていた麻薬の存在が見つかって裏に連行され、間抜けな言い訳をしている映像をよくテレビで見る。
「ここは麻薬以外も調べているから気を付けろ。お前が金の延べ棒を体に巻き付けているのがバレるぞ、大丈夫か?」
明彦のからかいの言葉に、麗は乗った。
「そうそう、 実は密輸業者にさっき声かけられて……て、もう! そんなわけないやん!」
麗は口では軽く怒って見せたが、嬉しかった。
だって、これはいつもの掛け合いだ。
姉が帰ってきたら、明彦との関係が元に戻ると感じられ、麗は安堵したのだった。
明彦はスマートフォンを取り出し何やら打ち込み出した。
「麗、パスポートを渡してくれ」
「……明彦さん?」
何やら不穏な予感がして明彦を呼ぶが、その手は止まらない。
「早く」
せかされれば、麗はつい従ってしまう。
「はい」
麗は慌てて鞄からパスポートを取り出し、明彦に渡した。
引越し業者に渡すわけにはいかないため、持ち歩いていたのだ。
麗は、他人に見せないからいいやと思って適当に証明写真機で撮ったパスポート写真を思い出して後悔をした。
化粧くらいちゃんとすればよかった。折角、姉が使わなくなったメイク道具をくれていたのに、眉毛しか描いていない。
麗は姉や明彦と違い、普通の顔だ。
不細工ではないとは思いたいが、美形の姉や明彦と並ぶと霞むどころか、存在が見えなくなる。
姉は自分に似ていると褒めてくれるが、目元くらいしか似ているところはないと麗は思っていた。
「台北行きの飛行機はファーストクラスがないから、ビジネスになるがいいな?」
うん、勿論、よくない。
「待って、アキ兄ちゃん。私はお金ないし、LCCで行くからアキ兄ちゃんだけビジネス乗って」
LCCならば運賃もあまり高くないと聞いたことがあるので、麗でも出せるはずである。
「呼び方。それと、金のことは気にするな。よし、完了。時間がないから出るぞ」
「えっ、今? 嘘やろっ!」
まさか、今から行くつもりなのかと、麗は戦々恐々とするが、明彦は全く気にしてくれない。
なんでもスマートフォン一つで完結する時代に麗は完全に乗り遅れていた。
「でもでも、旅行の準備は??」
麗の服やらなんやらは、まだダンボールに入っているのだ。しかも、ちゃんとメモを貼ったりしなかったため、どれが服で下着かわからない。
「着替えなら空港か現地で買えばいいだろう?」
「そんなアホな!」
麗の悲鳴に似た突っ込みがリビングに響いた。
明彦の運転する黒の高級車で空港に降り立った麗は、まだ状況に着いていけていなかった。
「時間がない。チェックインするから着いてこい」
これまで飛行機に乗ったのは、費用を姉に出してもらい、高校の修学旅行として北海道へ行った先生に全てお任せの団体旅行のみで、明彦の言葉の意味がわからず、ただ後ろを追いかける。
お洒落な制服を着た綺麗なスタッフがカウンターの中にいる航空会社のブースに慣れた様子で明彦は入っていく。
エコノミー用の列に並んでいる人達を横目に、待つことなくビジネスクラス専用の通路を通るのだ。
明彦は慣れた様子で受付のお姉さんと話しているが、小市民の麗は、何だかズルしたようで居たたまれない気分になり、小さくなってしまう。
明彦から二人分のパスポートを預かったお姉さんに危険物を持っていないか確認されたが、勿論持っていない。
何てったって、麗の持ち物は今朝からずっと持っている仕事用の鞄のみだ。パスポートすら明彦に預けている。
ほとんど身一つと言ってもいい。
海外旅行に行くとは思えないほどの軽装である。
高校生の頃、家に姉の友人が持ち込んだレトロゲームの中で、勇者は最初のダンジョンに棍棒一本で行かなければならなかった。
多分、その勇者と今の麗は同じ気持ちだろう。
(これでは戦えない)
一方の明彦は、急に出張が入った時のために着替えなどを入れて常備しているシルバーのキャリーケースがあるようで、それをお姉さんに預け、何やら手続きをしている間、麗はチラチラとあたりを見渡した。
空港は麗にとって物珍しく、沢山の航空会社のブースがあり、それぞれに特色があるので、面白いのだ。
「麗、行くぞ」
「あっ、うん」
麗は手続きが終わったことに気づき、慌てて明彦を追いかけた。
「迷子になるなよ」
そう言って、明彦の手が、麗の手を握った。
驚いて明彦を見るが、明彦は数歩前を歩いていて顔が見えない。
頭を撫でてもらったことは何度もある。でも、手と手が触れ合ったことなんか、これまでなかった。
明彦の手は大きくて、固い。
麗の手がすっぽりと包まれていて指先だけが自由を保っている。
握り返すべきだろうかと麗は迷った。
その時、ちょうど前から家族連れが歩いて来た。
父親が幼い女の子と、母親が男の子とそれぞれ手を繋いでいて、微笑ましい様子だ。
(ああ、そうか、私、この子供達と同じ扱いなのね、そこまで幼くはないのに)
麗は納得して、指先を明彦の手につけた。
明彦の手の力が少し強くなった気がするが、そんなに迷いそうなのだろうか。
(うん、迷う。ぜんっぜん、わかんない。ここはどこ? 私は誰? いや、麗だけど……)
黙々と、それでいてキョロキョロの歩くと、直ぐに空港の奥にあるファーストレーンと書かれた場所についた。
明彦の手が離れていき、麗にパスポートとチケットを渡してくれる。
そこには、警備員が数人いて、ゲート式の金属探知機と荷物を調べる機械があった。
「アキにい、明彦さん、これって、セキュリティチェックってやつやんね? 悪いことをしてないか調べてもらうんやろ?」
海外の売人が、隠し持っていた麻薬の存在が見つかって裏に連行され、間抜けな言い訳をしている映像をよくテレビで見る。
「ここは麻薬以外も調べているから気を付けろ。お前が金の延べ棒を体に巻き付けているのがバレるぞ、大丈夫か?」
明彦のからかいの言葉に、麗は乗った。
「そうそう、 実は密輸業者にさっき声かけられて……て、もう! そんなわけないやん!」
麗は口では軽く怒って見せたが、嬉しかった。
だって、これはいつもの掛け合いだ。
姉が帰ってきたら、明彦との関係が元に戻ると感じられ、麗は安堵したのだった。
搭乗してすぐ、キャビンアテンダントがウェルカムシャンパンを持ってきてくれたので、麗は明彦と乾杯した。
かんぱーい、とグラスを合わせて音を立ててはいけないという知識をテレビで教わっていなかったら、合わせに行っていたであろうくらいには浮かれていた。
何だろう、ふわふわする。夢みたいだ。
海外旅行はまだしもビジネスクラスに乗るなんて、麗の人生ではあり得ない贅沢である。
シートの横に机があり、収納にはしっかりしたヘッドフォン、液晶のついたリモコンを触ると、シートの前に設置された液晶に映画やアニメ、それにゲームまでが表示され、物珍しさについ麗は夢中になってシートを弄ってしまう。
そして何より麗を興奮させたのは、隣や前に座っている人に遠慮なく動けるほどシートが広くて独立しており、座り心地がいいことだった。
高校生の頃に乗ったエコノミーとはレベルが違う。
「アキ兄ちゃん、凄い! おっきい!」
麗は語彙力の無さを露呈しながらビジネスクラスへの感動を明彦に伝えた。
シャンパンも相まって麗のテンションはかなり上がっているのだ。
「こら、大きい声を出すな。それと呼び方。俺は麗の兄じゃない」
「ごめんなさい」
明彦に窘められて、麗はにわかにシュンとする。
「わかればよろしい。ほら、そろそろ離陸するから席を戻して、シートベルトをしろ」
「はーい」
教師と生徒のようなやり取りをさせてしまったと麗は後悔しつつ、名残惜しいが、席を戻し、シートベルトを着けようとした。
しかし、いまいち着け方がわからない。カチャっと音がしてロックはされたがベルトが緩い。
「俺がやるからじっとしてろ」
明彦が身をのりだし、麗のベルトを調整してくれる。
明彦の頭が麗の胸の辺りに来て、麗は何だか落ち着かない気分になった。
(アキ兄ちゃんが近い。こんなに近いのはこの前、キスしたときだ。この前? 違う。キスしたのは昨日のこと。昨日今日だけで沢山の事がありすぎて、時間の感覚がおかしくなってる)
柔らかそうな黒髪。広い肩。背中の筋肉が動いているのが服の上からでもわかる。顔も良ければ、体型にも恵まれているのか。
明彦の特別になりたいと、たくさんの女性達がチャレンジしては散っていく姿をずっと見てきた。
その内の数名、明彦と付き合う美女もいたが、別れるのはいつだって早かった。
いつも明彦がふられるのだ。
姉は、よっぽどセックスが下手だったの? と、明彦の元カノになった美女たちに軽口を言っていたが、どうやら違うらしい。
誰だったろうか、明彦は絶対に自分を特別にしてくれないから振ったのだと言ったのは。でも、そう言ったのは一人じゃなかった。
彼に好きになってもらえるよう、釣り合うよう必死で努力したし、大切にしてくれて、お金も、時間も、快楽も全部くれたけれど、愛してくれないなら、もういらない、と。
(愛されたい、……か)
この男が、誰かを心から愛する日はくるのだろうか。
明彦はもしかしたら、もう誰かを愛することを諦めているのではなかろうか。
だから、妹分として可愛がってきた麗がちょうどよかったのだ。
父親に売られかけていて、可哀想な妹分。元来面倒見のいい人だ。
明彦は離婚はないと言っていた。本気で、麗なんぞを妻として扱う気なのだ。
いずれ、ベッドの上で、この男の背中に手を回す日が……。
「できた」
カチャッと音がして明彦が離れていく。
「あっ! ありがとう」
(何を考えてるんや、私は!)
顔を上げた明彦と目を合わさないように、麗は慌てて俯いた。
頬が熱くなっている気がして、麗は手で扇いだ。
馬鹿なことを考えたものである。
「あ、ありがとう。ごめんね、全部やってもらって」
「別に気にしなくていい。俺がやりたいから、やっただけだ」
それは、麗が見たことがない世界。
でも、きっと明彦には日常をちょっとお裾分けしてくれたような物なのだろう。
麗は姉の麗音のような特別な人間ではない。
だからこんな体験は、明彦という男と同様に相応しくない。
「それでも、ありがとう」
だから、感謝して精一杯楽しまなければ、勿体ない。
思い出は、この世にある沢山の素敵なものの中で、麗でも簡単に手に入る、唯一なくならないのだから。