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馨が俺の元を去って三日後。
俺は退院した。
一週間後の診察まで、安静にすると約束して。
一秒でも早く退院しようと、感情に蓋をして、ひたすらに医者の指示通り務めた甲斐があったというもの。
マンションは馨が越してくる以前の姿に戻っていた。馨がいた形跡の全てが消えていた。ベッドに、残り香さえなかった。
馨につけていた護衛は、いつの間にか俺に張り付いていた。
「たいした女だよ、お前の婚約者」と、安永が言った。
聞けば、馨は護衛の男二人に引っ越しを手伝わせた上に、自分を空港まで送らせて、後は俺を守るように言ったらしい。断った二人に、海外出張費を貰っていないのなら国内で出来る仕事をしろ、とも。
二人は馨が飛び立つのを見送り、その足で俺の病室前に立った。
俺の口座には、馨に渡した結納金がそっくり戻っていた。
会社も辞めていた。
引継ぎは抜かりなく、メールで終えていた。厳密には有休を消化中だが、必要な書類は全て提出されていた。
俺が言っても解約を拒んだアパートは、塵一つ落ちていなかった。
馨が、消えた————。
映画や小説ならば膝をついて絶望に打ちひしがれるか、酒に溺れて現実逃避するところだろう。
そうしたいと思わなかったわけではないが、馨の行動が俺を嫌いになったからではないとわかっていて、時間を無駄にするほど愚かではない。
馨を失った寂しさを他の女で紛らわすほど、弱くもない。
取り戻す————!
俺を突き動かすのは、馨への愛情と執着、自尊心、そして、嫉妬。
退職に当たって、馨は連絡先に高津昊輝の名前と電話番号を残していた。この家の荷物も、高津昊輝のマンションに運んだという。
馨が高津とよりを戻したとは思えなかった。
馨はそんな女じゃない。
そう思いたいだけかもしれない。
たとえ、馨と高津のよりが戻っていたとしても、取り戻す。
必ず——!!
*****
「馨は無事か?」
「無事です。今朝も電話しましたから」
「俺のことは?」
「退院したことを伝えたら、安心してました」
「ここに来ることは?」
「言ってません。馨の親友、やめたくないですから」
姉さんがコーヒーのカップを俺と平内の前に置いた。自分のカップを持って、俺の斜向かいに座る。
「お前は俺の味方だと思っていいんだな?」
「——馨の味方です。馨は部長と一緒にいた方が幸せになれると思うから、来たんです」
俺はゆっくりとコーヒーをすすった。
くしゃみをしたり、急に動くと、まだ傷が痛む。
「お前の判断は間違っていない」
「ちょっと、雄大。なんなの、その偉そうな物言いは。彼女は部下として来たわけじゃないでしょう。どちらかと言えば、あんたが頭を下げて協力してもらうんじゃないの!?」
姉さんが痺れを切らして、言った。
「わかってるよ」と、俺は言った。
昨日、退院直後に会社や馨のアパートに出歩いたせいで、身体が悲鳴を上げた。
外で会うつもりだったが、平内には家に来てもらうことにして、姉さんも呼んだ。
姉さんは事件の前日に馨と会っていたし、事件の後も会っていたから。
何でもいいから、馨の行方と真意を知る手掛かりが欲しかった。
「馨を取り戻したい。その為に協力してほしい」
俺は平内に言った。
「出来る範囲で」と、平内は言った。
「馨が部長と別れることを本気で望んでいるのであれば、それがわかった時点で終わりです」
「わかった」
「とりあえず! 思惑はどうであれ、馨ちゃんが大事だってことでは、意見が一致してるわね」
姉さんは、馨が消えたことを両親に話した。
両親は馨への態度に少しの罪悪感を持っていたらしいが、息子の命を危険に晒される原因であることへの怒りは消えていなかった。
姉さんは、今回のことに馨は関知しておらず、俺が馨可愛さに突っ走った結果だと話してくれた。
両親がそれに納得できるのには時間が必要だろう。
馨を取り戻してから、ゆっくり説得すればいい。
「馨は妹に会えたのか?」
「はい」
「そもそも、馨ちゃんは何しに妹に会いに行ったの?」と言いながら、姉さんは平内が持って来たクッキーに手を伸ばした。
「事件のことと、黛との婚約解消を話すためだろ」
「わざわざ? ってか、妹さんが留学してから、馨ちゃんは会いに行ってたの?」
「いいえ。馨も行かなかったし、桜ちゃんも帰って来てませんでした」
「黛は?」
「行ってないと思います」
黛が桜の元に逃げないよう、警察には伝えてある。黛が出国した記録はない。
「若い子が婚約者と一年も会わずにいるなんて、変じゃない? 黛が若くて可愛い桜ちゃんを放っておくのも」
確かに、そうだ。
黛にしてみれば、立波リゾートを手に入れる為には、桜と結婚する必要がある。頻繁に会いに行って、桜の心を繋ぎ止めておこうとするはずだ。
「そもそも、桜ちゃんを留学させたのも自然消滅を狙っての事じゃないの?」
「あ、いえ。黛と付き合い始めた桜ちゃんがすぐにでも籍を入れる勢いだったから、冷静にさせるために留学させたんです。せめて二十歳までは思いとどまるように」
「桜ちゃんはそれをすんなり受け入れたの?すぐにでも結婚したい男と離れることを?」
平内は視線を手元に落とし、唇を噛んだ。その様子から、何か気になることが、それも言いにくい何かがあることはわかった。
「それは私も不思議でした」と言って、平内は顔を上げた。
「留学を提案したのは私ですけど、正直桜ちゃんがすんなり受け入れるとは思わなかったんです。だけど、一週間後には留学の手続きを始めたと聞いて、驚きました」
「どうやって妹を説得したかは聞かなかったのか?」
「聞きました。けど、馨は話し合って理解し《わかっ》てもらったとしか教えてくれませんでした」
「桜ちゃんがそんなに物分かりがいいなんて、想像と違うわね。もっと、わがままなお嬢様なのかと思ってた」
姉さんがまたクッキーに手を伸ばす。
気に入ったらしい。
俺もつられて一枚、口に入れた。噛むとサクサク音がして、すぐに溶けた。
甘ったるくなくて、食べやすい。
「私もそう思ってました。馨が手を焼くくらいですし」
「甘やかされて贅沢に育ったとは聞いたが、手を焼いたとは聞かなかったな」
「ちょっと待って。馨ちゃんと桜ちゃんは仲が悪いのよね?」
「は?」
「え?」
俺と平内が、同時に聞き返した。
「馨ちゃん、言ってたわよ? 妹と仲がいいとは言えないから、私と雄大が羨ましいって」
初耳だった。
平内も、初耳だったらしい。驚いた顔をしている。
「あの馨ちゃんがそんな風に言うんだから、よっぽど反りが合わないんだろうと思ったけど?」
「なんか……聞いてた印象と違うような……」
「はい……」
三人三様に考え込んだ。
俺は黛から桜を守りたいと聞いた時、甘やかされて育った世間知らずの桜を守りたい馨の姉心だと思った。実際、黛は男からしても下衆な野郎だし、姉の馨がなびかなかったから妹を誑し込むような奴だ。年の離れた、たった一人の妹を近づけたくないと思うのは当然だ。
だが、平内の話では、馨は桜の扱いに手を焼いていた。姉さんの話では、姉妹仲は良くなかった。
どういうことだ……?
仲が良くないとはいえ、血の繋がった姉妹なのだから、下衆男から守ってやりたいと思ってもおかしくはない。
優しい馨のことだ。
けれど、そんな馨の説得に応じて留学までするほど桜が素直なら、『手を焼く』という表現は適当ではない気がする。
それから、もう一つ。
馨は、黛が、桜が処女ではなかったことをネタに結婚を強要しているかのように言った。半裸の桜の写真も撮られていると言っていた。
それなら、黛が逮捕されていない今はまだ、安心できないはず。
こうしている間にも、黛が桜の写真をバラ撒く可能性がある。それこそ、ネットを使えば瞬く間に全世界に拡散できる。無修正で立波リゾートの関係者だと書き込みするだけで、スキャンダルだ。
馨がそんなことにも気がつかないとは、思えない。
「順を追って整理しましょう」と、姉さんが言った。
俺と平内が頷く。
「事の発端は、『那須川勲氏の事故死』で間違いないかしら?」
「はい」と、平内が答えた。
「義父が亡くなって、馨と桜ちゃんの結婚に立波リゾートの未来が託されることになった。それが原因で、馨は婚約者の高津さんと別れました」
亡くなった義父の第一発見者が桜であったことを話そうか、一瞬考えた。
そうなれば、馨と高津が現場を偽装したことも話さなければならない。
馨と高津が共犯者だと——。
そこまで話せば、必然的に桜が勲の実の娘であることも話さなければならなくなる。
馨が必死に隠している事実を、俺の口から告げていいものか……。
「偶然、馨の素性を知った黛が馨にアプローチし、相手にされないと妹の桜ちゃんに標的《ターゲット》を替えた。世間知らずの桜ちゃんは、年上でそれなりに収入もある黛に夢中になり、婚約した」
ふと、思った。
桜と勲の確執の発端となった、桜の恋人はどうなった?
桜が金を渡していた、桜の初めての相手。そいつの存在があったからこそ、馨は桜が勲を突き落としたのではと考えた。
桜と恋人はいつ、別れた——?
勲が亡くなった後?
黛と知り合う前? 知り合った後?
『馨は、桜が突き落としたと思っているのか?』
俺が聞いた時、馨は答えなかった。
まさか————。
「馨は二人の結婚を阻むために、桜ちゃんを留学させた」
「それだけ聞けば、妹を想う姉の行動よね? けど、実際には、姉妹の仲は悪く、馨ちゃんは妹の扱いに手を焼いていた……」
「はい」と、平内が頷く。
「高校時代はどうだったんだ?」と、俺は平内に言った。
「平内と馨は、同じ高校だったんだろう?」
「あの頃、馨から家族の話を聞いたことがなかったんです。『妹がまだ小さいから、友達を家に呼べない』ってことくらいしか。異父姉妹ってことも、入社してから聞きましたし。家族とうまくいってないのかなとは思ってましたけど……」
「うまくいってない?」
「はい。あまり家に居たがらなかったから」
「馨は以前、『桜の父親はとても優しい男性《ひと》で、自分のことも実の娘のように可愛がってくれた』と言っていたぞ?」
「そうなんですか?」と、平内。
「なんか……矛盾してるわよね」と、姉さん。
「はい……」と言って、平内が考え込んだ。
その矛盾を解消できる人間は、馨の他にはたった一人。
本当なら、顔も見たくない。名前を口にもしたくない。
「平内、頼みがある」
けれど、馨の為だ。
「はい?」
馨を取り戻すためだ。
「高津昊輝に会わせてくれ——」