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ぎこちなく、でも、丁寧に応急処置をするグレンシスとは対照的に、ティアは、この時間が早く終われと必死に神に祈っていた。
3年前のあの日の出来事をずっと忘れないでいるように、これもまた、ティアにとって、何度も思い返しては心の底にしまう──かけがえのない時間なのだ。
好きな人の手当てをするのではなく、されている。
人に癒しを与えてばかりいるティアには、もう死んでもかまわないと思えるような極上のひととき。
ただ素直にそれを甘受できないのは、鳴り止まない心臓の音がグレンシスに聞かれてしまうかもしれなくて、怖いからだ。
グレンシスは、アジェーリアの命令で、自分の応急処置をしているだけ。それ以上の感情など持ってはいないはず。
億に一つ、いや、兆に一つ、違う気持ちを持っているのなら、それは、独り相撲で怪我をした自分を可哀そうだと思っているだけだ。
だから、まかり間違っても、この時間にときめいてはいけない。ドキドキなんてしてはいけない。
そう自分に言い聞かせても、やっぱり湧き上がる特別な想いはどうしたって消すことができない。
本当に、本当に、困ったものだ。感情を消すのは得意だったはずなのに。
仕方がない。しょうがない。どうせ───これはティアにとって魔法の言葉だ。
このどれかの言葉を胸の中で呟けば、これまでは心を落ち着かせることができていた。それ以上のものを求めないで済んでいた。
それなのに、今はどれだけ魔法の言葉を使っても、全然気持ちが落ち着かない。
「ティア、他に痛むところはあるか?」
「な、ないですっ」
食い気味にティアが首を横に振っても、グレンシスは納得しなかった。
そりゃそうだ。さっきからティアは、嘘ばかり吐いているのだから。
「そうか。なら、確認させてもらうぞ」
「ひぃっ」
ティアが涙目になっても、グレンシスは容赦なかった。
大きな手のひらでティアの頭にコブができていないか撫でまわしたかと思ったら、今度は額に触れる。
「痛っ」
運悪く、青年の傷を移した箇所に触れられ、尖った痛みを覚えたティアは、うっかり声を上げてしまった。
すぐさまグレンシスが、半目になる。
「さっき転んだところか?ほら、ちゃんと見せてみろ」
グレンシスは、ティアの前髪を持ち上げて顔を近づけた。ティアの目の前に、眩いばかりの彼の顔が映る。
今までにないほどの至近距離にいるグレンシスの綺麗な形の眉は歪み、眉間には深い皺が刻まれている。
だけれどもブルーグレーの瞳は不安げに揺れている。それは自分を心配しているからで……。
「腫れてはいないようだが、赤くなっているな」
独り言を呟いたグレンシスの息が、ティアの頬に触れる。
ビクッと身をすくませたティアを安心させるように、グレンシスが優しく頬をなでる。
「安心しろ、見るだけだ」
ふっと笑みを浮かべたグレンシスは優しさがにじみ出ていて、ティアはもう耐えられなかった。
「……うっ、ううっ」
ティアの翡翠色の瞳から、大粒の涙が零れ落ちた。
それを見たグレンシスは、ぎょっとして手を止めた。
「す、すまない……!痛かったか?」
狼狽したグレンシスに、ティアは渾身の力を込めて睨みつけた。
(移し身の術を使って、傷を移した箇所なんだから痛いに決まっている。だから、触るなっ。馬鹿、馬鹿、馬鹿っ、馬鹿っ、馬鹿!馬鹿!馬鹿!!馬鹿!!)
ありったけの暴言を心の中でぶつけてもグレンシスは怯むことなく、ティアの頬に伝った涙を指先で拭った。
更にティアの瞳には険しさが増す。
引き受けた傷の痛みなんて、ティアにとって大したことはない。この後、落胆する気持ちを想像すると、胸が痛くて仕方がないのだ。
そして思いを口にした途端、グレンシスがあっさり自分から離れてしまうのが怖いし「勘違いさせて悪かった」なんて謝罪されたら、自分がどうなってしまうかわからない。
だからティアは、グレンシスから目を逸らして、また嘘を吐く。
「……痛くない……です。でも、離れてください」
「なぜ?」
間髪入れずにグレンシスに問われてしまった。全身に鳥肌が立つほど優しい声音で。
恐る恐るグレンシスを見ると、その声音とは真逆の表情を浮かべていた。
ティアは、頭を抱えるくらい意味がわからなかった。
どうして、グレンシスは傷付いた顔をするのだろう。
どうして、触るのが当たり前のような顔をするのだろう。この馬鹿!!
感情が爆発する。思いっきり叫びたい。そんな衝動に駆られたティアは、あらん限りの力でグレンシスを突き飛ばした。
けれど、グレンシスはびくともしない。それどころか、突き飛ばした手を握られてしまった。
「ティア、どうして触れて欲しくないのか答えろ」
怒気をはらんだグレンシスの言葉に、ティアはびくっと身をすくませる。
そんな二人のやり取りを間近で見ていたアジェーリアは、このままでは埒が明かないと判断して、コホンと小さく咳ばらいをする。
「お主ら、いい加減にせい。傍から見たら、これは──」
恋人同士がじゃれ合っているだけだぞ。そう言いかけたアジェーリアだが、突如、闇夜から姿を現わしたトルシスのせいで、吞みこむ羽目になった。
「隊長っ、大変ですっ」
どんな走り方をしたのかわからないが、頭に葉っぱを付けたまま、トルシスはグレンシスを見た瞬間、声を張り上げた。
「どうした?」
グレンシスはここでやっとティアから手を離し、トルシスの方を向いた。その表情は、露骨に苛ついている。
「………それが……その……」
グレンシスの表情に気圧されたのか、トルシスは歯切れの悪い言葉を紡ぐだけ。
何かを感じ取ったグレンシスは、トルシスに厳しく問いただすことよりも、周囲を見渡すことを選んだ。
「来る……!」
危険を感じたグレンシスは、すぐさま立ち上がる。
そして鞘に納めた剣の柄に手をかけた瞬間、地を蹴る複数の馬蹄の音が、ものすごい勢いでこちらに近づいてきた。