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二日後。
三連休の二日目。
俺と馨の目の前には、桜。
「ここに振り込んでください」と言って、桜は海外の口座番号を記したメモを差し出した。
俺も馨も受け取らなかった。
「金は、振り込まない」と、俺はソファで腕組みをして言った。
「は?」
「お前に、金は渡さない」
「じゃあ! マスコミに買ってもらうわ」と言って、桜は勢いよく立ち上がった。
「そんなことは、させない」
「なによ、エラソーに!」
「馨が勲の愛人だったことは、ない」
「私が嘘を言ってるって? 確かに見たわよ! お姉ちゃんが——」
「わかってる」と、馨が言った。
「桜が見たことは、事実よ」
「ほら! やっぱり——」
嬉々として声を上げる桜を遮り、俺は言った。
「見たのか? 馨と勲のセックスを」
「はあ? 見るわけないじゃない! 二人が何をしようとしているのか、小学生でもわかったわよ」
「見てたら良かったんだ」
「どういう——」
「見てたら、馨が金を突き返して逃げ出したとわかったんだ」
「そんな戯言を信じたの? 雄大くんて意外と馬鹿なんだ」
「桜!」と、馨が戒める。
「気持ちの悪い呼び方をするな」
「お義兄さん、とでも呼ばれたいの? お姉ちゃんの秘密を知っても、まだ結婚するつもり?」
「お前と亨に、血の繋がりはない」
俺はズバリ、言った。
桜が目を吊り上げて俺を睨みつける。
「お前は松野准一の娘じゃない」
「そんな嘘を信じると思う?」
強がって見せているが、桜の声は震えていた。
「嘘じゃないの」と、馨が言った。
「なら……誰が——」
馨がギュッと目を閉じ、俯いた。
三年前、馨が高津と別れてまで守った秘密。どんなに憎まれても、つき続けた嘘。
それが今、明かされる————。
俺はテーブルの上に、一枚の紙を置いた。皺のある、少し古い紙。
桜はその紙に視線を落とし、目を見開いて、手に取った。
「う……そ」と、桜は紙を凝視し、呟いた。
DNA検査の結果が記されていた。
那須川勲と那須川桜が、99.8%の確率で父子であると。
「お前の母親は、松野と結婚する前にまだ学生だった勲と付き合っていたらしい。余命が短いと悟った祖父に別れさせられ、松野と結婚してからも、二人の関係は続いていた。そして生まれたのが、お前だ」
放心状態の桜の耳にどれだけ届いているかはわからなかったが、俺は続けた。
「松野は何も知らなかったんだろう。お前を実子として籍に入れた。だから、お前とお前の母親は松野の遺産を相続できた」
「遺産……?」
まだ小学生だった桜が、松野の遺産のことを知るはずもない。自分の実の父親が誰なのかを隠され続けた、大人の事情など。
「お前の母親は松野の遺産を手にし、勲と再婚した。勲はお前が実の娘だと知っていたが、遺産を受け取った母親から口止めされていたんだろうな。実の父親であることを、お前には隠し続けた」
「知って……た……の?」と、桜が声を震わせて言った。
その場に、崩れ落ちる。
「桜……」
「私……だけが知らなかった……の?」
瞬く間に桜の目に涙が溢れ、瞬く間に零れ落ちた。途絶えることなく涙が頬を伝い、床に滴る。
「ごめん……桜」
「何が?」
「桜……」
「何が、ごめんよ! いつから知ってたの? お母さんが再婚した時から? お母さんが死んだ時?」
「桜!」
「私だけ——何も知らずに……」
桜が眉間に皺を寄せ、苦しそうに目を閉じた。
「私……実の父親に抱かれようとしたの————?」
勲が死んだ夜。
桜は金欲しさに下着姿で勲のベッドに潜り込んだ。長く患っていた勲に女を抱く能力はなく、桜はベッドから追い出された。仮に能力があっても、実の娘に触れるなど、正気の人間なら絶対に出来ない。それでも引き下がらなかった桜は、部屋を飛び出した勲に言った。
『どうしてお姉ちゃんは良くて私はダメなのよ!』
勲は階段上で立ち止まり、振り返った。
『私、知ってるんだから! お義父さんとお姉ちゃんの関係』
耳を疑ったろう。
『お金渡して、お姉ちゃんとヤッてったんでしょ!? なら、私にもちょうだいよ! ヤらせてあげるから!!』
勲はショックと混乱のあまり、頭を抱えて蹲った。
『お金くれないなら、お姉ちゃんがお義父さんの愛人だったことバラしてやる!』
ちょうどその時、発作が起きたのだろう。
勲は胸を抱え、階段から落ちた——。
勲が実の父親であると知れば、桜が傷つくことは目に見えていた。
知らなかったとはいえ、実の父親を誘惑し、脅し、死のきっかけを作ってしまった。
しかも、それだけでは終わらず、桜は馨をも脅した。
馨が桜に真実を隠し続けたのは、桜を傷つけないためと、高津と別れさせられたことへの恨みから。
馨と桜。
二人に、罪はない。
身勝手な大人たちに人生を弄ばれただけだ。
大人たちの嘘に翻弄された、被害者だ。
だが、二人がその現実を受け入れるには、時間が必要だろう。
全てを知った桜は、抜け殻のように虚ろな目で、ただ涙を流していた。
こうなることを、馨は恐れていた。
自暴自棄になった桜がどうなってしまうのか、馨はひたすらにそれを案じた。
ポタッポタッ……と、桜の涙が床に落ちる音だけが響く。
馨は桜にかける言葉を見失い、ただ黙って妹を見つめていた。
俺は静かに立ち上がると、リビングのドアを開けた。そして、今の桜に必要な唯一の男を招き入れた。
「桜……」
その声に即座に反応し、桜は男を見た。
「亨……」
桜の最愛の男。
俺は彼を見た時、驚いた。
義妹に手を出し、金を貢がせる下衆野郎だと決めてかかっていたから。だから、気の弱そうな優男が現れて、本当に驚いた。
癒し系の好青年。
亨はうっすらと目に涙を浮かべ、迷わず桜を抱き締めた。
「帰ろう、桜」
桜は亨の腕を振り解こうと暴れたが、亨は桜を抱き締めて離さなかった。
「放してっ! 私、もう——」
「一緒に帰ろう!」
「嫌だ! 私なんか——」
桜は幼い子供のように両手両足をバタつかせるが、亨の腕からは逃れられなかった。華奢に見えるが、そうでもないようだ。
俺は馨の肩を抱いて、リビングを出た。
俺が使っている部屋で、桜と亨が何らかの答えを出すのを待った。
昨日、俺は亨に電話で全てを話した。それらを桜にも打ち明けることも。そして、今朝早く、亨がマンションのインターホンを押した。
亨は俺と馨に懺悔した。
自分を捨てた父親に復讐したくて桜を利用したこと、次第に本気で桜を愛したこと、それを認めるのが嫌で桜のしていることを黙認していたこと。
『桜を追い詰めたのは俺です』
亨の結婚はやはり偽装で、相手の女性とはひと月ほど前に離婚が成立していた。
日本食レストランのオーナーに身元保証人になってもらい、就労ビザを取得できたという。
『どんなに時間がかかっても、必ず桜を幸せにします』
俺と馨は寄り添って、ただ時間が過ぎるのを待った。
馨は、祈るような想いだったろう。
一時間ほどして、ドア越しに亨の声がした。
「桜と帰ります」
「そうか」と、俺は答えた。
「いつか、過去を吹っ切ることが出来たら……また来ます。桜と一緒に」
「ああ……。待ってるよ」
二人の足音が遠ざかり、玄関のドアが開き、締まり、ジーッ、ガチャンとロックがかかるまで、馨は俺の腕にしがみついていた。
桜は、馨にとっては唯一の家族。
どんなに憎み合っても、関わり続けてきた。
だが、それももう終わり——。
桜は馨の手を離れ、本当の意味で亨の元へと飛び立っていった。
馨の喪失感は計り知れず、俺は見守ることしか出来なかった。
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