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ここは天の使いたちが住まう界域。その名を天界と呼ぶ。ここには多種多様な天使たちが、その悪辣なほどの個性を輝かせて己の仕事を全うしていた。

大半が天界の守護や警備ではあったが、侵入者を阻み迎撃するという仕事は特に好んでいるような面子もいる。しかし、そうそう飛んで火に入る夏の虫は訪れない。天使と相対する者とてただの阿呆ばかりではない。

むしろ、それに業を煮やして敵陣に攻め入ろうとする天使さえも現れようとしている始末であった。

そんな気の短い天の使いたちの元に、『神子』と呼ばれ可愛がられている少年がうんと背を反らして自身よりも余程大きい背丈を見上げる。そして、ふくふくと柔らかく小さな腕を伸ばした。

「おーすけ、だっこ」

「あん? 俺かよ、月詠とかいんだろうが」

「みょんぱじゃなくておーすけがいい」

「みょんぱではなく、ミョリンパ先生…そもそも僕はミョリンパ先生ではなく、月詠という名前が…」

「みょんぱうっさい! おーすけだっこ!」

むんずと顔をひしゃげて腕を伸ばす少年は、あと少し機嫌を損ねれば感情の洪水が奔流してしまいそうだった。それを察知した月詠は口を閉じ、桜介はガシガシと頭を荒々しく掻きむしってから幼子の身体を抱き上げる。

子供の身体は鍛えている身体にとっては負荷ですらない。しかし、子供はその身を包む腕の逞しさと随分と高度を増した視点をお気に召したようだ。

「ったく、なんで俺がガキの子守りなんざしなきゃなんねぇんだ。クソ、今頃他のやつは悪魔と闘ってんのかよ」

「攻め込まれていれば、だけれどね。まぁ、中には協定違反を犯している者もいるかもしれないけど」

「じゃあ俺が行ったって良いよなぁ!?」

「だめ! とーちゃんにいうぞ!」

「っ、クソ…!」

桜介が顔を歪めて舌を打つ。少年が父と慕う相手は今こそ現役を退いて隠居生活となっているが、天使たちを束ね指揮する立場にあった存在だ。その実力は折り紙付きで、彼に報告すると言われてしまえば口を噤む他無い。

しかし、天使たちの中には少年のことをよく思わない者もいる。常に父にべったりとくっ付いている少年を狙うことは難しいが、それでも好きが出来るタイミングなんていくらでもある。

そんな相手から少年──四季を守ることを頼まれているのが月詠と桜介、そして今ここにはいない旋律という男であった。

「おー、四季楽しかったかぁ?」

「とーちゃん! たのしかった! たかいぞ!」

「おー、そりゃ良かったな。お前らもまた四季頼んじまって悪いな。コイツも馬鹿じゃねぇのか、懐いてんのがお前らだけでよ」

そこへフラリと現れたのは四季の父である剛志であった。今日は天使の役員たちに呼ばれていたこともあり、普段は着物を着ているがこの日ばかりは久々に隊服に袖を通していた。

月詠たちは剛志の姿を見て頭を軽く下げる。そして剛志の言葉に四季に視線を向けた。

四季は話を理解した様子はなく、桜介のつけているネクタイを咥えていた。それにゲンナリと顔を歪めたのは桜介のみで、剛志と月詠は堪えきれなかったように吹き出した。

「おい、ネクタイ離せ。汚ぇな」

「う? とーちゃんだっこ!」

「ハイハイ、ワガママ小僧だな。お前は。悪いな、桜介。クリーニング代は出してやる」

「あー…別にいいっす。その代わり、また今度闘ってくださいよ」

「えぇ? お前の『闘う』は殺し合いだからな…ま、考えといてやるよ」

「あざっす!」

「まったく、桜介ばかりズルいなぁ」

月詠が肩を竦めてそう告げれば、桜介は勝ち誇ったようにフンと笑う。

相も変わらない二人の戦闘狂いの様子に剛志は苦笑を滲ませる。そして腕の中ですっかり寝息を立てる四季を抱き直して、後輩二人に向けて背を向けた。

「じゃあな、また頼むわ。今度旋律連れてメシに連れて行ってやる」

「おや、ありがとうございます。僕たち結構食べますよ」

「なに、構わねぇ。腹空かせて待っとけ」

剛志が住まう住居へと到着すると、四季は我先に家に入ろうと剛志の腕の中で暴れる。しかし、剛志はその身体を解放することなく、そのまま洗面所へと連れて行った。

「ほら、手ェ洗ってうがいしろ。じゃないと今日の晩メシ抜きだぞ」

「とーちゃんのはくじょーもの!」

「おま、それ誰が言ってたんだ?」

「みょんぱ」

「月詠…またじゃれあいでもしてたのか?」

薄情者、なんて子供が言うには衝撃の残る単語に情報元を探れば、先程別れた後輩だという。剛志は相変わらず仲の良さそうな後輩たちに苦笑を滲ませて夕飯の準備を始めた。

四季は剛志の実の子供ではない。そもそも、剛志に伴侶もいないのだから、子供を作れるはずもないのだ。

四季はかつて剛志が天使としての任務中に拾った捨て子だった。それでも、本当の息子のように可愛がっていて、四季ならば目に入れても痛くないと本気で思っている。度々生意気なところはあるが、そこも含めて愛らしいし、素直にとーちゃんと甘える姿はこの世界の何よりも可愛らしいと思っていた。要するに、親バカなのであった。

しかし、剛志は四季に伝えていない事実があった。きっとそれを知られてしまえば、天界を文字通りに揺るがせてしまうような。

それは命尽きるまで隠しきって、四季が平穏な生活で幸せだと笑う姿を見るその時まで死ぬことなど出来やしない。剛志はそんな覚悟さえも抱いていた。

何も知らずに巻き込んでしまっている後輩たちには申し訳なさも覚える。しかし、四季も懐く相手を選ぶあたり、他者からの視線に敏感なのだろうと思っていた。

「…四季、お前は親不孝モンなんかになるなよ」

だから、頼むから自分よりも先に逝ってくれるな。

毎日毎日健やかに走り回っては笑顔をこぼす四季を見る度に、剛志は泣きそうな程に安堵していた。子供は親より後に死ぬもんだ。剛志は度々そう呟いては四季の寝顔を見て柔らかな頬を撫でる。

この平穏を守る為ならば何だってする。それがたとえ、神に背く行為だったとしても。

「先輩、少しお時間よろしいですか」

「…五月雨…? 珍しい客だな…」

剛志はチラリと芋菓子を頬張る四季に視線を向ける。四季は菓子とテレビに映るアニメに夢中で剛志を気にかける素振りもない。これならば勝手にどこかに行くことはないだろうと、剛志は四季に背を向けて玄関に向かった。

「五月雨、どうしたよ。お前がここに来るなんて」

「先程の会議で伝達漏れがありまして。それを伝えに来たんです」

「あ? 悪ぃな、ンなパシリみたいなことさせちまってよ」

「いいえ…十分すぎる対価は頂きましたから」

五月雨の変わらぬ実直な声。それが紡いだ言葉に剛志は半ば反射的に家の様子を探る。そして、そこにいたはずの気配がまるっきり無くなっていることに気付いた。

瞬時に目の前の男に斬りかかって、視線のみで射殺さんばかりに鋭く睨み付ける。五月雨はそれに反応することなく、ただ刃を自身の刃で受け止めた。

「どけ…! 四季が…!」

「ええ、悪魔の子を処分するために参りました」

「…お前」

「悪魔を生かしておくわけにはいかない。先輩も分かるはずでしょう」

「…何もしてない奴を殺す必要がどこにある…!? 四季は、アイツはこれまでずっと遊んで笑って生きてきただけだ! アイツが何をした!?」

「…悪魔の持つ破壊因子。それがある限り、我々は彼らを駆除しなければならない」

剛志は五月雨の言葉に天を仰ぎ、深く息を吐いた。次の瞬間、剛志の右手には創り出された大剣が握られて五月雨に向かって振り下ろされる。

五月雨は読めていたとばかりに軽く避けると、その手に双剣を創り出す。

「先輩、悪魔を隠し育てた貴方も同罪です。アレが暴走すれば天界に甚大な被害を及ぼすこととなる。その責任は当然取られるんですよね」

「は、起きてもいねぇことを考えるたァ、天使ってのは随分と暇で面白くねぇ集団になっちまったみてぇだな」

「……随分と堕ちてしまったようだ。私がその考えを正してあげますよ」

「やってみやがれクソガキィ…!」

一方その頃、他の天使に攫われていた四季はただ黙って目を瞑っていた。例えばここが四季の慕う天使たち──月詠たちの勤務地の近くならば四季は喉が張り裂けようと叫び声を上げて助けを求めただろう。それはひとえに、微かでも声が届けば彼らは助けに来てくれる。その確信があるからだった。

しかし、ここはそこからは遠く離れた場所だった。──それこそ、魔界の縁に触れそうなほどの。

ここまで来てしまえば、声を上げたところで集まるのは敵ばかりだ。幼い四季にも本能的にそれは理解出来た。

四季は多くの天使から良い目で見られていないことを薄々勘づいていた。それ故、外に出る時は大体剛志か桜介にくっついていた。それは月詠は一部隊の隊長ということで天使が集まり、旋律はその男気に溢れた性格により慕われている。その点に関しては桜介も同様ではあるが、桜介に至っては大分口も悪ければ柄も悪い。それ故に彼のもとに集まる天使は旋律よりも少ないし、何よりも四季が困った時には躊躇いなく行動に移してくれる。仲間相手であったとしても躊躇いがないのだ。

「は…コイツを痛めつけて魔界に捨てれば特進…へへ、むしろこんなガキ殺してもいいだろ」

「悪魔であること自体が罪だからな、これは神の裁きなんだよ」

四季は震えた。このままここにいれば殺される。

四季は決死の覚悟で立ち上がって逃げようとするが、それに気付いた天使たちに攻撃されて地面に倒れ込んだ。

天使の攻撃は四季の足を撃ち抜いた。四季は恐怖に顔を歪めて天使たちに為す術なく見上げる。天使は下卑た顔で幼子を見下ろした。

そして四季は気付く。手を伸ばせば触れる距離に天界の境界が見えていた。天に聳える天界の遥か下に、大地広がる魔界が広がっている。

ここで天使に掴まって殺されるか、自殺同然に飛び降りて可能性に賭けるか、二つに一つだった。そして、四季は大好きな父の哀願するような声を知っている。

四季はゆっくりと立ち上がり、四季を甚振ろうと迫る天使を見上げて舌を出した。天使たちはそれに一瞬呆気にとられる。しかし、ハッと我に戻って手を伸ばした。

その頃には四季は天界の境界線を越えて、その小さな身体は空中に投げ出されていた。

「じゃーな、おろかなてんしのみなさん」

煽るように顔を歪めて口にするのは、月詠がかつて使っていた単語を合わせたもの。

やらかした、とばかりに顔面を蒼白に染める様が愉快でならない。しかし、迫り来る地面と時と共に増していく落下速度ばかりはどうしようもないだろう。

四季は脳裏に父の姿を思い浮かべてそっと目を閉じた。

「…とーちゃん、ごめんな」

直後、劈くような轟音が魔界に響いた。




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