まだお風呂の時間に間に合うかな。
仕事を終えて日が暮れてきた。颯懔の家では2日に1度、湯を炊いてお風呂に入れる。この時間ならまだ暖かい湯を浴びて、サッパリ出来るはず。一日中の畑仕事で汗と泥だらけだ。
大体、俊豪は指示出しばっかりで土いじりはあまりしないんだよなぁ。きっと金持ちかお偉いさんのところのお坊ちゃんなんだろうな。
ようやく屋敷が見えてきた。まずは颯懔に戻って来たと挨拶して、それからお風呂! っと。
パタパタと廊下を走って、突き当たりを左にっ!
「師匠、ただいま戻り……きゃあああ!!」
「むっ、明明か。風呂ならまだ間に合うぞ」
「あー良かった。じゃなくて! なんて格好しているんですか!」
颯懔の部屋の前で会ったのは、颯懔。
でも、服を着てない。腰に布を巻いているだけだ。
「明明! どうしたんだ?!」
私の叫び声を聞きつけた天宇が慌ててやって来た。手には剣が握られている。不審者では無いと分かると、ホッとしたように胸をなで下ろして剣をしまった。
「何だ、颯懔様でしたか。って、何でまた素っ裸なんですか」
「風呂場に替えの服を持って行くのを忘れたんだ。着ていた服を着るのは気持ちが悪いだろ」
「だっ、だからって……!」
「良いですか颯懔様。女子には刺激が強すぎるんですよ。早く服を着てきて下さい」
「刺激が強過ぎるって、今までだって……」
「いーから早く早く!」
天宇にグイグイと押されて、颯懔は部屋へと押し込められた。
「全く。颯懔様はこれまで屋敷に女が居なかったからって、鈍感になってるんだろうなぁ。さっ、明明も風呂に入ってこい。汚いぞ」
天宇に言われて、お風呂場へと向かった。目の粗い布で身体を擦って汚れを落としていくと、段々冷静になってきた。
さっきはなんであんな大騒ぎしちゃったんだろ。颯懔の裸なら、これまで何度も見てきたはずなのに。
頭から湯を被って正気を取り戻す。
颯懔は師匠! 照れる相手じゃないでしょ!!
風呂から上がって身支度を整え終わった後、颯懔の部屋へと足を運んだ。変質者でも見たかのように叫んでしまったので謝らないと。
「師匠、先程は失礼致しました」
「いや、俺も悪かった。その……今後は気を付ける」
「は、はい」
「…………」
「…………」
妙な沈黙を振り払うように、颯懔がわざとらしく咳払いをした。
「あー、それで、初仕事はどうだった」
「俊豪に手取り足取り教えて貰いながら、薬草畑の手入れをさせてもらいました」
「手取り足取り……?」
ピクり、と眉尻が動いた。あれ、なんか言い方変だったかな。
「えっと、正確に言うと、詳しく説明してもらいながら。ですね。俊豪本人は後ろから口出ししてばっかりだったので」
「ふーん。俊豪と言うのは確か、お主の事を捕らえた道士だったか?」
「はい。私よりも道士歴は少し長いくらいなのに、術を完全に封じられてしまいました。いくら私がポンコツだからって凄いですよねー! 近付かれたのだって全然気が付かなくて、気配の消し方も上手なんです」
「でも道士であろう?」
「そうですけど……」
颯懔は「はっ」と鼻で笑って頬杖をついた。
んん? いつもならこんな風に人を見下すような発言はしないんだけどな。今機嫌悪いのかな。話題を変えよう。
「そうだ師匠。可馨様が、師匠は昔から栽培された薬草は使わないと仰っていたのが気になって。確かにいつも採取して来るように言いますよね? どうしてですか」
「ふむ。明明。その辺に生えている野草と畑で取ってきた野菜、どちらの方が味が濃い」
「野草……ですかね」
渋さとかエグ味とかもひっくるめれば、野草の方が断然、味は濃い。その代わり野菜よりも食べにくいけれど。
「それと一緒だ。人の手で大事に育てられた薬草よりも、野草の方が生命力がある。生命力があると言うのは即ち、精気も濃いと言うこと。探す手間や選別と言った手間はかかるが、その分効果が上がる」
「あーあ! だから師匠の作る仙薬はよく効くと評判なんだ」
天宇が前に、仙薬作りにかけて颯懔の右に出るものは居ないと言っていた。単純に薬にかける術が凄いのだと思っていたけど、こう言う細かい所にもちゃんと気を配っているんだ。
「手抜きは良くないって事ですね」
「いいや、栽培された薬草を使うのが手抜きとは言わぬ」
「と言いますと?」
「例えば流行病が広まってしまって多くの人が苦しんでいる時。或いはその予防の為の仙薬を作るとしよう。そういう時にはよく効く薬を手間暇かけて少量作るよりも、多少効果は落ちても早く、沢山作って多くの人に渡した方が救える命は多くなる。良い悪いの問題ではなく、時と場合によると言う事だ」
それでこそ私の尊敬する師匠! 颯懔は色んな考えで物事を見れる人だ。やっぱりさっきのは虫の居所が悪かったんだな。
「だから今教えて貰っている事は今後、役に立つ事も有ろう。しっかりと学んでくるといい」
「はい」
話しが一区切りついたところで白茶を淹れる。
白茶は沸かしたての熱湯より、甘さを引き立たせるために少しだけ冷めた位の湯がいい。今頃きっといい塩梅だ。
茶壷に一度湯を入れ捨てて、そこへ茶葉ともう一度湯を注ぎ待つこと暫し。茶海へと茶を注げば、ふわふわと花のような香りが漂ってきた。茶杯にいれて渡すと、颯懔は美味しそうに茶を飲みはじめた。
私も後でいただこうっと。
白茶は3、4煎目だって十分に美味しいもんね。
「そうだ! 俊豪に聞いたんですけど、可馨様ってその昔、公主様だったそうですよ! ご存知でしたか?」
「ああ、知っている。西王母様がたまたま帝に会いに行った時に、子供の中に仙骨を持つ者がいると言って引き取ったそうだ」
「だからあんなに気品があるのですね。誰にでも親切で物腰も柔らかくて、本当に凄く素敵な方ですよね」
高貴な血筋の方だと言われてすぐに納得した。思い出すだけで、ほわわ〜んっとのぼせてしまいそうになる。
「物腰が柔らかい、ねぇ。あやつがそんな風に言われる日が来るとは。多少は丸くなった様だな」
はは、と懐かしむように颯懔が笑った。その顔を見た瞬間、何故かまた胸の辺りに痛みが走った。
颯懔も、可馨を良く知っているんだな。
自分が生まれてくるよりも、遥か昔からの知り合い。お互いによく知っている仲。
たったそれだけの事にズキズキと胸が痛む。
「どうした明明?」
「え?」
「顔色が優れぬようだが」
「そ、そうですか?」
「どれ、見せてみろ」
椅子から立ち上がって何をするかと思えば、颯懔がおでこに手のひらをあててきた。卓から身を乗り出した颯懔の顔が近い。
じっと見つめられて、頭に血が上る。
「さっきは顔色が暗く見えたが、今度は赤いな」
「あっ、えっと、張り切ってお仕事してきたらちょっと疲れてしまったようです」
「そうか? それなら薬をやろう。確かこの辺りに……」
棚に雑多に置かれた箱をゴソゴソと漁って探す颯懔。
もう耐えられない!
「いえっ! 一晩寝ればすぐ回復しますので!! それでは失礼します!」
パタンっ、と閉めた扉によりかかり、乱れた息を整えようと大きく息を吸い込んだ。
心臓の音がやけに大きく耳に響く。
――なんか私、変だ。
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