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タイミングがいいことに、翌日、高津は非番だった。
本当に会うのかと、姉さんと平内に十回は聞かれた。
話し合いに立ち会う、とまで言われた。
聞きたいことがあるだけだ、と断った。
殴り合いにはならないし、今の俺にはその体力もない、と。
込み入った話なだけに、俺が高津のマンションを訪れることにした。
姉さんはマンションの前まで付き添い、話が終わるまで近くのカフェにいると言った。
三十も半ばになって、恋敵と会うのに姉に付き添われるなんて、情けないなんてもんじゃない。
だが、泣き言なんて言っている場合じゃない。
そもそも、婚約者の胸の内を知るために、元彼に会いに来ている時点で自尊心《プライド》もなにも、あったもんじゃない。
馨を取り戻すためだ。
俺は、自分にそう言い聞かせた。
それに、敵を知っておくいい機会だ。
「お休みのところお邪魔してすみません」と、俺は仕事用の声色で言った。
「槇田雄大です」
「高津昊輝です。どうぞ上がってください」と、高津が玄関ドアを大きく開けた。
「傷の具合はいかがですか?」
「もう、大丈夫です」
馨から、俺の事や事件のことをどう聞いているのか、気になった。
警察官である高津にしてみれば、素人が馬鹿な真似をしたと思うだろう。
通されたリビングは物が少なく、生活感もなかったが、見覚えのあるソファが目に入った。
ブラウンで布張りの、三人掛け。
馨のアパートにあったものだ。
「ソファ《それ》、好きなんですよ。馨も、俺も」
柔らかい口調で挑発され、俺は歯を食いしばった。
仕事なら、どんな挑発も嫌味も笑って受け流せるのに、馨のこととなると驚くほど余裕がなくなる。
「さて、何からお話ししましょうか」と言いながら、高津は俺の前にカップを置いた。
彼が俺の正面に腰を落ち着けるのを待って、俺は口を開いた。
「馨と寝たんですか?」
「……ソレからですか」
「ソレからでしょう。俺とあなたの立場をはっきりさせないことには、話は始まらない」
俺は高津に鋭い視線を向けた。
馨の過去を聞きたくて訪ねたが、彼が馨に触れたのなら状況は変わってくる。
「寝た、と言ったら?」
「話はありません」
「怪我を押してもっとも会いたくない俺に会いに来たのに、手ぶらで帰るんですか?」と言って、高津がコーヒーをすすった。
「馨とあなたの関係が『過去』であることが大前提ですから。俺は、誰かと女を共有する趣味はないですから」
「馨よりプライドが大事ですか?」
「いえ? 馨もプライドも捨てません」
実体化できるのなら、俺と高津の間で散る火花は天井まで燃え上がり、瞬く間に部屋全体を炎が包むだろう。
「寝てませんよ、まだ」
『まだ』という余計な一言が、燃焼促進剤となって、更に火花を熱くさせる。
「これからのことはわからないでしょう?」
「そうですね」
今は、彼の言葉を信じるしかない。
そして、彼が馨に辿り着く最短ルートであることは、紛れもない現実。
俺は怒りを鎮めるべく、熱くなった身体に熱いコーヒーを流し込み、熱の理由をすり替えた。
「馨から俺の怪我の原因は聞いているんですよね?」
「はい」
「それに至る経緯は?」
「聞きました」
「では、黛賢也の存在を知っていながら放置していたんですか?」
「……そうきましたか」
馨が高津と別れた経緯と、今も連絡を取り合っている事実を知って、疑問に思っていた。
そこまで馨を想っているのなら、なぜ馨が黛の近くにいることを許す?
「馨は頑固ですから」
元彼と意思の疎通が出来るなんて腹立たしいことだが、わかってしまった。
高津は馨に再三警告したのだろう。けれど、馨は聞き入れなかった。
黛から離れるために会社を辞めるというのは、抵抗があったのは当然だ。
「警察から聞きました。黛はずっと麻薬取締法違反の捜査の対象だったが、確たる証拠が掴めなかったのに、俺への殺人教唆で指名手配になった途端に、麻薬売買と所持、使用の証拠が出た、と」
「そうですか」
「俺の事件がなくても、黛の逮捕は時間の問題だったんじゃないんですか?」
「どうでしょうね。同じ警察でも、管轄外の捜査情報はわからないんですよ」
とぼけやがって——!
安永は警察にツテがある。だから、高津が持ち込んだ捜査資料が、黛の逮捕状を取る決め手となったことは聞いていた。
立場が違うとはいえ、俺よりスマート且つ確実に黛を排除出来た高津にムカつく。
「ここだけの話、俺個人としては黛の罪状が一つでも増えてくれて、安心しています」
「警察官らしからぬ発言ですね」
「だから、ここだけの話ですよ」
会う前から、気に入らなかった。
馨が結婚まで考えた元彼で、今も連絡を取り合っていて、馨の最初の共犯者。それだけでも、俺には黛の次に排除したい人間なのに、会ってみると、黛以上に気に入らない。
もっと、嫌な男なら良かったのに——。
馨が愛した男だ。
くだらない男のはずがない。
しかも、更にムカつくことに、高津と馨は似た空気を持っている。
話していると、わかる。
穏やかだが強さが垣間見える。
俺にはない、空気。
「単刀直入にお聞きします」
ネガティブな思考を払拭し、俺は本題を口にした。
「あなたが知っていて、俺が知らない馨について、教えてください」
「具体的に、何を知りたいんですか?」
「全て、です。馨と桜の関係、馨とあなたが別れた経緯、馨が今もあなたを頼る理由も」
俺が訪れてから約二十分。高津から穏やかな笑みが消えた。
「それを知ることで、馨を失うことになっても?」
「俺は、あなたとは違う」
高津が初めて、敵意むき出しに俺を睨みつけた。
高津にしても、俺とこうして対峙するのは望むところではないはずだ。
俺が帰ったら、玄関に大量の塩を撒かれるかもしれない。いや、帰ってからならまだしも、正面から叩きつけられても文句は言えない。
高津は軽く息を吐いた。
「馨と桜は憎み合っているんです」と、高津は話し始めた。
「若くして馨を産んだ母親は育児を放棄し、馨は祖父母に育てられました。厳しく。そして、祖父母の他界と同時に、それまで数回ほどしか顔を合わせたことのない母親と暮らすことになったんです。母親の夫と共に。馨は嬉しかったそうです。ぎこちなくても、『家族』が持てたから。けれど、間もなく妹が生まれ、馨は居場所を失ったそうです」
「可愛がってもらったと言っていましたが?」
「俺もそう聞きました。けど、当時の話を聞けば、馨の言う『可愛がってもらった』というのは、『虐げられなかった』という程度の意味合いだったようです。両親の関心は桜にしかなく、馨が家にいてもいなくても気づかれることもなく、成績が良くても悪くても褒められも叱られもしなかった」
驚いた。
現在の馨を知っている人間は、皆驚くだろう。
複雑な環境で育ち、あれほど真っ直ぐで優しい人間になれるものか。
馨を愛しているという欲目なしでも、今時珍しくスレれていない。
だが、一つ納得できた。
平内が言っていた、学生時代の馨が『家に居たがらなかった』理由。
「多感な学生時代をそんな環境で育ち、二十歳になった馨は家を出ようとしたそうです。けれど、義父が亡くなって、母親が再婚し、タイミングを逃してしまった。結局、馨は大学を卒業するまで家を出られませんでした」
言葉尻が変わったことに気付いた。
恐らく、この頃から馨と高津は付き合い始めたのだろう。馨の年齢から逆算しても、ちょうどだ。
ふと、まったく違うことを考えた。
もうすぐ馨の誕生日だ。
「母親が亡くなり、就職してすぐに独り暮らしを始めた馨は、実家とは疎遠になっていました。付き合っていた四年間、馨から家族のことを聞くこともなかった。結婚の報告に行く時まで、実家の場所さえ知らなかった。俺はそのことを疑問にも思わなかった」
高津の、テーブルの上で組んだ両手に力がこもる。
「血の繋がりの他に理由があったってことですか?」
「————那須川勲に触られたことがあったそうです」
「それは——」
「俺と馨は付き合い始めて三か月くらい、キス止まりでした。以前に少し乱暴に扱われたことがあって怖いと聞いていたから、ゆっくり馨が受け入れてくれるのを待ったんです。けど、まさかトラウマの原因が義父だとは知らなかった。義父が亡くなった後で、動転した馨が口を滑らせなければ、きっとずっと知らなかったと思います」
姉さんが言っていた。
那須川勲は姉さんのインタビューの時に、馨と桜を『宝物』だと言ったと。
ゾッとした。
「そういう理由で、馨は年に一、二度しか実家には帰っていなかったらしく、義父と妹の不仲の理由を知らなかったんです」
「妹が恋人に金を渡していたことを咎められて、不仲になったと聞きましたけど」
「はい」
「妹の恋人が誰かは知っているんですか?」
「知っています。それを知ってしまったから、俺と馨は別れることになったんですから」と言って、高津は苦笑いをした。
「それでも聞きますか?」
「それが馨と桜の確執の根源なら」
「————馨の最初の義父、松野准一の息子、亨です」